最後の頁には、わたしがいない
エレナがその本を拾ったのは、雨の降る夕暮れでした。
町外れの古い図書館。
誰も使わなくなった最上階の窓辺に、深い青色の表紙をした本が一冊、置かれていました。
題名はありません。
金色の留め具を外すと、最初の頁に一行だけ書かれていました。
《明日は雨が降る。》
「今日も降ってるじゃない」
エレナは笑いました。
けれど翌朝。
夜のうちに止んでいた雨は、正午になると再び降り始めました。
偶然だと思いました。
次の日、本には新しい文章が増えていました。
《庭に白い猫が来る。》
昼過ぎ、本当に白い猫がやってきました。
濡れた薔薇の下から現れ、当然のようにエレナの膝へ乗りました。
「……あなた、本から来たの?」
猫は答えません。
ただ金色の瞳を細めました。
怖いより先に、わくわくしました。
だからエレナは、初めて自分で文章を書きました。
《明日、お母さんの熱が下がる。》
母は長いあいだ病気でした。
翌朝。
「エレナ」
台所から声がしました。
母が立っていました。
何か月ぶりでしょう。
朝日の中で、母はパンを焼いていました。
「お母さん……?」
抱きつくと温かかった。
エレナは泣きました。
その夜、震える手で本を開きました。
《お母さんの病気が治る。》
自分の字。
その下に、知らない文字で一行。
《そして少女は、幸福そうに泣きました。》
エレナは少し首を傾げました。
けれど、そのときは深く考えませんでした。
*
それからエレナは、たくさんの幸福を書きました。
《春には庭いっぱいに花が咲く。》
咲きました。
《お父さんが戦争から帰ってくる。》
帰ってきました。
《妹が元気に育つ。》
育ちました。
十七歳になった春。
《優しい人と出会う。》
翌日、エレナは町の菓子店で青年とぶつかりました。
名はルイス。
笑うと左頬に小さなくぼみのできる人でした。
二人は恋をしました。
夏の終わり、川辺でルイスが尋ねました。
「来年も一緒に来よう」
「来年だけ?」
「じゃあ、ずっと」
エレナは笑いました。
その夜、本へ書きました。
《ルイスと結婚する。》
白い花の咲く教会で、ルイスはエレナの指に指輪をはめました。
本には、いつの間にか文章が増えていました。
《二人は結婚した。》
《やがて娘が生まれた。》
エレナは息を止めました。
それはまだ書いていない未来でした。
けれど翌年、本当に娘が生まれました。
小さな指。 柔らかな頬。
胸に抱いた瞬間、これ以上の幸福はないと思いました。
本には、
《エレナは、この幸福が永遠に続けばいいと思いました。》
とありました。
その通りでした。
だから気づかなかったのです。
自分の人生より、本の頁のほうが先へ進んでいることに。
*
三十二歳の冬。
久しぶりに本を開いたエレナは、奇妙な文章を見つけました。
《少女は十二歳のとき、雨の図書館で本を拾った。》
指が止まりました。
次の頁。
《白い猫が庭へ来た。》
次。
《母親の病気が治った。》
頁をめくるたび、そこにはエレナの人生がありました。
ルイスとの出会い。
結婚。
娘の誕生。
「……誰が書いたの?」
誰も答えません。
さらに頁をめくります。
文章は現在へ近づいてきました。
《三十二歳の冬、エレナは久しぶりに本を開いた。》
息が止まりました。
《そして、自分の人生が書かれていることに気づいた。》
「やめて」
頁をめくる。
《怖くなった。》
「やめて」
《それでも頁をめくった。》
エレナは本を閉じました。
心臓が痛いほど鳴っています。
閉じたはずなのに紙の擦れる音がしました。
ぱらり。
ぱらり。
本がひとりでに開いていきます。
最後の頁。
そこには、一行だけありました。
《ここまで読んだので、少女の役目は終わった。》
「……嫌」
エレナはペンを掴みました。
《明日も私は生きている。》
書こうとしました。
けれどインクがつきません。
何度書いても紙は雪のように白いままでした。
「嫌よ」
階下へ走りました。
「ルイス!」
夫が振り返りました。
そして、困った顔をしました。
「……どちらさまですか?」
エレナは立ち止まりました。
「何を言ってるの?」
娘が父親の後ろから顔を出します。
「お父さん、その人誰?」
「私よ」
声が震えました。
「お母さんよ」
娘は怯えて、ルイスの服を掴みました。
壁に飾られた家族写真。
ルイス。 娘。
その隣には、誰もいません。
エレナは自分の手を見ました。
指先が透けていました。
*
図書館へ走りました。
雨が降っていました。
あの日と同じ雨。
最上階の窓辺で、本を開きます。
最初の頁。
《少女は雨の日、本を拾いました。》
そこでようやく分かりました。
本が未来を予言していたのではありません。
願いを叶えてくれたのでもありません。
エレナが本を書いていたのですらない。
最初から逆だったのです。
本が、エレナを書いていた。
十二歳の少女を。
病気の母を。
恋を。
結婚を。
娘を。
幸福な人生を。
頁に書かれたから、エレナは存在した。
そして物語が終われば、登場人物はもう必要ありません。
エレナは最後の頁を開きました。
真っ白でした。
不思議と、涙は出ませんでした。
窓の外では雨が止み、雲の切れ間から夕陽が差しています。
世界は、こんなにも綺麗でした。
たとえ誰かが書いたものだったとしても。
母を抱きしめた温かさも。
ルイスに恋をした胸の痛みも。
初めて娘を抱いた夜も。
エレナにとっては、本物でした。
「……そっか」
消えかけた指で、白い頁を撫でます。
そして笑いました。
「じゃあ、ここからは私が決めてもいいのね」
誰にも書かれていない頁。
初めて手に入れた、自分だけの未来。
エレナは本を閉じました。
その瞬間、最後の頁にゆっくりと文字が浮かびました。
《そう言って、少女は予定どおり笑いました。》
その下に、もう一行。
《そして、自分で本を閉じました。》
ぱたん。
小さな音がしました。
窓辺には、もう誰もいません。
青い表紙の本だけが残っていました。
*
翌朝。
図書館へ、一人の少女がやってきました。
十二歳くらいの少女でした。
雨宿りをする場所を探して、最上階まで迷い込んだのです。
「あれ?」
窓辺に本がありました。
深い青色の表紙。
題名はありません。
少女は金色の留め具を外しました。
最初の頁には、一行だけ。
《明日は雨が降る。》
少女は窓の外を見ました。
今日も雨です。
だから、おかしくなって笑いました。
「今日も降ってるじゃない」
誰もいない図書館で頁が一枚、ひとりでに、めくれました。




