世界で最後の恋人
世界から人が消え始めたのは、六月の終わりだった。
最初は一人だった。
隣町に住む老人。
朝食を食べていた妻が目を離し、もう一度振り返ると、椅子だけが残っていたという。
次の日は三人。
その次の日は十二人。
原因は分からなかった。
病気でも、災害でもない。
ただ、人だけが消えた。
服も、靴も、持っていた鞄も。
その人がいたという記録まで少しずつ、世界から薄れていった。
僕は新聞の切り抜きを整理していた。記事から消えた名前の跡を、誰にも見せずに確かめながら。
「私たちも消えるのかな」
ミアが尋ねた。
「消えないよ」
僕は答えた。
「どうして?」
「僕が離さないから」
ミアは笑った。
「馬鹿みたい」
「馬鹿でいい」
僕たちは手を繋いだ。
八月には、町の半分が消えた。
スーパーのレジに人はいない。
学校も閉鎖された。
テレビでは、疲れ切ったアナウンサーが毎日、残存人口を読み上げていた。
六十億。
四十億。
十億。
一億。
数字が減っていくたび、ミアは僕の手を強く握った。
僕たちは大学の同級生だった。
付き合い始めて三年。
卒業したら結婚しようと約束していた。
「世界が終わったら、結婚式できないね」
「するよ」
「誰を呼ぶの?」
「誰も呼ばなくていい」
「ドレスは?」
「店から借りる」
「店員さんいないよ」
「じゃあ、もらう」
「泥棒」
「警察もいない」
ミアが笑った。
その笑顔さえあれば、本当に何もいらないと思った。
秋、僕たちは誰もいなくなった町を歩いた。
好きだった喫茶店で勝手に珈琲を淹れた。
映画館で二人だけの上映会をした。
高級ホテルの最上階に泊まった。
宝石店で一番高そうな指輪を選び、僕はミアの左手にはめた。
「結婚してください」
ミアは泣いた。
「こんなときに?」
「こんなときだから」
彼女は笑って頷いた。
「はい」
誰も祝福しなかった。
けれど、世界で一番幸福な結婚だった。
十二月。
テレビが映らなくなった。
最後の放送で、アナウンサーは言った。
《確認されている生存者は――》
そこで映像が途切れた。
僕たちは顔を見合わせた。
「もしかして」
ミアが囁く。
「私たちだけ?」
窓の外には雪が降っていた。
音のない町。
車も走らない。
飛行機も飛ばない。
誰の声もしない。
僕はミアを抱きしめた。
「それでもいい」
彼女は僕の胸に顔を埋めた。
「私も」
世界に二人だけ。
奇妙なほど穏やかな日々だった。
朝起きる。
二人で食事をする。
散歩する。
本を読む。
夜になれば、同じベッドで眠る。
世界中のすべてが、僕たちのものだった。
けれどミアは、ときどき寂しそうな顔をした。
「ねえ」
「ん?」
「私のお母さんって、どんな人だったっけ」
僕は答えた。
「優しい人だったよ」
「そうだっけ」
「うん」
「写真、あった?」
「消えたんじゃないかな」
人が消えると、その人の記録も薄れていく。
だから仕方がない。
「じゃあ、私に弟っていた?」
「いないよ」
「……そっか」
僕はミアの頭を撫でた。
「僕がいる」
彼女は笑った。
「うん」
春。
ミアは古い大学の校舎で、一冊のノートを見つけた。
「これ、あなたの字じゃない?」
差し出された瞬間、心臓が跳ねた。
「違うよ」
「でも」
「似てるだけ」
僕はノートを取った。
表紙を開く前から、そこに何が書かれているか分かっていた。ページの隅に残った日付も、消された名前の数も。
その夜ミアが眠ってから、中庭で燃やした。
夏。
世界から人が消え始めて、一年が経った。
僕たちは教会で結婚式をした。
ミアは古い衣装店から見つけた白いドレスを着た。
僕は祭壇の前で彼女を待った。
誰もいない長椅子。
鳴らない鐘。
いない神父。
それでも彼女は美しかった。
「誓いますか?」
ミアが笑って尋ねた。
「誓います」
「何を?」
僕は彼女の手を取った。
「君を、世界で最後の恋人にすることを」
ミアは少し不思議そうな顔をした。
「最後?」
「最後まで、って意味」
「ああ」
彼女は笑った。
「私も誓います」
その夜、ミアは先に眠った。
僕は眠れなかった。
月明かりの中、彼女の寝顔を見つめていた。
世界で最後の人。
僕の恋人。
僕だけのミア。
胸が満たされた。
だから日記を書くことにした。
いつか僕まで消えたとき、彼女が一人になっても僕が彼女をどれほど愛したか分かるように。
《六月三日》
《成功。》
《最初の一人が消えた。》
ペンを止める。
《六月七日》
《範囲を広げる。》
《対象の存在を、人の記憶と記録から同時に切り離せることを確認。》
頁をめくる。
《七月十九日》
《ミアの父親を消した。》
《三日で思い出さなくなった。》
次。
《八月二日》
《母親。》
《八月十一日》
《弟。》
《八月二十六日》
《友人。》
《九月十四日》
《元恋人。》
そこで背後から声がした。
「……元恋人?」
身体が固まった。
振り返る。
ミアが立っていた。
裸足だった。
「起きてたの?」
彼女は答えなかった。
日記を見ている。
「私、弟いたの?」
沈黙。
「お母さんも、お父さんも」
僕は立ち上がった。
「ミア」
「元恋人って誰?」
「聞いて」
「人が消えたんじゃないの?」
彼女の声が震えた。
「あなたが消したの?」
僕は何も言えなかった。
ミアの顔から血の気が引いた。
「どうして」
答えは簡単だった。
だから、正直に言った。
「君が僕を選ばなかったから」
ミアが息を止めた。
僕はずっと彼女が好きだった。
大学一年から。
けれど彼女には恋人がいた。
友達がいた。
家族がいた。
僕の入る場所はなかった。
だから少しずつ消した。
彼女の世界から。
邪魔な人を。
それでもミアは僕を選ばなかった。
だから範囲を広げた。
町。
国。
世界。
誰もいなくなれば、最後に残った僕を愛するしかない。
「私たち……大学で付き合ったんじゃないの?」
「違う」
「三年間……」
「僕が教えた」
「卒業したら結婚しようって」
「僕が何度も言った」
彼女は後ずさった。
「私の記憶……」
「大丈夫」
僕は微笑んだ。
「また忘れるから」
ミアが逃げた。
僕は追わなかった。
必要がない。
玄関。
道路。
広場。
どこまで行っても誰もいない。
助けを求める相手など、もう世界のどこにもいない。
しばらくしてミアは帰ってきた。
泣いていた。
「……誰もいなかった」
「うん」
「本当に」
「うん」
「私たちしか」
僕は両腕を広げた。ミアは最初動かなかった。
やがてゆっくりと僕の胸へ顔を埋めた。
震えていた。
僕は優しく抱きしめた。
「大丈夫」
髪を撫でる。
「明日には、忘れるよ」
*
翌朝。
ミアは僕の隣で目を覚ました。
「おはよう」
「おはよう」
彼女は少し不思議そうに部屋を見回した。
机の上には、燃やし忘れた日記があった。
「これ、何?」
「僕たちの日記だよ」
「へえ」
ミアは笑った。
窓の外には、誰もいない世界が広がっていた。
「ねえ」
「なに?」
「私たちって、いつから付き合ってるんだっけ?」
僕は彼女の手を取った。
薬指には、あの日選んだ指輪。
「三年前から」
「そっか」
ミアは安心したように笑った。
「なんだか、もっとずっと一緒にいた気がする」
「僕もだよ」
嘘ではなかった。
世界から最後の一人を消すつもりはない。
ミアだけは絶対に消さない。
だって、誰もいない世界では彼女が僕を愛しているという記憶を疑う人間も、それが本当の記憶ではないと教える人間も、もう一人も残っていない。
ミアは窓を開けた。
誰もいない町へ、朝の光が降り注ぐ。
「綺麗」
「うん」
「世界に二人だけなんて、少し寂しいね」
僕は彼女の肩を抱いた。
「大丈夫」
そして。
昨日と同じ言葉を囁いた。
「僕がいるよ」
ミアは微笑んだ。
けれど、その笑顔は一瞬だけ遅れた。
まるで、聞き慣れた言葉を思い出そうとしているように。
「……僕が、いる」
彼女は小さく呟いた。
僕の言葉を繰り返したのか。
それとも、誰か別の人の声を探していたのか。
「そうだよ」
僕は笑った。
「僕だけがいる」
ミアは窓の外を見た。
朝の光の中、誰もいない道路の向こうに、古い信号機が立っている。
赤。
青。
赤。
誰も渡らない交差点で、信号だけが規則正しく色を変えていた。
ミアはそれを見つめたまま、指輪に触れた。
「ねえ」
「なに?」
「私、前にもここで……」
彼女は言葉を止めた。
「前にも、何?」
「ううん」
ミアは首を振った。
「何でもない」
そう言って、僕の手を握った。
けれどその指先は、僕の手を探しているのではなかった。
何かを確かめるよう。
何かがまだ残っているか、確かめるように。
その夜、彼女が眠ったあと、僕は日記を開いた。
最後の頁に、見覚えのない文字が増えていた。
《六月三日》
《成功。》
その下に、僕の字ではない一行。
《あなたは、いつから私を知っているの?》
息が止まった。
頁をめくる。
次の頁にも。
《お母さんは優しい人だった。》
その下に、別の筆跡で。
《違う。よく怒る人だった。》
さらにめくる。
《弟はいない。》
《いた。名前は――》
そこだけが、黒く塗り潰されていた。
背後でベッドが軋んだ。
振り返ると、ミアが目を開けていた。
暗闇の中で、彼女は僕を見ていた。
「ねえ」
「起きてたの?」
「うん」
ミアは微笑んだ。
その笑顔は、いつもの彼女のものだった。
けれど、声だけが違っていた。
「あなたが眠ったら、私も忘れるの?」
僕は答えられなかった。
彼女はゆっくり起き上がり、日記を見た。
「大丈夫」
僕は言った。
「明日には、全部忘れるよ」
「そう」
ミアは頷いた。
そして、僕の耳元で囁いた。
「じゃあ、明日も忘れたふりをするね」
窓の外で、信号が赤に変わった。
誰もいない町のどこかで、電話が鳴った。
ミアはその音に顔を上げた。
「誰かいる」
「いないよ」
「でも、今」
「気のせいだよ」
僕は日記を閉じた。
鍵をかけた。
ミアの手を握った。
彼女は抵抗しなかった。
ただ、暗い窓に映った自分の顔を見つめていた。
その唇が、僕には聞こえないほど小さく動く。
誰かの名前を呼んだように見えた。
僕は彼女を抱きしめた。
「僕がいるよ」
ミアは僕の胸に顔を埋めた。
しばらくして、彼女は笑った。
「うん」
けれどその声は、僕に向けられたものではなかった。
窓の外では、誰もいないはずの町に、ひとつ、またひとつと明かりが灯っていく。
ミアはそれを見ていた。
僕の腕の中で、何かを思い出しながら。
あるいは、思い出したことを、忘れたふりをしながら。




