君の顔だけ思い出せない
君の顔だけ、思い出せない。
声は覚えている。
少し低く、眠そうな声。
歩き方も。
右足を、わずかに引きずる癖。
珈琲には砂糖を入れない。
雨の日は紺色の傘。
本を読むときは左手で頁をめくる。
考えごとをすると、親指で唇の端に触れる。
好きな花は紫陽花。
嫌いな食べ物は人参。
毎週木曜日、駅前の書店へ寄る。
誕生日は五月二十六日。
何もかも覚えている。
なのに、顔だけが思い出せない。
「事故のショックでしょう」
医者はそう言った。
恋人の悠人が死んだのは、三年前。
雨の夜、駅前の交差点で車にはねられた。
即死だった。
知らせを聞いてから、彼の顔だけが思い出せない。
記憶の中の悠人には、顔がない。
輪郭と黒い髪はある。
けれど、顔だけ白く塗り潰されている。
「脳が辛い記憶を拒絶しているのかもしれません」
そう言われれば、そんな気もした。
私は悠人を愛していた。
たぶん。
いや。
絶対に。
毎朝、彼が乗る電車を知っていた。
七時四十二分。
三両目。
後ろから二番目の扉。
仕事帰りに寄るスーパーも。
火曜日は牛乳。
金曜日は冷凍食品。
月末には、少し高いビールを一本。
部屋の灯りが消えるのは、午前零時十五分ごろ。
眠れない夜は、一時を過ぎてもカーテンの隙間から光が漏れていた。
そこまで覚えているのになぜ、顔だけ忘れたのだろう。
写真を探した。
一枚もなかった。
携帯にも、アルバムにも、部屋にも。
二人で撮った写真が、どこにもない。
「悠人、写真嫌いだったものね」
私は呟いた。
そうだった。
きっと。
母に悠人の話をすると、母は困った顔をした。
「その人のこと、まだ考えてるの?」
「恋人だったんだよ」
「……そうね」
「お母さんも会ったでしょう?」
母は黙った。
「ずいぶん前だから」
それで話は終わった。
ある日、古い鞄から映画の半券が出てきた。
四年前のもの。
悠人と観た映画だ。
あの日、彼は遅刻した。
私は映画館の前で四十分待った。
やっと来た悠人は、知らない女と一緒だった。
妹だと言っていた。たぶん。
私は怒って、離れた席に座った。
映画の間、一度も話さなかった。
帰りも別々だった。
懐かしい。
そう思った。
次に見つけたのは、古い手帳だった。
悠人との思い出が、びっしり書かれている。
四月十二日。
《今日は青いシャツ。似合っていた。》
四月十三日。
《駅で会えなかった。》
四月十四日。
《コンビニでサンドイッチ。卵。》
四月十五日。
《今日は帰りが遅い。十一時四十八分。》
四月十六日。
《女の人と話していた。誰?》
頁をめくる手が止まった。
恋人の日記にしては、妙だった。
《七時四十二分。いつもの車両。》
《新しい靴。黒。》
《今日は書店に寄らなかった。》
《カーテン二十三時五十二分。》
《部屋の電気、一時十三分まで。》
胸の奥がざわついた。
次の頁。
《今日は目が合った。》
その一行だけ、赤いペンで囲まれている。
さらに。
《笑ってくれた気がする。》
《やっぱり私のことを知っている。》
《あと少し。》
私は手帳を閉じた。
「……何、これ」
声が震えた。
その夜は眠れなかった。
翌日、悠人の名前を調べた。
古い新聞記事が見つかった。
三年前の六月二日。
《駅前交差点で男性死亡》
被害者、二十六歳会社員。
佐伯悠人。
間違いない。
記事には事故の状況が書かれていた。
午後十一時二十分ごろ、男性が車道へ飛び出し、走行中の車にはねられた。
その直前、男性は一人の女性から逃げていた可能性がある。
息が止まった。
続きを読む。
《死亡した佐伯さんは、生前、知人に「知らない女性につきまとわれている」と相談していた》
指が冷たくなった。
違う。
何かの間違いだ。
さらに古い記事があった。
《警察への相談記録あり》
《自宅付近での待ち伏せ》
《勤務先までの尾行》
《郵便受けへの手紙》
《駅構内での接触》
そして。
女性の名前。
私だった。
画面を閉じた。
息ができない。
「違う」
私は呟いた。
「恋人だった」
だって全部知っている。
珈琲も。
電車も。
スーパーも。
眠る時間も。
誕生日も。
好きな花も。
全部。
――どうして?
頭の中で、誰かが尋ねた。
恋人なら、なぜ毎朝彼の乗る電車を覚える必要があった?
なぜ部屋の灯りを外から見ていた?
なぜ映画館で四十分待ち、彼が知らない女性と現れた?
なぜ二人の写真が一枚もない?
そして、なぜ顔だけが思い出せない?
震える手で手帳を開いた。
最後の頁。
事故の日。
《今日こそ話す。》
《ちゃんと分かってもらう。》
《悠人は怖がっているだけ。》
《私が好きだと認めるのが怖いだけ。》
最後の一行。
《逃げても大丈夫。私は悠人の行くところを全部知ってる。》
手帳を落とした。
思い出した。
雨。
紺色の傘。
駅前。
「待って!」
私が呼ぶ。
悠人が振り返る。
その顔を、初めてはっきり思い出した。
恐怖。
私を見て、怯えていた。
「来ないでください」
「どうして敬語なの?」
「警察を呼びます」
「また冗談言って」
「あなたのこと、知りません」
「嘘」
悠人は走った。
私は追った。
「待って!」
「来るな!」
「話せば分かるから!」
雨。
ヘッドライト。
ブレーキ音。
そして彼は死んだ。
私は床に座り込んだ。
私は恋人を亡くしたのではなかった。
好きな人を追いかけて。
死なせた。
だから顔を忘れた。
違う。
忘れたかったのだ。
あの最後の顔だけを。
*
それから、悠人のことを考えないようにした。
手帳を捨てた。
新聞記事も見なかった。
カーテンを閉めて眠った。
半年ほど経ったころ。
駅で、一人の男性を見かけた。
黒い髪。
紺色の傘。
右足を少し引きずっている。
胸が鳴った。
違う。
悠人ではない。
顔も違う。
それなのに。
男性は七時四十二分の電車に乗った。
三両目、後ろから二番目の扉。
私はホームに立ち尽くした。
偶然。
ただの偶然。
翌日も、彼は同じ電車に乗った。
その翌日も。
木曜日、駅前の書店へ寄った。
私は遠くから見ていた。
そして気づいた。
本を読むとき、左手で頁をめくる。
考えごとをすると、親指で唇の端に触れる。
心臓が速くなった。
私は笑った。
やっと分かった。
なぜ、悠人の顔だけ思い出せなかったのか。
きっと、顔は大事ではなかったのだ。
私は鞄から新しい手帳を取り出した。
最初の頁を開く。
六月十二日。
《黒い靴。》
六月十三日。
《珈琲。砂糖なし。》
六月十四日。
《七時四十二分。三両目。》
六月十五日。
赤いペンで書いた。
《今日は目が合った。》
丸で囲むその下に。
《笑ってくれた気がする。》
ペンを置いた。
ホームの向こうで、彼がこちらを見ていた。
その顔はまだよく覚えていない。
けれど、もう大丈夫だ。
顔を覚える必要はない。
私は彼の帰る時間も、部屋の灯りが消える時刻も、眠れない夜にカーテンの隙間から漏れる光の色も、すべて知っている。
今度こそ、逃がさない。




