あなたの夢で会いましょう
眠れば、あなたに会える。
それに気づいたのは、あなたが死んで七日目の夜だった。
夢の中には、一面の白い花畑が広がっていた。空は薄紫色で、太陽も月もないのに、不思議なくらい明るい。その真ん中に、あなたは立っていた。
「遅かったね、リナ」
私は何度も転びそうになりながら走り、あなたの胸へ飛び込んだ。
温かかった。死んだ人なのに、ちゃんと温かかった。
「エドワード」
名前を呼んだ瞬間、涙があふれた。
「どうして死んだの」
「ごめん」
「馬鹿」
「うん」
「置いていかないでよ」
「ごめん」
私はあなたの胸を何度も叩いた。あなたは怒らず、生きていたころと同じように、私が泣き止むまで髪を撫でてくれた。
やがて遠くで鐘が鳴り、あなたは私を離した。
「もう行かないと」
「どこへ?」
「起きる時間」
「嫌」
「リナ」
「嫌よ」
私はあなたの服を掴んだ。あなたは困ったように笑う。
「また眠れば会えるよ」
そして、目が覚めた。
頬は濡れていた。けれど私は笑っていた。
だって、また会える。
その日から、私は眠ることに安らぎを覚えた。
夜になるとあなたに会い、白い花畑で今日食べたものや、庭に鳥が来たこと、あなたの葬式で叔父さまが転んだことを話した。
「笑っちゃ駄目でしょう」
「リナも笑ってる」
「だって、あなたなら絶対笑ったもの」
「まあね」
二人で笑った。
死んだこと以外は、何も変わらなかった。
だから私は少しずつ眠りを延ばしていった。
最初は夜だけだったのが、やがて昼寝もするようになる。
朝食を食べて眠り、昼に起きて少し水を飲み、また横になる。
母は心配した。
「リナ、外へ出なさい」
「嫌」
「少し痩せたわ」
「大丈夫」
「いつまでこんな生活をするの?」
私は答えなかった。
起きている時間に意味などなかった。あなたのいない世界なのだから。
夢の中で、あなたはいつも同じだった。二十二歳、死んだ日のまま。
「リナ」
ある夜、あなたが言った。
「もう、ここへ来ないほうがいい」
私は笑った。
「何言ってるの」
「ちゃんと生きないと」
「生きてるよ」
「これは生きてるって言わない」
「あなたに会えるもの」
「だからだよ」
あなたは視線を伏せた。
「僕に会うために眠るのは、もうやめて」
胸の奥が冷えた。
「死んだくせに、偉そうに言わないで」
あなたは黙った。
「私を置いていったのは、あなたでしょう」
「……うん」
「だったら責任を取ってよ」
長い沈黙のあと、あなたは私の髪に触れた。
「分かった。今夜だけは、ここにいる」
春が来るころ、私はほとんど寝台から出なくなった。
医者が来て、何か難しい話をしていた。
母は泣いていたが、どうでもよかった。
眠れば、あなたがいる。
ただ、あなたは少しずつ薄くなっていった。
最初は指先だった。向こう側の花が透けて見える。
「どうしたの?」
「何が?」
「手」
あなたは自分の手を見た。
「そろそろなのかも」
「何が?」
答えはなかった。
次の夜には足が透け、その次には肩まで消えた。
私は息を呑んだ。
「消えないで」
「リナ」
「もっと眠ればいい?」
あなたの顔が曇った。
「そういうことじゃない」
「ずっとここにいれば、消えない?」
「駄目だ」
「どうして?」
「まだこっちへ来ちゃ駄目だから」
初めて、あなたの声が花畑を裂いた。
「生きて」
「あなたがいないのに?」
「それでも」
「嫌」
「リナ」
「嫌よ」
私はあなたの手を握った。指の輪郭が、掌の中でほどけていく。
「だったら私も、ここにいる」
あなたは答えなかった。
それから私は、起きることをやめた。
*
どれくらい経ったのか分からない。
白い花畑で、あなたはもうほとんど透明だった。顔だけが残っている。
「リナ」
「なに?」
「もう時間だよ」
「どこにも行かない」
「違う」
あなたはかすかに笑った。
「君が起きる時間」
遠くで声が聞こえた。誰かが私の名前を呼んでいる。母、医者、知らない人たち。
私はあなたに抱きついた。腕は身体をすり抜けた。
「嫌!」
「聞いて」
「ひとりにしないで」
「ひとりじゃない」
「あなたがいなくなる!」
あなたは微笑んだ。
「最初から、僕はいないよ」
私は動きを止めた。
「……何?」
答えを待つ間もなく、白い花畑が崩れた。
目を開けると、白い天井が見えた。薬品の匂いがし、身体にはいくつもの管が繋がれている。隣で母が泣いていた。
「リナ」
母は私の手を握った。
「分かる?」
声を出そうとすると、喉が痛んだ。
「……エドワードは?」
母の顔が止まった。
「誰?」
「エドワード」
「誰のこと?」
私は冗談だと思って笑った。
「私の恋人」
母は何も言わなかった。
その後、私は知らされた。
私は二年と七か月、原因不明の昏睡状態にあった。
そして、エドワードという青年は存在しなかった。
家族も知らない。友人も知らない。学校の記録にもいない。写真も、手紙も、電話番号も、墓もない。
私は恋人を亡くしてなどいなかった。
そもそも、恋人など一度もいなかった。
「そんなはずない」
何度訴えても、誰も信じなかった。
私は必死で思い出そうとした。
初めて会った場所は、思い出せない。
最初のデートも、誕生日も、家族も知らない。
どうして死んだのかも分からない。
なのに、声だけは覚えていた。笑い方も、手の温度も、私を呼ぶ声も。
――遅かったね、リナ。
絶対に、いた。
退院する前日、私は病棟を歩いた。
二年七か月ぶりの廊下。その突き当たり、私の病室の隣に、ずっと使われていない個室があった。
扉が開いていた。
なぜか足が止まる。
中には誰もいない。白い寝台だけがあり、窓辺には一輪の白い花が置かれていた。夢の花と同じだった。
看護師が通りかかった。
「この部屋、誰が使ってたんですか?」
看護師は首を傾げた。
「ずっと空室ですよ」
「ずっと?」
「少なくとも、あなたが入院してからは」
私は花へ近づいた。
枕元に、小さな傷があった。爪か何かで刻んだような文字だった。
――リナ。
私は息を止めた。
その下に、もう一行。
――まだ起きないで。
背後で看護師が息を呑んだ。
「……これ、誰が書いたんでしょう」
私は答えられなかった。
その夜、眠るのが怖かった。
二年七か月ぶりに、私は必死で目を開けていた。
時計が午前二時を過ぎ、三時、四時と進んでいく。
そして、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
白い花畑だった。
私は立っていた。あなたはいない。
「エドワード?」
返事はない。
「エドワード!」
白い花だけが揺れていた。
そのとき、背後から声がした。
「名前」
振り返ると、十歳くらいの知らない男の子が立っていた。
「なに?」
「その人の名前」
男の子は言った。
「エドワードじゃないよ」
身体が冷えた。
「……じゃあ、誰?」
男の子は首を傾げた。
「知らない」
そして私を指差し、笑った。
「だって、その名前、前は君が使ってた名前だもん」
目が覚めた。
朝だった。母が隣で眠っている。
私は震える手で、自分の古い診療記録を開いた。入院時の記録。名前は、リナ・エヴァンス。
その下に、訂正された跡があった。
黒い線で消された文字。目を凝らすと、読めた。
《エドワード・エヴァンス》
私は記録を落とし、看護師を呼んだ。
「これ、何ですか?」
看護師は紙を見た。
「何がです?」
「ここ」
「……リナ・エヴァンスさん、と書いてありますけど」
「その下!」
「下?」
看護師には見えていなかった。
その日の午後、私は退院した。
病院を出る直前、もう一度だけ隣の部屋を見た。
白い花は消えていた。
代わりに、枕元の文字が増えていた。
――リナ。
――まだ起きないで。
そして、三行目。
――次は、あなたが待つ番。
私はそれ以来、夢を見ない。
眠っても、何も見ない。
ただ、ときどき、知らない誰かの夢の中で白い花畑に立っているような気がする。
そこで私は、知らない少女が走ってくるのを待っている。
その子が私を見つけると、泣きながら知らない名前を呼ぶ。
私はその名前を知らない。その子のことも知らない。
それでも、なぜか口が勝手に動く。
「遅かったね」
少女は私に抱きつく。私はその髪を撫でる。
そして、目を覚ます直前、必ず同じことを言う。
「また眠れば会えるよ」
そう言うたび、自分の名前をひとつずつ忘れていく。
リナという音が、舌の上でほどけていく。
リナ。リナ。リナ。
それはもう、私を指す名前なのか、かつて誰かを待っていた女の名前なのか、分からない。
やがて私は、自分が誰だったのかさえ思い出せなくなる。
それでも、白い花畑には立ち続ける。
次に眠る誰かが、私を見つけるまで。
その人が、私の知らない名前を呼ぶまで。
そして私は、もう自分の名前を名乗れないまま、かつてあなたがそうしたように、微笑んで言う。
「遅かったね」
その言葉を口にするたび、私の中から最後の名前が消えていく。
それでも待つ。
次の夢見る人が来るまで。
次の誰かが、私を必要とするまで。
次の誰かが、私を忘れるまで。




