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百年後に結婚しましょう

「百年後に結婚しよう」


死の床で、青年はそう言った。

窓の外では雪が降っていた。


彼はまだ二十三歳だった。

魔女のセレネは、彼の手を握っていた。


「馬鹿ね」


泣きながら笑った。


「百年後なんて、あなたは生きていないわ」


「だから、生まれ変わる」


「そんなこと、できるの?」


「やってみる」


青年は笑った。

その笑顔を、セレネは生涯忘れなかった。


「必ず君を見つけるよ」


「私が先に見つけるかもしれない」


「じゃあ、目印を決めよう」


青年は考えた。


「僕は君に会ったら、こう言う」


彼は弱った指で、セレネの頬に触れた。


「月が綺麗ですね」


「ありきたり」


「覚えやすいだろ?」


「忘れないわ」


「百年後」


「ええ」


「結婚しよう」


その夜、彼は死んだ。


セレネは歳を取らなかった。

二十三歳の姿のまま、百年を生きた。


国が変わった。

王が変わった。

街が変わった。


彼と暮らした家だけは残した。

月の見える窓も。


その窓辺には、いつからか小さな木箱が置かれていた。

中には、彼が最後に触れた古い手帳と、名前を書き留めるための紙が入っていた。

セレネはそれを開くたび、彼の声を思い出そうとした。


そして百年目の春。


セレネは一人の青年に出会った。


黒い髪。

優しい目。

笑うと少しだけ左の頬が上がる。


彼に似ていた。


名前はルイス。


二十二歳だった。


セレネは震えた。


「……月が」


青年が空を見上げた。

心臓が跳ねた。


「月が?」


「綺麗ですね」


セレネは泣いた。

青年は驚いた。


「どうしました?」


「遅いわよ」


「え?」


セレネは彼を抱きしめた。


「百年も待ったのよ」


ルイスは困惑していた。

けれどセレネは確信していた。


帰ってきた。

約束どおり、彼は帰ってきた。


※


二人は恋をした。

一年後、結婚した。


ルイスはセレネの作る林檎のパイが好きだった。

以前の彼も好きだった。


眠るときは右側を向いた。

以前の彼もそうだった。


花を摘むとき、必ず一本だけ残した。

それも同じだった。


「やっぱり、あなたなのね」


セレネが言うと、ルイスは笑った。


「誰のこと?」


「秘密」


幸せだった。

けれど人間は老いる。


ルイスは七十九歳で死んだ。


最期の日にセレネは尋ねた。


「また百年後?」


老人になった夫は笑った。


「百年後」


そして死んだ。

セレネは待った。


※


百年後。


今度は金髪の青年だった。


瞳の色も違った。

けれど笑い方が似ていた。


名はノエル。


出会った夜、彼は月を見上げた。


「綺麗な月ですね」


セレネは微笑んだ。


「見つけた」


二人は結婚した。


また百年。


次はエリオット。

その次はユアン。

その次はテオ。


セレネは何度も恋をした。


何度も結婚した。

何度も夫を看取った。


夫が死ぬたび、セレネは古い木箱を開け、新しい名前を紙に書き足した。

けれど最初の紙に記された名前は、何度見ても滲んで読めなかった。

彼女はそれを涙のせいだと思っていた。


※


千年が過ぎた。


世界はすっかり変わっていた。

馬車は消えた。

城壁もなくなった。

彼と歩いた森には町ができた。


月の見える窓だけが、古い家に残っていた。

それでもセレネは待った。


十人目の彼は、アレンという青年だった。


本屋で働いていた。

セレネが店へ入ると、彼は窓の外を見て言った。


「今日は月が綺麗ですね」


セレネは立ち尽くした。


胸の奥で、千年前の約束が一斉に目を覚ました。

嬉しい。怖い。もう一度失うことになるかもしれないという予感が、喜びの底に冷たい影を落とした。

それでも、彼を見つけたという確信に縋らずにはいられなかった。


また会えた。

そう思った。


アレンが尋ねた。


「どうして泣いたんですか?」


「あなたが帰ってきたから」


「帰って?」


セレネは笑った。


「前世の話」


アレンも笑った。

冗談だと思ったらしい。


「僕、前世でも本屋でした?」


「違うわ」


「どんな人?」


セレネは答えようとした。


黒い髪。

……だった。


瞳は何色だった?

声は?

笑い方は?

好きな食べ物は?

月の下で、何と言った?


思い出したいのに、指の隙間から砂のようにこぼれていく。

あれほど長く待ったのに、愛していたはずなのに、顔も声も、確かな輪郭さえ残っていない。

その事実が、彼を待ち続けた年月そのものを裏切っているようで、セレネは息が苦しくなった。


セレネは黙った。


「どうしました?」


「……忘れただけ」


その夜セレネは屋敷の地下へ降りた。

階段の下は、月の届かない場所だった。


そこには歴代の夫たちの日記を収めた箱が、年代順に並べられていた。


百年前。

二百年前。

五百年前。

千年前。


箱の蓋には、それぞれ夫の名前が記されている。

セレネは最初の箱を開けた。


一人目。

ルイス。


古びた日記には、彼自身の字でこう書かれていた。


――今日、不思議な女性に出会った。

――月が綺麗だと言ったら、突然泣かれた。

――どうやら亡くなった恋人に似ているらしい。


セレネの手が止まった。


胸の奥に鈍い痛みが広がった。

彼らは皆、彼女の期待に気づいていた。

気づきながら、彼女を悲しませないために、知らない誰かの代わりを演じていたのだ。


次の頁。


――彼女は林檎のパイが好きかと尋ねた。

――好きだと答えたら、とても嬉しそうだった。

――本当は甘いものが苦手だ。


セレネは次の箱を開けた。


ノエル。


――彼女は私を誰かと間違えている。

――訂正すると悲しそうな顔をするので、最近は合わせるようになった。


次。


エリオット。


――月を見るたび、彼女が期待した顔をする。

――だから「綺麗ですね」と言うことにした。


次。


ユアン。


――前の夫も花を一本残したらしい。

――彼女が嬉しそうだったので、私もそうしている。


次。


テオ。


――彼女は私を愛している。

――ただし、それが私なのかは分からない。


セレネは箱を閉じた。


指が震えていた。


彼らは彼ではなかった。

それなのに、彼女は彼らの優しさを、彼の帰還の証にすり替えていた。

愛されていたのではなく、愛していると思い込むために彼らを使っていたのかもしれない。

そう思うと、胸の奥に罪悪感が突き刺さった。


では、誰だったのだろう。

最初の彼は。


本当に黒髪だった?

林檎のパイが好きだった?

右を向いて眠った?

花を一本残した?

月を見て、何と言った?


セレネは、いちばん古い箱を探した。


千年以上前。


彼が死んだ夜のもの。

棚の奥から、他の箱よりひどく傷んだ箱を取り出す。


蓋には名前がなかった。

中に入っていたのは、一冊の日記だけだった。


彼自身の日記。

最後の頁は、死ぬ三日前。


――セレネがまた、百年後の話をしている。


セレネの呼吸が止まった。


また。


その一語が、何度も繰り返された。

彼女はずっと、最初の約束だと思っていた。

けれど彼にとっては、もっと前から続いていた話だったのかもしれない。

自分は彼を見つけたのではなく、彼を見つける物語を、何度も作り直していたのではないか。


次の行。


――彼女は、私が生まれ変わると言って聞かない。

――そんな約束をした覚えはない。


そして。


最後。


――最近、彼女は私を「レオン」と呼ぶ。


――僕の名前は、アルノーなのに。


日記が床へ落ちた。

乾いた音がした。

セレネは動かなかった。


長いあいだただ、月明かりの届かない地下に立っていた。


自分が愛した人の名前すら、間違えていた。

約束も、記憶も、彼の死後に自分が抱きしめていたものも、すべてが自分の願いから生まれた幻だった。

逃げ出したかった。

けれど、日記を閉じてしまえば、最後に残った真実まで消えてしまう気がして、指一本動かせなかった。


やがて階段の上から声がした。


「セレネ?」


アレンだった。


「大丈夫?」


セレネは日記を拾った。

そして微笑んだ。


「ええ」


箱へ戻す。

蓋を閉める。


「少し、昔を思い出していただけ」


本当は、何も思い出せなかった。

思い出したのは、忘れていたという事実だけだった。

それでもアレンの声を聞いた瞬間、胸の奥に安堵が広がった。

彼が誰であろうと、今ここにいる。その事実だけに、縋りつきたかった。


アレンは彼女の隣へ来た。

窓から月が見えた。


「綺麗ですね」


アレンが言った。

セレネは彼を見た。


黒い髪ではない。

瞳も違う。

声も違う。


何ひとつ覚えている彼とは違う。

それでもセレネは嬉しそうに笑った。


「やっと帰ってきた」


その言葉が彼へのものなのか、自分自身への慰めなのか、もうセレネには分からなかった。

ただアレンがここにいることだけが、長い孤独の終わりのように感じられた。


アレンは少し困った顔をした。


けれどやがて笑った。


「ただいま」


その二文字に、セレネの胸が崩れた。

違う、と言うべきだった。

あなたは彼ではない。

私はあなたを何度も誰かの代わりにしてきた。

そう告げて、彼を解放しなければならない。

それなのに、口から出たのは嗚咽だけだった。


セレネは彼を抱きしめた。

その肩越しに地下室の棚が見えた。


夫たちの日記を収めた箱。

数え切れないほどの箱。


その一番奥に、名前のない箱がいくつも並んでいた。

どれも同じ大きさで、どれも同じように埃をかぶっている。


最も手前の蓋には、小さな文字が残っていた。


《最初の人》


その隣にも、さらに奥にも同じ文字が繰り返されていた。


セレネは見なかった。

見てはいけないものだと、知っていたのかもしれない。


いちばん古い箱の蓋には、文字すら読めないほど古びた紙が貼られていた。


ただ、一文だけが残っていた。


――今度こそ、この人を最初の人にしよう。


セレネは何も知らない。


いいえ。


もしかすると何度も知ったのかもしれない。


そして何度も忘れたのかもしれない。


窓の外には、月が浮かんでいた。


何千年も。

何万年も。


同じ月を見上げながら魔女は恋人の耳元で囁いた。


「百年後も、結婚しましょうね」


アレンは笑った。


「百年も生きられないよ」


「大丈夫」


セレネは、優しく微笑んだ。


「そのときは、またあなたを見つけるから」


アレンが眠ったあと、セレネは一人で窓辺に座った。


机の上には、新しい紙が一枚置かれていた。

彼の名前を書き留めるための紙。


セレネは羽根ペンを取った。


「アレン」


そう呟き、文字を書こうとした。

けれど、指が止まった。


アレン。


本当に?

その名は、誰のものだっただろう。


彼の前にいた男の名は。

そのまた前は。

最初の人の名は。


思い出そうとするたび、名前は白い霧の向こうへ沈んでいった。

セレネは紙を見つめたまま、やがて自分が何を書こうとしていたのかさえ分からなくなった。


朝になれば、彼女はまたこの紙を見つけるだろう。


そして知らない男の名前を、最初の人の名前だと思って書き留めるだろう。


彼が死ねば、百年後にまた別の誰かを待つだろう。


そのたびに恋をし、そのたびに結婚し、そのたびに「帰ってきた」と囁くだろう。


けれど、待っている相手の顔も、声も、名前も、約束を交わした場所さえも、少しずつ失われていく。

忘れていることだけを忘れられないまま。


セレネは紙に、震える手で一行を書いた。


――今度こそ、この人を最初の人にしよう。


書き終えた瞬間、その言葉に見覚えがあることに気づいた。


けれど、いつ、どこで、誰に向けて書いたのかは思い出せなかった。


セレネは紙を木箱へしまった。

箱の中には、同じ筆跡の紙が何千枚も重なっていた。


どの紙にも、同じ一文が書かれていた。


彼女は一枚を取り出した。

そこに記された名前を読もうとした。


読めなかった。


次の紙も。

その次も。


すべての名前が、滲んでいた。


そのとき、眠っていたアレンが寝返りを打った。


「セレネ……?」


彼女は振り返った。

月明かりの中で彼の顔が見えた。

誰かに似ている。

けれど、誰に似ているのかは分からない。


それでもセレネは微笑んだ。


「ええ、ここにいるわ」


アレンは安心したように目を閉じた。


セレネは彼の隣へ戻った。

そして、彼の手を握った。


その手を、かつて誰かの手だと思った。


誰かの手だった。

誰の手だった?


考えようとした瞬間、記憶はまた音もなく崩れた。


窓の外には、月が浮かんでいた。



そして百年後。


セレネはまた、彼の名前を忘れている。

それでも、月を見上げる新しい青年を見つける。

その青年も、彼ではない。


けれどセレネは、彼だと思う。

思わなければならない。


そうしなければ、永遠に続く孤独の中で、自分が何を待っているのかさえ分からなくなるから。


また恋をする。

また結婚する。

また看取る。

また忘れる。


忘れたことさえ、いつか忘れる。


ただ、「百年後」という言葉だけが残る。

誰と交わした約束なのかも分からないまま。


セレネは月を見上げた。

その瞳には、もう最初の青年の姿は映っていなかった。


映っているのは、次に出会う誰かの顔だった。

けれど、その顔もまた、百年後には消える。


そして彼女は、消えた顔を探して、別の誰かを抱きしめる。


永遠に。

何度でも。

同じ約束を、初めてのように繰り返しながら。


「百年後に、また結婚しましょうね」


月だけが、それを聞いていた。

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