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幸福な王女さま

世界で最も幸福な王女さまがいました。


王女さまの名は、リリアーヌ。


彼女は毎朝、大きな窓を開けることから一日を始めます。

窓の向こうには、美しい王国が広がっていました。


赤い屋根の家々。

色とりどりの市場。

噴水の周りを走り回る子供たち。

花籠を抱えた娘たち。


遠くには青い山があり、その向こうから毎朝、黄金色の太陽が昇ります。


「今日も、とてもいい日ね」


王女さまがそう言うと、侍女のマリーは必ず答えました。


「ええ、姫さま。本日も素晴らしい一日でございます」


王女さまは十九歳でした。


少なくとも、本人はそう思っていました。

誕生日は毎年ありましたが、歳を数える習慣がなかったからです。


「女の子は十九歳がいちばん美しいのです」


かつて、母である王妃さまがそう教えてくれました。

だから王女さまは、ずっと十九歳でした。


王女さまは塔から出ることができません。

生まれつき身体が弱く、外の空気を吸えば病気になってしまうからです。


けれど、寂しくはありませんでした。

毎日、国民たちが窓の下へやって来るからです。


「姫さま!」


「今日もお美しい!」


「どうかお元気で!」


王女さまは嬉しそうに手を振ります。


ときには花も届きました。

赤い薔薇。

白い百合。

春には黄色い小花。


「みんな、優しいのね」


「姫さまを心から愛しておりますから」


マリーは微笑みます。

その笑顔は、どこか決められた形のように見えました。


王女さまも微笑みました。


※


ある日のこと。

窓の下に一人の男の子がいました。


十歳くらいでしょうか。

ほかの人々が笑顔で手を振る中、その子だけは王女さまをじっと見上げていました。


「どうしたの?」


王女さまが尋ねます。


男の子は何か叫びました。

けれど鐘が鳴り、その声は聞こえませんでした。


そのとき、少年の口元だけが、周囲の人々と違う動きをしていたことに、王女さまは気づきませんでした。


王女さまはマリーに尋ねました。


「あの男の子、何と言っていたのかしら」


マリーは紅茶を注ぐ手を、一瞬だけ止めました。


「姫さまがお美しい、と」


「そう」


王女さまは嬉しそうに笑いました。

マリーは、少年のいた場所を見ないようにしていました。


翌日、男の子はいませんでした。


※


季節は巡ります。


春には花が咲き、夏には蝉が鳴き、秋には木々が赤くなり、冬には雪が降りました。


不思議なことに、窓から見える景色は毎年ほとんど同じでした。


同じ場所でパン屋が笑っています。

同じ少女が花を売っています。

同じ犬が噴水の周りを走っています。


「みんな、変わらないのね」


王女さまが言うと、マリーは答えました。


「幸せな国とは、変わらないものでございます」


王女さまは、その言葉が大好きでした。


ただ、マリーだけは少しずつ変わっていきました。

最初は黒かった髪に白いものが混じり、目元には皺が増えていきます。


「マリー、おばあちゃんになったわね」


王女さまは笑いました。

マリーも笑いました。


「姫さまにお仕えできて、幸せでございました」


「ございました?」


「……ございます」


マリーは言い直しました。


その夜、王女さまは、マリーの手が以前より冷たく、指先がわずかに震えていることに気づきました。


※


その冬、マリーは来なくなりました。

代わりに、若い侍女がやってきました。


「マリーは?」


「病気でございます」


「いつ戻るの?」


「春には」


けれど春になっても、マリーは戻りませんでした。


「マリーは?」


新しい侍女は少し黙ってから答えました。


「遠いところへ療養に参りました」


「そう」


王女さまは窓の外を見ました。

ちょうど市場では祭りが開かれていました。

みんな笑っています。


花を売る少女の笑顔は、去年とまったく同じ形でした。

だから王女さまも笑いました。


※


ある夜、王女さまは目を覚ましました。

奇妙な音がしたのです。


ぎい、ぎいと、何か巨大なものが軋む音。


窓の外は真っ暗でした。

月も、星も、町の灯りもありません。


「……どうして?」


王女さまは窓へ近づきました。

すると突然、外が明るくなりました。


朝になったのです。


あまりにも突然に、太陽が空の途中に現れました。


王女さまは息を呑みました。

その瞬間、遠くで誰かが小さく叫びました。


「止めろ!」


けれど声は、すぐに途切れました。


※


翌朝王女さまは侍女に尋ねました。


「昨日、夜が壊れたの」


侍女の顔が青ざめました。


「夢でございます」


「でも」


「夢です」


強い声でした。

王女さまは驚きました。

侍女はすぐに頭を下げました。


「申し訳ございません」


「……いいのよ」


王女さまは笑いました。

幸せな国には、怖いことなど起こらないのです。


それから何年経ったのか王女さまは知りません。


彼女はずっと十九歳でした。


鏡は、いつのころからか部屋からなくなっていました。


※


ある朝、窓の下にあの男の子がいました。


王女さまは驚きました。


昔見た少年。

同じ服。

同じ顔。

十歳くらいのまま。


「あなた!」


王女さまは身を乗り出しました。


少年が顔を上げます。

そして叫びました。

今度は鐘が鳴りませんでした。


だから、はっきり聞こえました。


「逃げて!」


王女さまは瞬きをしました。


その瞬間、少年の身体が止まりました。


完全に。


笑っていた人々も、犬も、噴水の水も、すべてが止まりました。


そして、空が倒れました。

青空が上からゆっくり崩れてきました。


いいえ。

空ではありません。

巨大な布でした。


その布の端には、何度も縫い直した跡がありました。


その向こうには、石の壁がありました。


赤い屋根も市場も山も。


すべて、一枚の巨大な絵でした。


王女さまは立ち尽くしました。


扉の向こうから、誰かが叫びました。


「幕を戻せ!」


男たちが駆け込んできます。

王女さまは震える声で尋ねました。


「……これは、なに?」


誰も答えません。


「私の国は?」


沈黙。


「みんなは?」


一人の老人が、泣きながら跪きました。


「申し訳ございません、陛下」


王女さまは首を傾げました。


「陛下?」


「あなたさまは――」


老人の声が震えました。


「今年で、八十六歳になられます」


王女さまは笑いました。


「変なことを言うのね」


自分の手を見ると皺だらけでした。


細い指。

浮き出た骨。

十九歳の手ではありませんでした。


王女さまは悲鳴を上げませんでした。

ただ、窓の外を見ました。


止まった少年。

止まった人々。

近くで見ると、それは人形でした。


少年の口は、叫びかけた形のまま固まっていました。


声は、壁の向こうから誰かが演じていたのです。


「どうして?」


老人は泣きました。


昔、王女さまが十二歳だったころ戦争が起きました。

王都は焼けました。

王さまと王妃さまは亡くなりました。

国も滅びました。


ただ一人、生き残った王女は心を壊しました。


だから家臣たちは、彼女のために王国を作ったのです。


絵を描き、人形を置き、鳥の声を真似し、祭りを演じ、毎日花を届けました。


「では……」


王女さまは尋ねました。


「私に手を振ってくれた人たちは?」


老人は答えませんでした。


「マリーは?」


誰も答えません。

王女さまは、しばらく黙っていました。


やがて微笑みました。


「幕を戻して」


老人が顔を上げます。


「姫さま」


「早く」


青空が戻されました。

市場が戻りました。

山が戻りました。


人形たちが動き始めました。


噴水から水が上がります。

どこかで鳥が鳴きました。


王女さまは椅子に座りました。

そして、窓の外へ手を振りました。


「今日も、とてもいい日ね」


若い侍女は泣きながら答えました。


「ええ」


「姫さま」


「今日も素晴らしい一日でございます」


王女さまは満足そうに微笑みました。


*


その夜。


侍女たちは古い記録を整理していました。


その中から、一冊の日記が見つかりました。


王女さまの日記でした。


一番古い頁には、十二歳の少女の字でこう書かれていました。


今日、お父さまとお母さまが亡くなった。


次の頁。


王都が燃えた。


次の頁。


もう誰もいない。


その次の頁から文字が変わっていました。


今日は、とてもいい日でした。


市場のみんなが笑っていました。


お母さまもお父さまも元気です。


侍女は首を傾げました。


なぜなら王国の舞台が作られたのは、王女さまが二十歳になってからだったからです。


十二歳の王女にはまだ誰も嘘の景色など見せていなかったのに。


最後の頁には、たった一行、八十六歳の王女の筆跡で書かれていました。


みんなが幸せになるまで、私は何度でも忘れてあげます。


侍女はそっと日記を閉じました。


※


翌朝、王女さまはいつものように窓を開けました。


「今日も、とてもいい日ね」


窓の下には昨日までなかった人形が一体、笑顔で手を振っていました。


白髪の老婆の人形でした。


《マリー》


胸元に名札が下がっていました。


札の端には、古い紅茶の染みがありました。

王女さまは嬉しそうに手を振り返しました。


「おかえりなさい、マリー」


老婆の人形は、しばらく動きませんでした。

風もないのに、白い髪だけがかすかに揺れました。


やがて。

ぎい、ぎいと、あの夜と同じ音が窓の下から聞こえました。


老婆の人形の腕が糸に引かれたように、ゆっくりと持ち上がりました。


そして王女さまの手の動きを、少し遅れてなぞりました。


手を振り返したのです。

王女さまは、嬉しそうに笑いました。


けれど人形の顔は、笑顔のまま動きませんでした。

その目だけは、王女さまではなく窓の奥の暗闇を見つめていました。


「また明日ね、マリー」


王女さまが窓を閉めても老婆の人形の手は、まだ上がったままでした。


誰もいない舞台の上で。

いつまでも。

いつまでも。

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