この町では、忘れた人から花が咲く
この町では、大切な誰かを忘れるたび、身体に花が咲きます。
名前を忘れれば指先に。声を忘れれば手首に。顔を忘れれば胸元に。
そして、その人を愛していたことさえ忘れた朝、心臓の上に白い花が咲くのです。
花が増えるほど、悲しみは薄れていきます。
町の人々は、それを《花の祝福》と呼びました。
けれど、誰も教えてくれませんでした。
忘れられた人が、どこへ行くのかを。
*
春の朝、花屋の娘エステルは、左手の指先に小さな青い花を見つけました。
十九歳の彼女には、忘れてしまいたいほど悲しい出来事など思い当たりません。
それなのに、花を見た瞬間、なぜか泣きたくなりました。
「綺麗な花だね」
開店間もない店に、灰銀色の髪をした青年が現れました。
いつも左手に手袋をしている、物静かな人です。
「でしょう? でも、誰を忘れたのかしら」
エステルが笑うと、青年はわずかに目を伏せました。
「……さあ、誰だろうね」
彼の名はアシェル。
毎朝やって来るのに、一度も花を買わない、不思議なお客でした。
それでもエステルは、彼のために紅茶を淹れました。
どうして淹れるのか、自分でも分かりませんでした。
*
日が経つにつれ、花は増えていきました。
手首には白い鈴蘭。鎖骨には薄紫の菫。胸元には小さな勿忘草。
花が咲くたび、胸を締めつけていた理由の分からない痛みが和らぎました。
その代わり、アシェルの声がときどき遠く感じられるようになりました。
「あなた、どうして私の好きなものを全部知っているの?」
ある雨の日、エステルは尋ねました。
彼は彼女の紅茶にだけ蜂蜜を入れ、苦手な苦い菓子をそっと自分の皿へ移していたのです。
「昔から、知っているから」
「私たち、幼なじみだった?」
「……うん」
青年は微笑みました。
嘘ではありませんでした。
ただ、二人が恋人だったことを、彼女はもう覚えていませんでした。
*
その日、濡れた手袋を乾かそうとしたエステルの手を、アシェルが慌てて避けました。
床に落ちた手袋の下から現れたのは、硝子のように透けた指先でした。
「……どうして?」
青年はしばらく黙っていました。
やがて、諦めたように笑いました。
「君が、僕を忘れているからだよ」
忘れられた人は、少しずつ世界から消えていく。
名前を失えば指先が、声を失えば腕が、顔を失えば身体が。
最後に愛情まで忘れられたとき、その存在は世界から完全に消えてしまうのです。
「どうして、そんなことに……」
「僕が願ったんだ」
一年前、アシェルは治る見込みのない病に倒れました。
衰えていく恋人を見て、エステルは毎晩泣いていたといいます。
耐えられなくなった彼は、《花守り》に願いました。
どうか、あの子が僕を失っても、悲しまないように。
願いは叶いました。
彼の病が治ることはなく、代わりにエステルの記憶から彼自身が消え始めたのです。
「君が笑えるようになって、嬉しかった」
アシェルは透けた手を隠しました。
「でも、毎朝ここへ来るたび、今日こそ僕を知らないと言われる気がして……怖かった」
エステルは泣きませんでした。
もう、彼を失う悲しみのほとんどを忘れていたからです。
そのことが、何より恐ろしかったのです。
*
翌朝、エステルの心臓の上に白い蕾が現れました。
開けば、すべてが終わります。
最後の紅茶を飲みに来たアシェルへ、彼女は一冊の日記を差し出しました。
「ねえ、アシェル」
名前を呼ばれた青年が、息をのみました。
「思い出したの?」
「ううん。読んだの」
花が咲き始めた日から、エステルは忘れていくものを書き留めていました。
二人で見た海。初めて手をつないだ橋。雨の日に交わした約束。
最後の頁には、震えた文字が残されていました。
『私は、この人を忘れたくない。たとえ悲しくても、この人を好きだった私でいたい。』
「思い出せなくても、これを書いた私が、あなたを愛していたことは信じられる」
彼女は青年の手を握りました。
けれど、その指はもう、ほとんど触れられませんでした。
「ごめんね」
アシェルの声が震えました。
「君を悲しませたくなかっただけなのに」
エステルは首を振り、胸の蕾へ手を伸ばしました。
けれど、花は摘み取れません。
「だったら、最後くらい……悲しませてよ」
その願いさえ、花は聞き届けませんでした。
*
翌朝、花屋には柔らかな春の日差しが満ちていました。
エステルの胸には、真っ白な花が咲いていました。
悲しみはありません。
ただ、いつものように紅茶を淹れると、なぜか二杯になりました。
一杯を片づけようとして、窓辺の日記に気づきます。
知らない青年の名前。
知らない二人の思い出。
そして、最後の頁に書かれた一行。
『明日、あなたを忘れていたら、もう一度、恋をしてみたい。』
エステルは長いあいだ、その文字を見つめていました。
もう一度恋をしたい相手が、どこにもいないことさえ、彼女には分かりません。
それなのに、誰も座っていない椅子を見ると、涙がひと粒こぼれました。
涙の落ちた床には、何も咲きませんでした。
忘れることで咲く花とは違う、ただの涙だったからです。
*
それからもエステルは、毎朝二杯の紅茶を淹れました。
二杯目が冷めるまで、店の扉を開けておきました。
日記を読めば、誰かを愛していたことは分かります。
けれど、そこに書かれた幸福を、もう自分の記憶として思い出すことはできません。
春が過ぎ、白い花が胸元で枯れても、彼女は二杯目の紅茶をやめませんでした。
いつか知らない誰かが、またこの椅子に座ってくれるような気がしたのです。
その人が、二度と帰ってこないことも知らずに。
彼女は今日も、もう誰にも渡せない花をいちばん綺麗なまま残しながら、紅茶を二杯淹れるのでした。




