忘れないで、と誰も言わなかった
世界が終わるとき、最後まで残るのは、誰にも覚えてもらえなかった人の記憶でした。
世界の果てには、小さな図書室があります。
窓の外には夜も朝もなく、星だけが静かに瞬いていました。
書架には一冊の本があり、その頁には、世界から忘れられた人々の人生が綴じられています。
死んだ人も、生きている人も、最後のひとりに忘れられたとき、その人生は本の中へ移されるのです。
本の最後の頁が埋まれば、世界は終わります。
ただし、ひとつだけ救いがありました。
誰かがその人生を読み、心から覚えていたなら、物語は世界の終わりを越えて残るのです。
*
十六歳のイーリスは、毎晩その本を読んでいました。
淡い金髪と薄紫の瞳を持つ少女は、自分がいつから図書室にいるのか知りません。
黒い外套をまとった司書セヴランが、いつも頁を開いてくれるからです。
セヴランは、少女が来る前からここにいたのだといいます。
けれど、いつから、と尋ねると、彼は決まって本の背表紙を撫でました。答えの代わりに、古びた紙の匂いだけが漂いました。
彼の机の引き出しには、誰にも貸し出されなかった本が一冊だけありました。
表紙には題名も、持ち主の名もありません。イーリスが触れようとすると、セヴランは静かにそれを閉じました。
「まだ、読む時ではありません」
そう言った彼の指先には、頁をめくる者のものとは思えないほど深い紙の傷が残っていました。
ある頁には、月を食べた少女がいました。
ある頁には、愛する人を二度埋めた女性がいました。
幸福な王女。誰にも届かなかった手紙。母親と歩くための、小さな白い靴。
物語の結末は、必ずしも優しくありません。
それでもイーリスは読みました。
「どうして、会ったこともない人のために泣けるのですか」
ある夜、セヴランが尋ねました。
少女は涙を拭いながら、不思議そうに顔を上げました。
「だって、その人は本当に悲しかったのでしょう?」
司書は答えませんでした。
ただ、彼女が本を閉じるまで、傍らに立っていました。
その夜、イーリスが眠ったあとも、セヴランは灯りを消しませんでした。
誰かが眠っている部屋を見守ることに慣れていないように、何度も少女の寝息を確かめ、空いた椅子に視線を戻しました。
*
最初に消えたのは、ひとつの名前でした。
昨日まで確かに書かれていた少女の名前が、翌朝には白い余白になっていたのです。
次の日には、誰かが交わした約束が消えました。
その次には、物語の最後の一行が。
「どうして……?」
イーリスが震える指で頁をなぞると、セヴランは窓の外を見ました。
星が、ひとつ消えていました。
「世界の終わりが近いのです。覚えている人がいなくなれば、文字も残れません」
セヴランは消えた頁を閉じる前に、誰もいない空間へ小さく頭を下げました。まるで、見送る相手がそこにいるかのようでした。
「知っているの?」
「何をですか」
「こうなることを」
彼はしばらく黙り、白くなった頁の端を整えました。
「何度も見てきました」
その言葉には、初めて聞く疲れがありました。
けれど、何度、と尋ねても、彼はそれ以上を語りませんでした。
イーリスは眠ることをやめました。
消えていく名前を声に出し、忘れたくない場面を繰り返し読みました。
けれど、どれほど大切に思っても、彼女ひとりの記憶だけでは、すべてを繋ぎ留められません。
セヴランは毎朝、誰も読まなくなった頁を一枚ずつ撫でていました。
そこに書かれていた名前を、声には出さず、唇だけでなぞっていました。
イーリスが近づくと、彼はいつも手を引きました。
「覚えているの?」
「忘れないようにしているだけです」
「それは、覚えているのと同じでしょう」
セヴランは答えず、消えかけた文字の上に薄い紙を重ねました。
やがて本には、最後の一頁だけが残りました。
*
その頁には、イーリス自身の物語が書かれていました。
『その少女は、一度も生まれませんでした。』
少女は息をのみました。
続く文字には、彼女が生まれた理由が記されていました。
物語を読んだ誰かが、胸に残した小さな願い。
忘れたくない。
あの人がいたことを、覚えていたい。
その願いが幾千も集まり、少女の姿になったのです。
だからイーリスには、幼い日の記憶がありませんでした。
彼女の始まりは、誰かが物語を読み終えた、その瞬間だったのです。
「……私、誰かの記憶だったのね」
イーリスは本を抱きしめました。
知らない人の悲しみに涙が出たのも、幸福な結末に胸が温かくなったのも、すべて自分を形づくった願いだったから。
けれど、ふと気づきました。
この本には、セヴランの物語がありません。
*
「あなたは、何を覚えているの?」
司書は困ったように微笑みました。
「私は頁を守る者です。読む者ではありません」
彼は世界が始まったときから本を整え、失われた人生を記してきました。
けれど、自分自身の人生を誰かに話したことはありません。
誰も彼について尋ねなかったからです。
イーリスは、机の引き出しにしまわれた題名のない本を見ました。
「その本には、何が書いてあるの?」
セヴランはすぐには答えませんでした。
「何も」
「何も書いていない本を、どうしてずっと持っているの?」
彼は表紙に手を置きました。長い年月、誰かに触れられることを待っていたように、その手はわずかに震えていました。
「書けなかったのです。自分のことは、誰かに読まれるものではないと思っていましたから」
イーリスは最後の頁を開きました。
「じゃあ、教えて。あなたは、何が好きだったの?」
長い沈黙のあと、セヴランは窓辺に目を向けました。
「……雨音が好きでした。ここには降らないのですが、昔、頁に記された雨の音を想像したことがあります」
それから、少し照れたように続けました。
「誰かが本を閉じるとき、名残惜しそうに表紙を撫でる仕草も」
「ほかには?」
「あなたが、初めて笑った日のことを覚えています」
イーリスの瞳から、涙がこぼれました。
世界のすべてを記録してきた人が、自分の小さな喜びを、誰にも語らず覚えていたのです。
「あなたは、誰にも覚えてもらえなかったの?」
問いかけると、セヴランは窓の外を見ました。
「覚えてほしいと、言ったことがありません」
「どうして?」
「言わなければ、失望せずに済みます」
その答えは、あまりにも静かでした。
彼は長いあいだ、誰かの物語が始まり、誰かの記憶からこぼれ落ちるのを見届けてきたのでしょう。
自分の名を呼ぶ者がいないことにも、誰かを待つことにも、とうに慣れたふりをして。
イーリスは、題名のない本を彼の前へ置きました。
「なら、今から書けばいいのです」
*
窓の外で、最後の星が消えました。
書架が白い光にほどけ、机も椅子も、静かに輪郭を失っていきます。
イーリスは最後の頁に、震える手で文字を書きました。
『セヴラン』
その下に、彼が好きだったものを。
雨音。本を閉じる指先。誰かが笑った日のこと。
すると白い頁に、彼が長い年月、ひとりで本を守り続けた時間が浮かび上がりました。
誰にも名を呼ばれなかった朝。消えた頁を閉じるたび、ひとりで頭を下げた夜。誰かが来るかもしれないと、灯りを絶やさなかった時間。
初めて、司書にも物語が生まれたのです。
「私のことは、忘れてください」
消えかけたセヴランが言いました。
「あなたには、まだ覚えるべき物語がたくさんあるでしょう」
イーリスは首を振りました。
「あなたのことも、覚えていたいの」
「私は、覚えられるような人生を生きていません」
「それでも、あなたはここにいたでしょう」
イーリスは彼の名を、もう一度頁に書きました。
「あなたが誰にも言わなかったことを、私が覚えている」
司書は何かを言おうとして、やめました。
代わりに、初めて泣きそうな顔で微笑みました。
*
世界が終わりました。
図書室も、司書も、少女も、白い光の中へ消えていきました。
けれど、一冊の本だけが残りました。
表紙には、何も書かれていません。
やがて、誰かの指先が、その本を開きました。
最初の頁には、こう記されていました。
『これは、忘れられない人たちと、忘れてしまった人たちの物語。』
頁をめくるたび、月の欠片がこぼれ、花が咲き、届かなかった手紙が風に舞いました。
白い靴が二足、並んでいました。
どの物語にも、もう帰ってこない人がいました。
それでも、彼らは確かに、そこに生きていました。
本を閉じる指先が、表紙をそっと撫でました。
かつて、ひとりの司書が好きだった仕草です。
最後の頁には、一行だけが残っていました。
『忘れないで、と誰も言わなかった。それでも、あなたは覚えていてくれました。』




