さよならを言うために、生まれてきた
この世界では、生まれてこなかった子供だけが、母親の死を迎えに来ます。
子供が母親の胎内で命を失うと、その魂は《白い産室》へ運ばれ、母親が生きているあいだ眠りにつきます。
そこには、誰のものでもない小さな寝台と、まだ履かれていない靴が並んでいました。
時は流れず、子供たちは成長もしません。
ただ、母親の命の灯が消えかけたときだけ、産室の鐘が鳴るのです。
鐘が鳴ると、子供には一晩だけ身体が与えられます。
母親のもとへ赴き、夜明けまでそばにいて、その魂を白い扉まで送り届ける。
それが、生まれてこなかった子供たちの「迎え」の役目でした。
ただし、ひとつだけ決まりがありました。
子供は、自分の名前を告げてはいけません。
母親がその子の名前を呼ぶと、子供と母親を結ぶ白い糸が切れます。
名前は、母親が子供をこの世に結び留めるための言葉だからです。
糸が切れれば、子供は母親の魂を扉へ送り届けられず、迎えの役目を失ったまま、二度と生まれることなく《白い産室》に閉じ込められてしまいます。
だから子供たちは、母親に自分の名前を呼ばせないまま、母親を見送りました。
一度も「お母さん」と呼べないまま。
*
春の終わり、フィーネに初めて迎えの役目が与えられました。
その朝、《白い産室》の鐘が、七年ぶりに鳴ったのです。
白い寝台の足元に、ひとつの扉が現れました。
扉の向こうには、母親のいる場所と、残された時間が映ります。
フィーネが見たのは、雨に濡れた小さな家と、六十二歳のオルテンシアでした。
フィーネが生まれるはずだった母親でした。
迎えに行く子供には、母親が最期に必要とする年頃の姿が与えられます。
フィーネは七歳ほどの姿をしていました。
薄い亜麻色の髪と、夜明けを閉じ込めたような灰青色の瞳。
生まれる前に命を失った彼女には、誕生日も、母親に抱かれた記憶もありません。
ただ、自分につけられるはずだった名前だけを知っていました。
フィーネ。
母親が、まだ誰にも呼ばせたことのない名前でした。
《白い産室》を出る前、フィーネは番人から白い糸を渡されました。
糸は子供と母親の魂を結び、夜明けに母親を扉の向こうへ送り届けるためのものです。
役目を終えればほどけ、フィーネも産室へ戻ることができます。
けれど、母親がフィーネの名前を呼べば、糸は切れます。
名前を呼ばれることは、母親が娘をこの世に留めようとすることだからです。
フィーネは母親を送り届けることも、産室へ戻ることもできなくなります。
フィーネは白い糸を手首に結びました。
糸は皮膚に触れると、冷たいのに、どこか母親の指先に似た温もりを残しました。
そして、扉をくぐりました。
*
雨の夜、フィーネは小さな家の扉を叩きました。
「迷子なの。朝まで、ここにいてもいい?」
扉を開けたオルテンシアは、驚いたあと、少女の濡れた肩にそっと手を添えました。
「まあ、こんなに冷えて。お入りなさい」
暖炉には赤い火が揺れ、窓辺には春の白い花が飾られていました。
オルテンシアは乾いた布で少女の髪を拭き、温かなミルクを差し出しました。
フィーネは両手で杯を包みました。
初めて触れた母親の手は、想像していたよりも温かく、少しだけ皺がありました。
この手に抱かれるはずだったのだと思うと、胸の奥が痛みました。
「お名前は?」
尋ねかけたオルテンシアは、なぜか途中で言葉を止めました。
「……いいえ。今夜は、聞かないでおきましょう」
フィーネは俯きました。
名前を呼んでほしいと願うことさえ、許されない気がしたのです。手首の白い糸が、かすかに震えました。
*
濡れた靴を乾かしているあいだ、オルテンシアは箪笥から小さな靴を取り出しました。
柔らかな革に、白い花が刺繍されています。
「昔、子供のために作ったものなの」
少女が履くと、不思議なほどぴったりでした。
「……どうして、こんなにたくさん?」
開いた箪笥には、大きさの違う靴が幾足も並んでいました。
オルテンシアは寂しそうに微笑みました。
「毎年、春になると作っていたのよ。あの子が生きていたら、今年はこれくらいかしらって」
フィーネは靴先を見つめました。
歩くことのできなかった道。
母親は、その道の長さを毎年想像していたのです。
白い産室の戸棚に並んでいた、誰にも履かれない靴を思い出しました。あれもきっと、誰かが待ち続けた時間の形だったのでしょう。
*
二人は一緒に夕食を作りました。
フィーネが野菜を不揃いに切ると、オルテンシアは笑いながら手を添えてくれました。
食後には窓辺で雨を眺め、古い絵本を読みました。
少女は何度も「お母さん」と呼びかけそうになりました。
けれど、そのたびに唇を噛みました。
手首の白い糸が、呼び声を待つように淡く光ります。
その光を見るたび、フィーネは自分の役目を思い出しました。母親を連れて帰るために、ここにいるのだと。
夜が更けるころ、オルテンシアは少女の髪を撫でながら言いました。
「もし、あの子が生きていたら……こんな夜もあったのかしら」
フィーネは答えられませんでした。
あったはずの夜でした。
数えきれないほど、あったはずの。
*
夜明けが近づくと、窓の向こうに白い扉が現れました。
フィーネは母親の手を取りました。
「もう、行かなくちゃ」
オルテンシアは静かに頷きました。
フィーネの手首で、白い糸が淡く光りました。
糸の先は扉の向こうへ伸び、オルテンシアの胸元からこぼれた光を、少しずつ引き寄せています。
糸は細いのに、母親の魂を確かに支えていました。
扉の前まで来たとき、彼女は立ち止まり、少女の靴を見下ろしました。
「ねえ、ひとつだけ聞いてもいい?」
フィーネの胸が強く鳴りました。
「あなたは……私の娘なのでしょう?」
少女は答えられませんでした。
白い糸が、手首に食い込むように張りつめました。
もしここで名前を呼ばれたら、糸は切れる。
母親を扉へ送り届けることも、自分が産室へ戻ることもできなくなる。
オルテンシアはしゃがみ込み、靴の内側をそっと開きました。
そこには、小さな文字が縫い込まれていました。
『フィーネ』
「毎年、同じ名前を縫っていたの。あの子が、どこかで自分の名前を見つけられるように」
その文字を見た瞬間、フィーネは悟りました。
母親は、ずっと前から気づいていたのです。
少女の仕草や、履かせた靴の大きさ、胸の奥に残る説明のつかない懐かしさが、失った娘の面影と重なっていたのでしょう。
それでも、オルテンシアは名前を呼びませんでした。
少女が何かを恐れていると感じたからです。
名前を呼べば、この子を自分のもとに留められるのではなく、白い糸を切り、母親の魂を送り届ける役目まで奪ってしまうのだと、直感的に悟っていました。
「あなたが帰れなくなるのなら、私は知らないふりをしていたかったの」
フィーネの瞳から涙がこぼれました。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「生まれてこられなくて。ずっと、一緒にいられなくて」
オルテンシアは少女を抱きしめました。
「謝らないで。あなたが来てくれたから、私は今夜、初めてあの子を抱きしめられたのよ」
フィーネは母親の肩に顔を埋めました。
生まれて初めての抱擁でした。
そして、最後の抱擁でした。
*
白い扉が、静かに開きました。
フィーネの手首で、白い糸がほどけていきます。
糸は母親の魂を白い扉の向こうへ送り届けると、結び目から静かに消えていきました。
オルテンシアは少女の頬を撫でました。
「名前を呼ばなくても、あなたが誰なのか、私は知っているわ」
フィーネは泣きながら頷きました。
母親は最後まで、その名前を口にしませんでした。
名前を呼べば、白い糸が切れ、娘をこの夜から失ってしまうと知っていたからです。
だからオルテンシアは、名前の代わりに、少女の手を包みました。その触れ方だけで、フィーネを自分の娘として認めました。
ただ、扉をくぐる直前、小さく微笑みました。
「……会いに来てくれて、ありがとう」
白い光が、彼女を包みました。
フィーネの手から、温もりが消えました。
*
翌朝、《白い産室》の戸棚には、あるはずのない靴が残されていました。
七歳の子供が履く大きさの靴が、二足。
一足は、昨夜フィーネが履いていたものでした。
もう一足は、見覚えのない白い靴でした。
その内側には、母親の字で短い言葉が縫われていました。
『今度は、一緒に歩きましょう』
フィーネは二足の靴を並べました。
白い産室の窓から、春の光が差し込んでいました。
片方だけが、ほんの少し温かいままでした。
フィーネはその靴に触れ、声にならないほど小さく呟きました。
「……お母さん」
返事はありませんでした。
けれど、白い靴の紐が、風もないのにかすかに揺れました。
フィーネは顔を上げました。
白い光のなかで、二足の靴の影が、ほんの一瞬だけ重なって見えました。
それが母親の残した温もりだったのか、夜明けの光が見せた幻だったのか、フィーネにはわかりませんでした。
ただ、二足の靴は並んだまま、誰もいない産室の床に、静かに置かれていました。
まるで、いつか誰かが迎えに来るのを待つように。




