生まれる前の子どもが、夢を選ぶ店
生まれる前の子どもたちは、必ず一度、夢を買いに来ます。
空と海の境目にある、小さな硝子の店です。
棚には星屑を詰めた小瓶が並び、それぞれに違う夢が眠っています。
《誰かに愛される夢》
《遠い国へ旅する夢》
《大切な人と年老いる夢》
子どもたちは、たったひとつだけ選べます。
選んだ夢は、生まれたあと、その子の人生のどこかで必ず叶います。
ただし、ひとつだけ、夢の中身が誰にも分からない瓶がありました。
いつからそこにあるのか、フィオラにも分かりません。
そして、ひとつだけ、誰も買おうとしない瓶がありました。
《生まれてこなければよかったと、思わない夢》
その瓶だけは、星の光を少しも宿していませんでした。
*
店主のフィオラは、何百年も子どもたちを見送ってきました。
ある夜、ひとりの男の子が訪れました。
淡い金色の髪に、夜明けのような瞳をした、小さな子でした。
「いちばん幸せになれる夢は、どれ?」
フィオラは微笑みました。
「それは、あなたが決めることよ」
男の子は棚を見上げました。
《お母さんとずっと一緒にいる夢》
《誰からも忘れられない夢》
《悲しいことが起こらない夢》
けれど、どの瓶にも手を伸ばしません。
「ぼくのお母さんは、どんな人?」
フィオラは答えられませんでした。
この店では、生まれる前に母親の人生を覗くことが禁じられているのです。
ただ、彼女には分かっていました。
その子が生まれる家には、もう長いあいだ、笑い声がありませんでした。
*
男の子は、店のいちばん奥に置かれた瓶を見つけました。
光のない、灰色の小瓶でした。
棚のほかの瓶がかすかに瞬く中で、その瓶だけは、夜の底に沈んだ石のように黙り込んでいました。男の子は、しばらくそれを見つめました。
フィオラは、なぜかその瓶から目をそらせませんでした。誰も選ばないはずなのに、いつか誰かが手に取るのを、ずっと待っているように見えたのです。
「これは?」
「……誰も選ばない夢よ」
「どうして?」
フィオラはすぐには答えられませんでした。
「生きていれば、きっと一度は悲しいことがあるから」
男の子は灰色の瓶を両手で包みました。冷たい硝子の向こうには、光も星屑もありません。それでも、手を放しません。
「じゃあ、悲しくなっても、生まれてきてよかったって思える夢なの?」
フィオラは息をのみました。
幸せになれるかではなく、悲しみを知ったあとでも、生きていてよかったと思えるのか。そんな問いを、まだ何も知らないはずの子どもが投げかけたのです。
長い年月、誰もそんなふうに尋ねたことはありませんでした。
*
フィオラは、昔のことを思い出しました。
まだ店主になる前、彼女もここで夢を選んだ子どもでした。
選んだのは、《大切な人と年老いる夢》。
けれど、彼女は生まれて間もなく命を落としました。
夢は叶いませんでした。
叶わなかった夢を持つ子どもは、もう一度生まれることができず、この店へ戻されます。
フィオラは、そのまま店主になりました。
以来、彼女は数えきれないほどの子どもたちを送り出してきました。
幸せを願いながら。
自分には叶わなかった夢を、誰かが叶えてくれることを祈りながら。
*
「ぼく、これにする」
男の子は灰色の瓶を手に取りました。
「待って」
思わず伸ばした手が、男の子の腕の手前で止まりました。
「その夢は、ほかの夢みたいに幸せを約束してくれないのよ」
「うん」
「悲しいことも、寂しいことも、なくならないの」
「うん」
男の子は静かに頷きました。灰色の瓶を抱く腕に、迷いはありません。
「でも、ぼくが生まれたら、お母さんは嬉しいかな」
フィオラは答えられませんでした。
その子の母親は、以前にも子どもを失っていました。
もう二度と、誰かを愛して失うことには耐えられないと、泣いていたのです。
「……分からないわ」
やっと絞り出した声は、ひどく頼りなく震えていました。
男の子はフィオラを見上げました。責めるでもなく、泣くでもなく、ただ彼女の答えを受け止めました。
それでも、男の子は微笑みました。
「お母さんが嬉しくなくても、ぼくが会いたいから、行くよ」
その言葉を聞いた瞬間、フィオラの中で、何百年も動かなかった何かが崩れました。
生まれることは、誰かに望まれることや、悲しみから逃れることだけではない。それでも、自分から誰かに会いに行くことはできる。幼い声が、そう教えてくれたのです。
フィオラは、もう止められませんでした。この子の決意を信じたいと願っていることに気づいたからです。
*
男の子が店を出ると、灰色の瓶に小さな光が灯りました。
光は瓶の底で震える一粒の火花から、淡い金色の輝きへ変わりました。星屑の入った瓶でさえ、これほど強く輝いたことはありません。
瓶の中には、誰かの声が響いていました。
『生まれてきてくれて、ありがとう』
それが母親の声なのか、いつか彼を愛する誰かの声なのか、それとも彼自身が長い人生の果てにたどり着く声なのか、フィオラには分かりませんでした。ただ、その一言だけが、灰色の瓶の中で柔らかく反響していました。
フィオラは、瓶の光を見つめました。
何百年ものあいだ、彼女は生まれていく命を見守ってきました。子どもたちが笑いながら店を出ていくたび、嬉しく思いながらも、自分だけがここに残されることを知っていました。
自分の夢は叶わなかったのだと、ずっと思っていました。
けれど、今になってようやく、その意味が別の形で見えてきたのです。
《大切な人と年老いる夢》とは、必ずしも、ひとりの相手と同じ時間を生きることではなかったのかもしれません。
大切な誰かが生まれ、愛され、傷つき、それでも生きていく。その長い年月を見失わずに見守り続けること。たとえ手で抱きしめられなくても、その人の人生に寄り添い続けること。
それもまた、誰かと年老いるということなのだと。
フィオラの目から、何百年ぶりかの涙がこぼれました。
それは、叶わなかった夢を悼む涙ではありませんでした。夢が形を変えながら、ずっと続いていたことを知った、静かな救いの涙でした。
*
それから長い年月が流れました。
男の子は生まれ、成長し、さまざまな悲しみを知りました。
母親は彼を深く愛しましたが、彼が十歳の冬、病で亡くなりました。
少年は何度も思いました。
どうして、自分だけが残されたのだろう。
どうして、あんなに優しかった人が先に逝ってしまったのだろう。
それでも、彼は生きました。
母親が教えてくれた歌を覚え、誰かに優しくすることを忘れずに。
やがて大人になり、小さな家族を持ちました。
そして、白髪の老人になったある春の日。
孫娘が、彼の膝に小さな花を置きました。
「おじいちゃん、生まれてきてくれてありがとう」
老人は、長いあいだ黙っていました。
それから、静かに泣きました。
悲しかったからではありません。
あまりにも長い時間をかけて、ようやく自分の人生を愛おしいと思えたからです。
*
その夜、空と海の境目にある店で、灰色の瓶が砕けました。
中から、柔らかな金色の光があふれました。
フィオラはそれを両手で受け止めました。
夢が、叶ったのです。
けれど、瓶の底には、もうひとつ小さな光が残っていました。
それは、遠い昔に叶わなかった、フィオラ自身の夢でした。
《大切な人と年老いる夢》
彼女は、生まれて間もなく死んだため、誰とも年老いることができませんでした。
けれど、何百年ものあいだ、子どもたちの人生を見送り続けてきました。
彼らが生まれ、笑い、泣き、老いていくのを、ずっと見守ってきたのです。
そのとき、フィオラは悟りました。
自分の夢は、ひとりの人と年老いることではなかった。
大切な誰かが生きていく時間を、最後まで見届けることだったのだ、と。
*
翌朝、店の棚には、新しい瓶がひとつ並んでいました。
《誰かの人生を、最後まで愛する夢》
その瓶は、どの星よりも静かに輝いていました。
けれど、フィオラの姿はありませんでした。
店の扉には、小さな札が掛かっていました。
『夢を選んだ子どもたちへ』
『あなたの人生が、どうか、あなた自身のものになりますように』
そして、その下に、もう一行。
『たとえ夢が叶わなくても、生まれてきたことが間違いだったわけではありません』
空と海の境目では、今日も新しい命が生まれようとしていました。
その子がどんな夢を選ぶのか、もう誰にも分かりません。
ただ、誰もいなくなった店の窓辺で、ひとつだけ、光のない灰色の瓶が残っていました。
その瓶は、かつて男の子が選んだ夢の名残ではなく、彼の選択が次の誰かへ手渡した、まだ名のない願いでした。
まだ誰にも選ばれていない、次の夢を待つように。




