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死人には、最後にひとつだけ盗めるものがあります

死人には、最後にひとつだけ盗めるものがあります


死人には、最後にひとつだけ盗めるものがあります。

それは、生きている人の記憶です。


ただし、何でも盗めるわけではありません。自分にまつわる記憶を、ひとつだけ。それを持っていけば、死人はあの世へ渡ることができます。


盗まれた記憶は、二度と戻りません。

だから、この国では死者を見送るとき、必ずこう告げるのでした。


「どうか、いちばん悲しい記憶を持っていってください」


残された人が、少しでも幸せに生きられるように。


けれど、死者が何を盗んだのか、生きている人には決して分かりません。


*


冬の終わり、エルシアは夫を亡くしました。

夫の名はノエル。三十二歳の、時計職人でした。


彼は生前、壊れた時計を直すのが得意でしたが、自分の命だけは直せませんでした。


病に伏した最後の春、ノエルは窓辺に小さな時計を置きました。針のない、銀色の懐中時計でした。

それは時刻を示すための時計ではありませんでした。失われる時間をしまっておくための、彼だけの器でした。


「これ、何のために作ったの?」


エルシアが尋ねると、夫は困ったように笑いました。


「君が、いつか必要になるものだよ」


それきり、理由を教えてはくれませんでした。


*


葬儀の夜、エルシアは夫の棺に手を添えました。


「いちばん悲しい記憶を持っていって」


そう囁いた瞬間、棺の内側で、かすかな音がしました。


ちりん、と。


銀の懐中時計が、失われる記憶を受け取ったような音でした。


翌朝、エルシアは夫の死を覚えていました。

病に苦しむ姿も、冷たくなった指先も、最後の別れも。


けれど、ひとつだけ思い出せないことがありました。


夫と初めて出会った日のことです。

どこで出会い、何を話し、どうして好きになったのか。


その記憶だけが、綺麗に消えていました。


*


エルシアは怒りました。


「どうして、そこなのよ」


誰もいない工房で、夫の作業椅子を蹴りました。


「悲しいことを持っていってって、言ったでしょう」


返事はありません。


机の上には、直しかけの時計が並んでいます。どれも針が動いているのに、銀の懐中時計だけは、相変わらず時を刻みませんでした。


エルシアはそれを手に取り、裏蓋を開けました。

内側には、小さな文字が刻まれていました。


『忘れてしまった日のために』


その下には、一枚の紙片が折り畳まれていました。


*


紙には、夫の字でこう書かれていました。


『君と初めて会った日、僕は死のうとしていた。』


エルシアは息をのみました。


十年前の冬。

ノエルは、家族を失い、生きる理由を見失っていました。


雪の降る橋の上で、最後に見たのがエルシアだったのです。

彼女は彼を止めようとしたわけではありませんでした。

ただ、手袋を落とした彼に声をかけたのです。


「落としましたよ」


ノエルは振り返りました。

彼女は笑っていました。


寒さで鼻を赤くしながら、見知らぬ男に手袋を差し出していました。

その何でもない親切が、彼をもう一日だけ生かしました。


翌日、彼は彼女を探しました。

その次の日も。


やがて二人は恋をして、結婚しました。

けれどエルシアは、その日を覚えていません。


*


手紙の続きには、こうありました。


『君は、僕を救ったことを知らない。』


『僕はずっと、君に感謝していた。でも、いつか僕が死んだら、君はきっと自分を責めると思った。』


『あの日、僕を生かしてくれたのに、最後まで生かしてあげられなかった、と。』


エルシアの指が震えました。


『だから、僕は最初の日を持っていく。』


『君が僕を救った記憶も、僕が君に救われた記憶も、僕だけが持っていく。』


『この銀の時計に、僕たちの始まりをしまっていく。君の中から消えても、僕の最後の時間として、あの世へ持っていくために。』


『どうか、君は僕のいない明日を生きてほしい。』


紙の最後には、短い一文がありました。


『愛してくれて、ありがとう。』


*


エルシアは泣きました。

夫が死んだ日よりも、ずっと激しく。


彼は最後まで、彼女を守ろうとしていました。


けれど、エルシアは思いました。

それは、少しだけずるいことだ、と。


悲しい記憶を持っていってほしいと願ったのに、夫は二人の始まりを盗んでしまったのです。


あの日の雪も、橋の冷たさも、初めて交わした言葉も、彼女にはもう、取り戻せません。


エルシアは懐中時計を握りしめました。


「……馬鹿ね」


涙が銀の蓋に落ちました。


「あなたがいなくなったら、何を覚えていたって悲しいのに」


それでも、針のない時計を手放すことはできませんでした。

そこには、彼が持っていった時間と、彼女がこれから生きる時間の境目が残されていたからです。


*


春になりました。

エルシアは工房を開けました。


夫が直しかけていた時計を、一つずつ修理しました。

針のない銀の懐中時計だけは、窓辺に置いたままにしました。


それはもう、失った始まりを取り戻すためのものではありませんでした。

戻らない時間を戻らないまま受け入れ、残された時間へ進むための印でした。


ある日、幼い少女が工房を訪れました。


「おばさん、これ直せる?」


差し出されたのは、針の折れた小さな時計でした。

エルシアは微笑みました。


「ええ。きっと直せるわ」


少女が帰ったあと、彼女はふと窓辺を見ました。

銀の懐中時計が、春の日差しを受けて輝いていました。


針のない時計は、今も時を刻みません。


けれど、エルシアはもう、それを悲しいとは思いませんでした。


時を刻まないからこそ、その時計は、失われた時間を閉じ込めたまま、彼女が新しい時間へ進むのを見守っているようでした。


*


その夜、エルシアは夢を見ました。


雪の降る橋の上に、ひとりの男が立っていました。

顔は見えません。

けれど、誰なのか分かりました。


男は何かを落としました。

エルシアは拾おうとして、手を止めました。


それが何なのか、もう思い出せなかったからです。


男は振り返り、微笑みました。


「ありがとう」


その声だけが、春の風のように残りました。


目を覚ますと、枕元に銀の懐中時計がありました。

昨夜窓辺に置いたはずの時計でした。


裏蓋を開けると、以前はなかった文字が刻まれていました。


『君に会えて、幸せだった。』


失われた始まりの代わりに、最後に残された言葉でした。

エルシアは長いあいだ、その文字を見つめていました。


そして、ようやく笑いました。


「……私もよ」


窓の外では、夜明けの鐘が鳴っていました。

エルシアは銀の懐中時計を胸元に抱きました。


針はありません。

だから、この時計がいつかを指すことはありません。


けれど、失われた時間の代わりに、そこには確かなものが残っていました。


誰かを愛したということ。

愛した人との始まりを失っても、その愛まで失うわけではないということ。


そして、愛した人を失ったあとも、心は終わらないということ。


工房の扉を開けると、朝の光が差し込みました。

道の向こうから、見知らぬ人の足音が近づいてきます。


エルシアは時計をそっとしまい、顔を上げました。


まだ、誰を愛するのかは分かりません。

いつになるのかも、どんな人なのかも。


それでも彼女は、未来のために扉を開けました。


※


死人には、最後にひとつだけ盗めるものがあります。


銀の懐中時計は、ノエルが持っていった記憶の器であり、二人の始まりを失った証でした。


けれど、それは同時に、失われた時間を抱えたままでも、残された人が未来へ進めることを示す時計でもありました。


どんなに愛した人でも、ひとつだけ盗めないものがあります。


それは、残された人の胸に残る愛と、その愛がいつか誰かへ向かって歩き出す未来です。



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