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影を踏まれた子は、家へ帰れない

この村では、日暮れに影を踏まれてはいけません。

とくに、子供の影を。


夕暮れの影には、その子が帰る家までの道が映っているからです。


誰かに踏まれると、影は道を忘れます。どれほど見慣れた道を歩いても、家には辿り着けません。

だから母親たちは、日が傾くと子供を呼び戻しました。


――影を踏まれる前に、お帰りなさい。


けれど、村にはもうひとつ、誰も教えない言い伝えがありました。

帰り道を失った子供は、夜になると、いちばん会いたい人の声で名前を呼ばれるのだと。


*


十歳のエマは、夕暮れが嫌いでした。


母が亡くなってから、家の中は静かでした。父は夜遅くまで森で働き、食卓には冷めたスープが一人分だけ置かれています。

それでも、朝には暖炉のそばに温められた靴があり、夜には父の足音が帰ってきました。


ある秋の日、エマは川辺で銀色の髪の男の子に出会いました。


「ねえ、影を貸して」


「影なんて、貸せるの?」


「踏ませてくれたらいいんだ」


夕日が川面を赤く染め、エマの影を長く伸ばしていました。

けれど、男の子の足元には影がありません。


「僕、帰るところがないんだ」


その声が、母を失った日の自分に重なりました。

エマはためらいながら、影の端を差し出しました。

男の子が足を重ねた瞬間、川の音が消えました。


*


家へ続く道が見つかりません。

橋を渡っても村の広場へ戻り、パン屋の角を曲がれば川辺に出ました。


空が暗くなり、窓に灯がともります。


「お父さん!」


返事はありません。

やがて背後から、母の声がしました。


「エマ」


振り返ると、暗い路地の奥に白い服の女が立っています。顔は見えませんが、声だけは母そのものでした。


「お母さん……?」


女は両手を広げました。


「おいで。もう寂しくないわ」


エマが一歩踏み出すと、自分の足元に影がないことに気づきました。

代わりに、女の足元から細長い影が伸びています。小さな子供たちが手をつないでいるような影でした。


「私が小さいころ、眠れない夜に歌ってくれた歌、覚えてる?」


女は答えず、首を傾げました。


「そんなこと、もういいでしょう」


母なら、きっと歌ってくれたはずです。

女は再び手を広げました。


「おいで、エマ」


母の声だからこそ、エマは恐ろしくなりました。


*


「行っちゃだめ!」


川辺の男の子が駆けてきて、エマの手を掴みました。


「それは君のお母さんじゃない」


「でも、声が……」


「影が覚えている声を、あの人は使うんだ」


女が首を傾げます。


「エマ。お母さんを忘れたの?」


男の子は震える声で続けました。


「君の影を踏んだのは僕だ。だから、僕が返さなきゃ」


*


男の子の名はノアでした。


彼も昔、夕暮れに影を踏まれ、帰れなくなった子供でした。母の声に誘われて路地へ入ったものの、そこにあったのは誰も住んでいない家だけ。


「僕、もう生きてないんだ」


月明かりの下で、ノアの指先は薄く透けていました。


「帰れないまま死んだ子は、影をなくして夜の道を歩き続けるんだって」


「どうして私の影を踏んだの?」


「生きてる子の影を踏めば、帰り道を借りられるって、あの人に教えられたんだ」


ノアは唇を噛みました。


「君が帰れなくなるとは、知らなかった。でも、途中で気づいても逃げようとした」


路地の奥で、白い女が微笑みます。


「僕、どうしても帰りたかったんだ」


女の足元の影は、さらに長く伸びていました。


*


「二人とも、こちらへいらっしゃい」


女の声に温もりはありません。

影が石畳を這い、二人の足首へ近づいてきます。

ノアはエマの前に立ちました。


「逃げて」


「ノアは?」


「僕は、もう帰れないから」


エマは首を振りました。


「私のお父さん、きっと探してる」


母を失ってから、エマも帰る場所をなくしたように感じていました。

けれど父は毎朝、冷えた靴を暖炉のそばに並べ、娘を待っていました。


「一緒に呼ぼう」


エマは闇へ叫びました。


「お父さん!」


*


遠くで鐘が鳴り、森の向こうから声が返りました。


「エマ!」


父の声です。

女の顔が歪み、足元の影が震えました。


「帰ってはいけない。帰る家など、もうないでしょう」


「あるよ」


エマは涙を拭いました。


「お母さんはいない。でも、お父さんがいる」


影の中から、いくつもの声が漏れます。


――帰りたい。

――お母さん。

――誰か、迎えに来て。


女が裾を広げた瞬間、エマの足元に影が戻りました。


月明かりの中で影が伸び、村の道を指し示します。

父の声が、帰る場所を思い出させたのでした。


*


ノアは影を見つめました。


「どうして……」


「一緒に帰ろう」


「僕の家はもう……」


「うちに来ればいいよ」


その言葉に、ノアの足元にも淡い影が伸びました。

失われた命が戻った印ではありません。長いあいだ呼ばれなかった子供が、初めて帰る場所を見つけた印でした。


「僕も、帰っていいの?」


「もちろん」


二つの影が月明かりの道に並びます。

女は何も言わず、夜の奥へ溶けていきました。


*


村の入り口で、父が待っていました。

泥だらけのエマを抱きしめます。


「……遅くなって、ごめんな」


「お父さん、ただいま」


父にはノアが見えていないようでした。

エマは袖を引きました。


「もう一人、帰ってきた子がいるの」


父は暗い道へ向かって、静かに言いました。


「……おかえり」


ノアの足元の影が、ふわりと明るくなりました。


「……ただいま」


ノアの姿が月明かりの中で薄れていきます。


「ノア!」


彼は泣きながら笑いました。


「ありがとう。僕、やっと帰れたよ」


その足元に、もう影はありませんでした。

奪われたのではなく、帰る場所を見つけた影が、道を探す必要をなくしたのです。


ノアは夜の光の中へ静かに消えていきました。


*


それから、エマは夕暮れを怖がらなくなりました。

父が帰るまで、窓辺に灯を置くようになりました。


ある冬の夜、雪の積もった玄関先に、小さな足跡が二つ残っていました。

家へ向かう足跡は、扉の前で途切れています。


エマは窓辺の灯を少し明るくしました。


「……おかえり、ノア」


返事はありません。

ただ、風が小さな笑い声のように聞こえました。


その夜、エマは夢を見ました。


暗い路地の奥で、白い女が立っています。足元には、いくつもの小さな影が寄り添っていました。


女は誰かの名を呼ぼうとしましたが、声が出ません。

あの人自身は、誰に名前を呼んでもらいたかったのだろう。


目を覚ますと、窓辺の灯はまだ燃えていました。

遠い路地の奥から、かすかに子守歌が聞こえます。


母の歌とは少し違う歌でした。


エマは窓を閉めず、しばらく耳を澄ませていました。

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