↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
51/60

天使は、一人につき一枚しか羽を持っていない

天使は、一人につき一枚しか羽を持っていません。


右の羽を持つ天使と、左の羽を持つ天使。二人が手を取り合って初めて、空を飛ぶことができます。


天界の大聖堂には、三つの掟が刻まれていました。


《人の命の長さを変えてはならない》

《死にゆく者を呼び戻してはならない》

《羽の光を人間に渡してはならない》


そして、その下に、ひときわ小さな文字でこう記されていました。


《それでも地上に残る者を、天は迎えに行かない》


羽の光を失った天使は、二度と飛べません。

掟を破った者を迎えるために、天界が道を開くこともありません。


だから天使たちは、最後の一行を罰の言葉だと考えよました。


*


リュイには、左の羽しかありませんでした。


雪のように白く、朝日に透かすと淡い金色に輝く、美しい羽でした。


けれど一枚では飛べません。


幼いころから、リュイは雲の縁に座り、空を渡る天使たちを眺めていました。


そんな彼の隣には、いつもセラがいました。

セラは右の羽を持っていました。


「ねえ、リュイ。もし私が地上で迷子になったら、迎えに来てくれる?」


「天使が迷子になるわけないよ」


「もしもの話」


リュイは少し考えました。


「天界の鐘を鳴らせば、誰かが迎えに来てくれるよ」


「リュイは?」


「僕も行くよ」


「絶対?」


「絶対」


セラは満足そうに笑い、彼の手を握りました。

二枚の羽が触れ合うと、足元の雲がふわりと浮き上がりました。

その日、二人は初めて、雲の縁を越えて飛びました。


*


天使は地上の人々を見守る役目を持っています。

迷う者に道を示し、悲しむ者のそばに祈りの灯を置くのです。


けれど、人の命を変えることだけは許されませんでした。


初めて地上へ降りた冬、二人は雪の町の病室で、母親の手を握る少女に出会いました。


「お母さん、明日も起きてくれる?」


眠る母親は答えません。


セラが寝台へ近づくと、リュイはそっと手を引きました。


「僕たちにできるのは、祈りを届けることだけだよ」


「分かってる。でも、ひとりにはしたくないの」


二人は枕元に小さな灯を置きました。

命を延ばす力のない、ただ夜を照らすための光でした。


翌朝、母親は目を覚ましました。

まだ生きる力が残っていたのです。

少女は窓辺に落ちた白い羽毛を拾い、泣きながら笑いました。


「天使さま、ありがとう」


その帰り道、セラは呟きました。


「もし、目を覚まさなかったら……」


「それでも、僕たちには何もできないよ」


リュイが答えると、セラは黙りました。

彼女の右の羽が、夕日に透けて赤く染まっていました。


その沈黙を、リュイは長いあいだ見ていました。


*


春の終わり、少女の母親は再び深い眠りにつきました。

今度は、目覚めることのない眠りでした。


「お願い。お母さんを連れていかないで」


少女の声が、薄暗い病室に響きます。


天使には、死の間際にいる者を一度だけ目覚めさせる術がありました。


命を延ばすことはできません。

ただ、残されたわずかな時間に、最後の言葉を交わす機会を与えられるのです。


代償は、羽に宿る光のすべて。


「やめて」


リュイはセラの手首を掴みました。


「君がどうなるか、分かっているだろう」


「分かってる」


「分かってないよ!」


思いがけず大きな声が出ました。

人間には聞こえない声でした。それでもリュイは、自分の激しさに怯えました。


「僕たち、やっと一緒に飛べるようになったんだ。これから何百年だって、いろんな場所へ行けるのに」


セラは目を伏せました。


「……ごめんね」


その謝罪が、リュイには残酷でした。

謝るくらいなら、やめてほしかった。

自分との未来を選んでほしかった。


「その子のために、僕との約束を捨てるの?」


セラの顔が歪みました。


「捨てたいわけじゃない」


「だったら――」


「でも、あの子には今夜しかないの」


リュイは言葉を失いました。

自分たちには、まだ幾百もの夜がある。

セラの言うとおりでした。


それでも、たった一夜のために二人の永遠を失うことが、どうしても許せませんでした。


セラは彼の指を一本ずつほどきました。


「ごめんね、リュイ」


右の羽が、月よりも白く輝きました。


*


母親は目を開けました。

少女は泣きながら抱きつき、何度も「大好き」と繰り返しました。

母親は震える手で娘の髪を撫でました。


「あなたと過ごせて、幸せだった」


やがて、その手は静かに動かなくなりました。

窓辺には、白い羽毛が一枚落ちていました。


セラの羽から光が消えました。

白かった羽毛は灰色に変わり、風を受けても、もう浮かびません。


リュイは彼女の手を握り、何度も羽ばたきました。

けれど二人の足は、床から離れませんでした。


「……どうして」


その声が自分のものとは思えませんでした。


「どうして、僕に相談してくれなかったの」


「相談したら、止めたでしょう?」


「当たり前だよ」


リュイは泣きそうな顔で笑いました。


「止めたかったんだよ。君を失いたくなかったから」


セラは何も言いませんでした。

その沈黙の中で、リュイは気づきました。


自分は、少女が母親に別れを告げられたことを喜べないでいる。


そんな自分が、たまらなく嫌でした。


*


天界から鐘が鳴りました。


雲が割れ、リュイの前にだけ、光の階段が現れました。

掟を守った天使に与えられる、一度きりの帰還路でした。


「帰って」


セラが言いました。


「天界で別の天使と組めば、また飛べるよ」


リュイは階段を見上げました。


その向こうには大聖堂の尖塔がありました。朝ごとに鐘が鳴り、夕暮れには雲が薔薇色に染まる、彼の故郷でした。


帰りたい。


その思いが胸に湧いた瞬間、リュイは自分を恥じました。


けれど、帰りたかったのです。

羽を広げれば風に乗れる世界へ。

失うことを恐れずに済んだ、あのころへ。


「……少しだけ、考えさせて」


セラは頷きました。

リュイは階段を登りました。


一段。

また一段。


足元の光は温かく、懐かしい雲の匂いがしました。

三段目で振り返ると、セラが小さく見えました。


灰色の羽を背負い、誰もいない病室の窓辺に立っていました。


彼女は笑おうとしていました。

けれど、うまく笑えていませんでした。


リュイは目を逸らしました。


あと少し登れば、もう見えなくなる。

そうすれば、いつか忘れられるかもしれない。

そう考えた自分に、息が詰まりました。


*


階段の途中で、リュイは立ち止まりました。

セラが掟を破ったことを、まだ許せませんでした。

自分を置いて決めたことも、一緒に飛ぶ未来を失わせたことも。


それでも、思い出してしまうのです。


雲の縁で、彼女が笑っていたこと。

自分が飛べないころ、何度でも手を差し伸べてくれたこと。


――大丈夫。リュイのことは、私が見つけるから。


リュイは唇を噛みました。

セラは、彼を置き去りにしたかったわけではありません。

ただ、泣いている少女を置き去りにできなかったのです。


その優しさを好きになったはずでした。

なのに今、自分だけに向けてほしかったと願っている。


リュイは初めて、自分の愛情の中にある身勝手さを見つめました。


そして、セラの選択を許すことと、自分が地上に残ることは、別なのだと気づきました。


彼女が選んだのなら自分も、自分で選ばなければならない。


*


リュイは階段を降りました。


一段。

また一段。


天界の鐘が、遠くなっていきます。

セラは彼を見上げ、目を見開きました。


「リュイ……?」


「まだ、怒ってる」


彼は言いました。


「君が僕に何も言わずに決めたこと、きっと簡単には許せない」


セラの瞳に涙が浮かびました。


「うん」


「天界にも帰りたい。空も飛びたい。怖いよ、ここに残るのは」


「……うん」


「でも」


リュイは最後の一段を降りました。


「君のいない空に帰ることも、怖いんだ」


セラは泣きながら首を振りました。


「私のせいで、あなたまで……」


「君のせいだけには、しないで」


リュイは彼女の手を取りました。


「これは、僕が決めたことだから」


その瞬間、光の階段は消えました。

天界の鐘も、もう聞こえませんでした。


リュイの左の羽には、まだ淡い光が宿っていました。

けれど一枚では飛べません。


彼は初めて、羽があっても帰れない空を見上げました。

涙がこぼれました。


選んだことを後悔していない。

そう言えるほど、彼はまだ強くありませんでした。


*


その夜、二人は丘の上にいました。


地上の夜は冷たく、雲の寝台も、星の毛布もありません。

セラが震えると、リュイは左の羽を広げ、彼女の肩を包みました。


「……羽って、こんな使い方もできるんだね」


「飛ぶためだけのものだと思ってた」


しばらくして、セラが言いました。


「リュイ。ありがとう」


彼はすぐには答えませんでした。

感謝されるほど立派な気持ちで残ったわけではありません。


帰りたかった。今も帰りたい。


胸の奥には、セラへの怒りと、失った空の痛みが残っていました。

彼女を選んだ自分を、正しいと思えない夜もありました。


それでも、彼女を包む羽を畳むことはできませんでした。


この温もりを拒めば、失ったものまで取り戻せる気がしました。

けれどそれは、ただ彼女を一人にするだけでした。


「……いつか、ちゃんと許せると思う」


「うん」


「でも今夜は、ここにいて」


セラは彼の手を握り返しました。

その温もりに触れると、怒りは消えないまま、握りしめていたものがほんの少し緩みました。


夜明けまで、その手は離れませんでした。


*


翌朝、二人は丘を下りました。


かつて天界から眺めた地上は、光を散りばめた美しい場所でした。

けれど歩いてみると、道は泥に沈み、石は足を痛め、春の雨は羽毛の奥まで冷たく染みました。


リュイは何度も空を見上げました。

雲が低く垂れ込める日は、手を伸ばせば帰れる気がしたのです。


そのたび、セラは何も言わず、彼の歩幅に合わせました。


二人が最初に向かったのは、あの少女の家でした。

母親を亡くした少女は、窓辺に座っていました。

かつて天使たちが置いた祈りの灯は、もう消えています。


セラが手をかざすと、淡い光がともりました。

少女は顔を上げました。


「……また、来てくれたの?」


二人の姿は見えないはずでした。

それでも少女は、誰もいない窓辺に微笑みました。


リュイはその横顔を見つめました。

セラが守りたかったものが、そこにありました。


彼はまだ、彼女の選択を喜べませんでした。

けれど、セラの隣を離れることもできませんでした。


*


最初の冬、二人は雪に閉ざされた村で過ごしました。


セラの羽は寒さに弱く、灰色の羽毛の先が霜に覆われました。


リュイは毎晩、羽を広げて彼女を包みました。


「寒くない?」


セラが尋ねるたび、彼は首を振りました。

本当は寒かったのです。

けれど、そう言えばセラが謝ると分かっていました。

彼はもう、謝罪を聞きたくありませんでした。


謝られるたび、彼女を責めたい気持ちと、責めたくない気持ちが胸に並ぶからです。どちらを選んでも、失った空は戻りません。


春になると、雪解けの川辺に小さな花が咲きました。


セラは一輪摘み、リュイに差し出しました。


「天界には咲かない花だね」


リュイは受け取りました。


淡い紫の花弁は、触れれば壊れそうでした。


「……きれいだね」


そう答えたとき、彼は初めて、空を見上げずに朝を迎えていたことに気づきました。


*


季節は幾度も巡りました。


かつての少女は背が伸び、母親の形見の外套が似合う年頃になりました。

ある秋、彼女は町を離れました。

旅立ちの朝、少女は窓辺に小さな花束を置きました。


「天使さま。私、もう大丈夫だよ」


セラは泣きそうに笑いました。

リュイは隣に立ち、遠ざかる馬車を見送りました。


「寂しい?」


彼が尋ねると、セラは頷きました。


「でも、嬉しい」


その言葉に、リュイの胸が少し痛みました。

セラは、去っていく人を見送ることに慣れていたのでしょう。

リュイは黙って、彼女の隣で同じ景色を見ていました。


*


少女が大人になったころ、リュイとセラは海辺の町にいました。


潮風は羽を傷めます。二人は崖の陰に小さな住まいを見つけました。


ある夕暮れ、セラが尋ねました。


「リュイ。まだ、私のことを怒ってる?」


彼はしばらく考えました。


「……ときどき」


セラは目を伏せました。

リュイは海を見つめました。


「でも、怒っていることと、君のそばにいたいことは、別なんだと思う」


セラが顔を上げました。


「僕はあの日、君に選んでほしかった。でも、君にも君の願いがあったんだね」


水平線の向こうで、夕日がゆっくり沈んでいました。


「それを、今なら少し分かる」


セラは何も言わず、彼の手に手を重ねました。


二人の羽は、もう空を飛ぶためには重なりません。

けれどその手の温かさだけは変わりませんでした。


*


さらに長い年月が流れました。


かつての少女は母親となり、やがて髪に白いものが混じりました。

リュイとセラは、彼女の人生を遠くから見守りました。


喜びの日には窓辺に光を置き、悲しみの日には夢の中に春の庭を咲かせました。


彼女の子供たちが巣立ち、家が静かになったころ、二人は久しぶりに町へ戻りました。


石畳は新しく敷かれ、古いパン屋は花屋に変わっていました。


それでも、少女が暮らした家の窓辺には、あの日と同じ場所に小さな花瓶がありました。


ある春の夜、その家の灯が消えました。


年老いた彼女は、寝台の上で静かに息をしていました。

セラが枕元に祈りの灯を置くと、彼女は薄く目を開けました。


「……ずっと、いてくれたのね」


その声は、かつて母親を呼んで泣いていた少女の声に、少しだけ似ていました。


セラは涙をこぼしました。

リュイは彼女の手を包みます。

窓の外では、夜明けの光が薄桃色に滲んでいました。


*


葬儀のあと、二人は町外れの丘へ登りました。


春の草が風に揺れ、遠くには白い雲が流れていました。


セラの灰色の羽は、長い年月のうちに少しずつ白さを取り戻していました。

けれど光は戻らず、空を飛ぶことはできません。


「ねえ、リュイ」


「なに?」


「あの日、階段を降りたこと、後悔してる?」


リュイは空を見上げました。


帰りたいと思う日は、今もありました。

雲の匂いを夢に見る夜もありました。


けれど、隣にはセラがいました。

彼女と歩いた道がありました。


その道で出会い、見送り、忘れられずにいる人々がいました。


「……たまにね」


リュイが答えると、セラは寂しそうに笑いました。

彼は彼女の手を取り、指を絡めました。


「でも、もう一度あの階段が現れても、僕はきっと降りてくる」


「どうして?」


「君がここにいるから」


セラの瞳に涙が浮かびました。

リュイは続けました。


「それに、僕たちを待っている人が、まだいるかもしれない」


*


天使は、一人につき一枚しか羽を持っていません。

二人が手を取り合わなければ、空を飛べないからです。


けれど、大聖堂の掟には最後の一行がありました。


《それでも地上に残る者を、天は迎えに行かない》


リュイは、その言葉を長いあいだ罰だと思っていました。


今も、優しい掟だとは思いません。

ただ、丘を渡る風の中で、彼はセラの手を離しませんでした。


リュイは立ち上がり、セラに手を差し出しました。


「行こうか」


「どこへ?」


「君が行きたいところへ」


セラは笑い、その手を取りました。

二人の足元には、花の咲く道が続いていました。


春風が吹き、リュイの白い羽がセラの肩を包みました。


羽の影が、二人の足元に淡く落ちました。まるで、空へ戻れない二人のために、新しい道を描くように。


道の先では、町の灯がひとつ、またひとつと目を覚ましていました。

遠い窓辺の祈りの灯も、誰かの手の中で揺れる小さな灯も、朝へ向かう二人を静かに呼んでいるようでした。


「ねえ、リュイ」


「なに?」


「今度は、ゆっくり行こう」


「うん」


二人は丘を下り始めました。


一歩ごとに草が羽を撫で、風が白い羽毛を揺らしました。

かつて飛ぶためだけにあった羽は、今は互いを包み、歩く二人の背に淡い光を添えていました。


空へは戻れません。

けれど、道はまだ続いていました。


その道は町へ向かいながら、まだ名もない場所へも伸びていました。

誰かの悲しみに灯を置き、誰かの旅立ちを見送り、いつかまた知らない誰かの窓辺で立ち止まるための道でした。


遠くに、朝の町が見えました。

そのどこかで、誰かの灯が小さく揺れていました。


リュイはその灯を見つめ、セラの手を取り直しました。

セラもまた、彼の指に自分の指をそっと絡めました。


二人は手をつないだまま、羽を風に預け、まだ終わらない道を歩いていきました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。