天使は、一人につき一枚しか羽を持っていない
天使は、一人につき一枚しか羽を持っていません。
右の羽を持つ天使と、左の羽を持つ天使。二人が手を取り合って初めて、空を飛ぶことができます。
天界の大聖堂には、三つの掟が刻まれていました。
《人の命の長さを変えてはならない》
《死にゆく者を呼び戻してはならない》
《羽の光を人間に渡してはならない》
そして、その下に、ひときわ小さな文字でこう記されていました。
《それでも地上に残る者を、天は迎えに行かない》
羽の光を失った天使は、二度と飛べません。
掟を破った者を迎えるために、天界が道を開くこともありません。
だから天使たちは、最後の一行を罰の言葉だと考えよました。
*
リュイには、左の羽しかありませんでした。
雪のように白く、朝日に透かすと淡い金色に輝く、美しい羽でした。
けれど一枚では飛べません。
幼いころから、リュイは雲の縁に座り、空を渡る天使たちを眺めていました。
そんな彼の隣には、いつもセラがいました。
セラは右の羽を持っていました。
「ねえ、リュイ。もし私が地上で迷子になったら、迎えに来てくれる?」
「天使が迷子になるわけないよ」
「もしもの話」
リュイは少し考えました。
「天界の鐘を鳴らせば、誰かが迎えに来てくれるよ」
「リュイは?」
「僕も行くよ」
「絶対?」
「絶対」
セラは満足そうに笑い、彼の手を握りました。
二枚の羽が触れ合うと、足元の雲がふわりと浮き上がりました。
その日、二人は初めて、雲の縁を越えて飛びました。
*
天使は地上の人々を見守る役目を持っています。
迷う者に道を示し、悲しむ者のそばに祈りの灯を置くのです。
けれど、人の命を変えることだけは許されませんでした。
初めて地上へ降りた冬、二人は雪の町の病室で、母親の手を握る少女に出会いました。
「お母さん、明日も起きてくれる?」
眠る母親は答えません。
セラが寝台へ近づくと、リュイはそっと手を引きました。
「僕たちにできるのは、祈りを届けることだけだよ」
「分かってる。でも、ひとりにはしたくないの」
二人は枕元に小さな灯を置きました。
命を延ばす力のない、ただ夜を照らすための光でした。
翌朝、母親は目を覚ましました。
まだ生きる力が残っていたのです。
少女は窓辺に落ちた白い羽毛を拾い、泣きながら笑いました。
「天使さま、ありがとう」
その帰り道、セラは呟きました。
「もし、目を覚まさなかったら……」
「それでも、僕たちには何もできないよ」
リュイが答えると、セラは黙りました。
彼女の右の羽が、夕日に透けて赤く染まっていました。
その沈黙を、リュイは長いあいだ見ていました。
*
春の終わり、少女の母親は再び深い眠りにつきました。
今度は、目覚めることのない眠りでした。
「お願い。お母さんを連れていかないで」
少女の声が、薄暗い病室に響きます。
天使には、死の間際にいる者を一度だけ目覚めさせる術がありました。
命を延ばすことはできません。
ただ、残されたわずかな時間に、最後の言葉を交わす機会を与えられるのです。
代償は、羽に宿る光のすべて。
「やめて」
リュイはセラの手首を掴みました。
「君がどうなるか、分かっているだろう」
「分かってる」
「分かってないよ!」
思いがけず大きな声が出ました。
人間には聞こえない声でした。それでもリュイは、自分の激しさに怯えました。
「僕たち、やっと一緒に飛べるようになったんだ。これから何百年だって、いろんな場所へ行けるのに」
セラは目を伏せました。
「……ごめんね」
その謝罪が、リュイには残酷でした。
謝るくらいなら、やめてほしかった。
自分との未来を選んでほしかった。
「その子のために、僕との約束を捨てるの?」
セラの顔が歪みました。
「捨てたいわけじゃない」
「だったら――」
「でも、あの子には今夜しかないの」
リュイは言葉を失いました。
自分たちには、まだ幾百もの夜がある。
セラの言うとおりでした。
それでも、たった一夜のために二人の永遠を失うことが、どうしても許せませんでした。
セラは彼の指を一本ずつほどきました。
「ごめんね、リュイ」
右の羽が、月よりも白く輝きました。
*
母親は目を開けました。
少女は泣きながら抱きつき、何度も「大好き」と繰り返しました。
母親は震える手で娘の髪を撫でました。
「あなたと過ごせて、幸せだった」
やがて、その手は静かに動かなくなりました。
窓辺には、白い羽毛が一枚落ちていました。
セラの羽から光が消えました。
白かった羽毛は灰色に変わり、風を受けても、もう浮かびません。
リュイは彼女の手を握り、何度も羽ばたきました。
けれど二人の足は、床から離れませんでした。
「……どうして」
その声が自分のものとは思えませんでした。
「どうして、僕に相談してくれなかったの」
「相談したら、止めたでしょう?」
「当たり前だよ」
リュイは泣きそうな顔で笑いました。
「止めたかったんだよ。君を失いたくなかったから」
セラは何も言いませんでした。
その沈黙の中で、リュイは気づきました。
自分は、少女が母親に別れを告げられたことを喜べないでいる。
そんな自分が、たまらなく嫌でした。
*
天界から鐘が鳴りました。
雲が割れ、リュイの前にだけ、光の階段が現れました。
掟を守った天使に与えられる、一度きりの帰還路でした。
「帰って」
セラが言いました。
「天界で別の天使と組めば、また飛べるよ」
リュイは階段を見上げました。
その向こうには大聖堂の尖塔がありました。朝ごとに鐘が鳴り、夕暮れには雲が薔薇色に染まる、彼の故郷でした。
帰りたい。
その思いが胸に湧いた瞬間、リュイは自分を恥じました。
けれど、帰りたかったのです。
羽を広げれば風に乗れる世界へ。
失うことを恐れずに済んだ、あのころへ。
「……少しだけ、考えさせて」
セラは頷きました。
リュイは階段を登りました。
一段。
また一段。
足元の光は温かく、懐かしい雲の匂いがしました。
三段目で振り返ると、セラが小さく見えました。
灰色の羽を背負い、誰もいない病室の窓辺に立っていました。
彼女は笑おうとしていました。
けれど、うまく笑えていませんでした。
リュイは目を逸らしました。
あと少し登れば、もう見えなくなる。
そうすれば、いつか忘れられるかもしれない。
そう考えた自分に、息が詰まりました。
*
階段の途中で、リュイは立ち止まりました。
セラが掟を破ったことを、まだ許せませんでした。
自分を置いて決めたことも、一緒に飛ぶ未来を失わせたことも。
それでも、思い出してしまうのです。
雲の縁で、彼女が笑っていたこと。
自分が飛べないころ、何度でも手を差し伸べてくれたこと。
――大丈夫。リュイのことは、私が見つけるから。
リュイは唇を噛みました。
セラは、彼を置き去りにしたかったわけではありません。
ただ、泣いている少女を置き去りにできなかったのです。
その優しさを好きになったはずでした。
なのに今、自分だけに向けてほしかったと願っている。
リュイは初めて、自分の愛情の中にある身勝手さを見つめました。
そして、セラの選択を許すことと、自分が地上に残ることは、別なのだと気づきました。
彼女が選んだのなら自分も、自分で選ばなければならない。
*
リュイは階段を降りました。
一段。
また一段。
天界の鐘が、遠くなっていきます。
セラは彼を見上げ、目を見開きました。
「リュイ……?」
「まだ、怒ってる」
彼は言いました。
「君が僕に何も言わずに決めたこと、きっと簡単には許せない」
セラの瞳に涙が浮かびました。
「うん」
「天界にも帰りたい。空も飛びたい。怖いよ、ここに残るのは」
「……うん」
「でも」
リュイは最後の一段を降りました。
「君のいない空に帰ることも、怖いんだ」
セラは泣きながら首を振りました。
「私のせいで、あなたまで……」
「君のせいだけには、しないで」
リュイは彼女の手を取りました。
「これは、僕が決めたことだから」
その瞬間、光の階段は消えました。
天界の鐘も、もう聞こえませんでした。
リュイの左の羽には、まだ淡い光が宿っていました。
けれど一枚では飛べません。
彼は初めて、羽があっても帰れない空を見上げました。
涙がこぼれました。
選んだことを後悔していない。
そう言えるほど、彼はまだ強くありませんでした。
*
その夜、二人は丘の上にいました。
地上の夜は冷たく、雲の寝台も、星の毛布もありません。
セラが震えると、リュイは左の羽を広げ、彼女の肩を包みました。
「……羽って、こんな使い方もできるんだね」
「飛ぶためだけのものだと思ってた」
しばらくして、セラが言いました。
「リュイ。ありがとう」
彼はすぐには答えませんでした。
感謝されるほど立派な気持ちで残ったわけではありません。
帰りたかった。今も帰りたい。
胸の奥には、セラへの怒りと、失った空の痛みが残っていました。
彼女を選んだ自分を、正しいと思えない夜もありました。
それでも、彼女を包む羽を畳むことはできませんでした。
この温もりを拒めば、失ったものまで取り戻せる気がしました。
けれどそれは、ただ彼女を一人にするだけでした。
「……いつか、ちゃんと許せると思う」
「うん」
「でも今夜は、ここにいて」
セラは彼の手を握り返しました。
その温もりに触れると、怒りは消えないまま、握りしめていたものがほんの少し緩みました。
夜明けまで、その手は離れませんでした。
*
翌朝、二人は丘を下りました。
かつて天界から眺めた地上は、光を散りばめた美しい場所でした。
けれど歩いてみると、道は泥に沈み、石は足を痛め、春の雨は羽毛の奥まで冷たく染みました。
リュイは何度も空を見上げました。
雲が低く垂れ込める日は、手を伸ばせば帰れる気がしたのです。
そのたび、セラは何も言わず、彼の歩幅に合わせました。
二人が最初に向かったのは、あの少女の家でした。
母親を亡くした少女は、窓辺に座っていました。
かつて天使たちが置いた祈りの灯は、もう消えています。
セラが手をかざすと、淡い光がともりました。
少女は顔を上げました。
「……また、来てくれたの?」
二人の姿は見えないはずでした。
それでも少女は、誰もいない窓辺に微笑みました。
リュイはその横顔を見つめました。
セラが守りたかったものが、そこにありました。
彼はまだ、彼女の選択を喜べませんでした。
けれど、セラの隣を離れることもできませんでした。
*
最初の冬、二人は雪に閉ざされた村で過ごしました。
セラの羽は寒さに弱く、灰色の羽毛の先が霜に覆われました。
リュイは毎晩、羽を広げて彼女を包みました。
「寒くない?」
セラが尋ねるたび、彼は首を振りました。
本当は寒かったのです。
けれど、そう言えばセラが謝ると分かっていました。
彼はもう、謝罪を聞きたくありませんでした。
謝られるたび、彼女を責めたい気持ちと、責めたくない気持ちが胸に並ぶからです。どちらを選んでも、失った空は戻りません。
春になると、雪解けの川辺に小さな花が咲きました。
セラは一輪摘み、リュイに差し出しました。
「天界には咲かない花だね」
リュイは受け取りました。
淡い紫の花弁は、触れれば壊れそうでした。
「……きれいだね」
そう答えたとき、彼は初めて、空を見上げずに朝を迎えていたことに気づきました。
*
季節は幾度も巡りました。
かつての少女は背が伸び、母親の形見の外套が似合う年頃になりました。
ある秋、彼女は町を離れました。
旅立ちの朝、少女は窓辺に小さな花束を置きました。
「天使さま。私、もう大丈夫だよ」
セラは泣きそうに笑いました。
リュイは隣に立ち、遠ざかる馬車を見送りました。
「寂しい?」
彼が尋ねると、セラは頷きました。
「でも、嬉しい」
その言葉に、リュイの胸が少し痛みました。
セラは、去っていく人を見送ることに慣れていたのでしょう。
リュイは黙って、彼女の隣で同じ景色を見ていました。
*
少女が大人になったころ、リュイとセラは海辺の町にいました。
潮風は羽を傷めます。二人は崖の陰に小さな住まいを見つけました。
ある夕暮れ、セラが尋ねました。
「リュイ。まだ、私のことを怒ってる?」
彼はしばらく考えました。
「……ときどき」
セラは目を伏せました。
リュイは海を見つめました。
「でも、怒っていることと、君のそばにいたいことは、別なんだと思う」
セラが顔を上げました。
「僕はあの日、君に選んでほしかった。でも、君にも君の願いがあったんだね」
水平線の向こうで、夕日がゆっくり沈んでいました。
「それを、今なら少し分かる」
セラは何も言わず、彼の手に手を重ねました。
二人の羽は、もう空を飛ぶためには重なりません。
けれどその手の温かさだけは変わりませんでした。
*
さらに長い年月が流れました。
かつての少女は母親となり、やがて髪に白いものが混じりました。
リュイとセラは、彼女の人生を遠くから見守りました。
喜びの日には窓辺に光を置き、悲しみの日には夢の中に春の庭を咲かせました。
彼女の子供たちが巣立ち、家が静かになったころ、二人は久しぶりに町へ戻りました。
石畳は新しく敷かれ、古いパン屋は花屋に変わっていました。
それでも、少女が暮らした家の窓辺には、あの日と同じ場所に小さな花瓶がありました。
ある春の夜、その家の灯が消えました。
年老いた彼女は、寝台の上で静かに息をしていました。
セラが枕元に祈りの灯を置くと、彼女は薄く目を開けました。
「……ずっと、いてくれたのね」
その声は、かつて母親を呼んで泣いていた少女の声に、少しだけ似ていました。
セラは涙をこぼしました。
リュイは彼女の手を包みます。
窓の外では、夜明けの光が薄桃色に滲んでいました。
*
葬儀のあと、二人は町外れの丘へ登りました。
春の草が風に揺れ、遠くには白い雲が流れていました。
セラの灰色の羽は、長い年月のうちに少しずつ白さを取り戻していました。
けれど光は戻らず、空を飛ぶことはできません。
「ねえ、リュイ」
「なに?」
「あの日、階段を降りたこと、後悔してる?」
リュイは空を見上げました。
帰りたいと思う日は、今もありました。
雲の匂いを夢に見る夜もありました。
けれど、隣にはセラがいました。
彼女と歩いた道がありました。
その道で出会い、見送り、忘れられずにいる人々がいました。
「……たまにね」
リュイが答えると、セラは寂しそうに笑いました。
彼は彼女の手を取り、指を絡めました。
「でも、もう一度あの階段が現れても、僕はきっと降りてくる」
「どうして?」
「君がここにいるから」
セラの瞳に涙が浮かびました。
リュイは続けました。
「それに、僕たちを待っている人が、まだいるかもしれない」
*
天使は、一人につき一枚しか羽を持っていません。
二人が手を取り合わなければ、空を飛べないからです。
けれど、大聖堂の掟には最後の一行がありました。
《それでも地上に残る者を、天は迎えに行かない》
リュイは、その言葉を長いあいだ罰だと思っていました。
今も、優しい掟だとは思いません。
ただ、丘を渡る風の中で、彼はセラの手を離しませんでした。
リュイは立ち上がり、セラに手を差し出しました。
「行こうか」
「どこへ?」
「君が行きたいところへ」
セラは笑い、その手を取りました。
二人の足元には、花の咲く道が続いていました。
春風が吹き、リュイの白い羽がセラの肩を包みました。
羽の影が、二人の足元に淡く落ちました。まるで、空へ戻れない二人のために、新しい道を描くように。
道の先では、町の灯がひとつ、またひとつと目を覚ましていました。
遠い窓辺の祈りの灯も、誰かの手の中で揺れる小さな灯も、朝へ向かう二人を静かに呼んでいるようでした。
「ねえ、リュイ」
「なに?」
「今度は、ゆっくり行こう」
「うん」
二人は丘を下り始めました。
一歩ごとに草が羽を撫で、風が白い羽毛を揺らしました。
かつて飛ぶためだけにあった羽は、今は互いを包み、歩く二人の背に淡い光を添えていました。
空へは戻れません。
けれど、道はまだ続いていました。
その道は町へ向かいながら、まだ名もない場所へも伸びていました。
誰かの悲しみに灯を置き、誰かの旅立ちを見送り、いつかまた知らない誰かの窓辺で立ち止まるための道でした。
遠くに、朝の町が見えました。
そのどこかで、誰かの灯が小さく揺れていました。
リュイはその灯を見つめ、セラの手を取り直しました。
セラもまた、彼の指に自分の指をそっと絡めました。
二人は手をつないだまま、羽を風に預け、まだ終わらない道を歩いていきました。




