神さまは、二番目の願いしか叶えない
この国の神さまは、二番目の願いしか叶えません。
だから人々は、神殿へ行くとき、最初にどうでもいい願いを口にします。
――明日は晴れますように。
――夕食に林檎のパイが出ますように。
――失くした靴下が見つかりますように。
そうしてから、本当に叶えてほしい願いを告げるのです。
けれど、十二歳のリーネは不思議に思っていました。
「神さまって、どうして二番目なの?」
幼なじみのセオは、林檎を齧りながら笑いました。
「一番目じゃ駄目なのかな」
「だったら最初から叶えてくれればいいのに」
「そうだね。でも、リーネだって二番目に言いたいことがあるだろ?」
「例えば?」
セオは少し考えてから、照れくさそうに答えました。
「明日も遊ぼうって言うとき、本当は明後日も、その次の日も一緒にいたいって思ってる」
リーネは笑いました。
「欲張りね」
「リーネもだろ?」
二人は笑い合いました。
そのころは、明日というものはいつまでも続くと思っていたのです。
*
その冬、セオが病気になりました。
春になっても熱は下がらず、窓辺の寝台から起き上がれません。
雪解けの雫が軒先から落ちるたび、彼の細い肩が咳に震えました。
「元気になったら、湖へ行こう」
リーネが言うと、セオは青白い顔で笑いました。
「林檎のパイも持って?」
「もちろん。来年も、その次の年も行こうね」
セオは頷きましたが、夕方には意識を失いました。
医者は、もう長くないと言いました。
その夜、リーネは初めて神殿へ向かいました。
月光に沈む祭壇で、白い神像が静かに目を閉じています。
「明日、晴れますように」
決まりどおり、一つ目の願いを告げました。
それから震える手を組み、祈りました。
「セオの病気を治してください」
神像の頬を、金色の涙が一滴流れました。
翌朝、セオの熱は下がっていました。
窓の外では激しい雨が降っていましたが、リーネは少しも気にしませんでした。
神さまは、ちゃんと二番目を叶えてくれたのです。
*
十年後、二人は結婚しました。
湖の見える小さな家を買い、庭に林檎の木を植えました。
「これで毎年パイが焼けるね」
セオが土だらけの手で笑います。
「毎年、湖にも行くのよ」
「来年も、その次の年も?」
「おじいちゃんとおばあちゃんになるまで」
春には白い花が咲き、夏には湖面に二人の影が揺れました。
何でもない日々が、宝物のように積み重なっていきました。
けれど、その秋。
セオの乗った馬車が崖から落ちました。
知らせを聞いて駆けつけたとき、彼はまだ息をしていました。
けれど、リーネの手を握り返す力はありませんでした。
「朝までは難しいでしょう」
医者の言葉を聞いたリーネは、雨の中を走りました。
十年前と同じ神殿へ。
「明日、晴れますように」
そして、祈りました。
「セオを死なせないでください」
けれど、神像は動きませんでした。
「どうして……?」
もう一度、同じ願いを繰り返しました。
「二番目でしょう? ちゃんと二つ言ったのに!」
そのとき、神像が目を開きました。
《私は、言葉の数を数えているのではない》
金色の瞳が、リーネを見下ろしました。
《一番目は、お前が叶えてほしいと思っていること》
《二番目は、なぜそれを叶えてほしいのかという、心の奥の願いだ》
「……どういうこと?」
《十年前、お前は病を治してほしいと願った。だが本当に望んでいたのは、あの少年と未来を生きることだった》
リーネは息を呑みました。
春の湖。
林檎のパイ。
来年も、その次の年も。
あの夜、彼女が欲しかったのは、病のない身体だけではありませんでした。
セオと一緒に過ごす、まだ見ぬ年月だったのです。
《だから私は病を治した。お前の二番目の願いを叶えるために》
「だったら、今だって……!」
《今、お前は何を恐れている?》
リーネの唇が震えました。
セオが死ぬこと。
もう二度と笑い声を聞けないこと。
そして、そのあとに続く長い年月を、たったひとりで生きること。
「……ひとりに、しないで」
ようやく声になりました。
「セオがいなくなったら、私、どうやって生きていけばいいの……」
神さまは静かに答えました。
《それがお前の二番目の願いだ》
「だったら、セオを助けて!」
《それは一番目の願いだ》
リーネは凍りつきました。
《私は二番目しか叶えない》
「待って……」
神像の頬を、金色の涙が伝いました。
「そんなの、嫌……!」
けれど、奇跡はもう始まっていました。
*
セオは夜明け前に死にました。
最後まで、リーネの名前を呼んでいたそうです。
葬儀が終わっても、リーネは庭の林檎の木を見られませんでした。
二人で植えた苗木は、何も知らないように枝を揺らしていました。
やがて、彼女のお腹に子供がいることが分かりました。
翌春、女の子が生まれました。
セオと同じ、灰色の瞳でした。
小さな指がリーネの指を握ったとき、彼女は泣き崩れました。
「……あなたじゃ、ないのに」
腕の中の温もりは、セオの代わりではありません。
どれほど愛しくても、失った人は帰ってこない。
それでも、この子を抱いて生きていかなければと思いました。
――ひとりにしないで。
神さまは、確かに二番目の願いを叶えたのです。
リーネが望んだ形ではなく。
けれど、約束したとおりに。
*
それから、長い年月が過ぎました。
リーネは二度と神殿へ行きませんでした。
娘が初めて歩いた日も、熱を出した夜も、恋をして家を出た日も、神さまには頼りませんでした。
寂しさが消えたわけではありません。
娘を抱きしめながら、セオに会いたくて泣いた夜もありました。
幸せな日ほど、隣にいない人のことを思い出しました。
それでも娘は成長し、やがて孫が生まれました。
秋になると、家族みんなで林檎のパイを焼きました。
「おばあちゃん、どうして毎年これを作るの?」
幼い孫に尋ねられると、リーネは笑いました。
「昔ね、ずっと一緒に食べようって約束した人がいたの」
「その人は?」
「……遠くへ行ってしまったの」
「じゃあ、帰ってきたら一緒に食べようね」
リーネは頷きました。
「そうね」
その年のパイは、少しだけ塩辛い味がしました。
*
八十歳を過ぎた春。
リーネは窓辺の寝台で、最期の時を迎えていました。
娘が手を握っています。
庭では、セオと植えた林檎の木が白い花を咲かせていました。
「怖い?」
娘が尋ねました。
「ええ。少しね」
リーネは微笑みました。
死にたくない。
それが一番目の願いでした。
では、その奥にある二番目は何だろう。
目を閉じると、長い人生が浮かびました。
セオと歩いた湖畔。
生まれたばかりの娘の泣き声。
孫たちの笑顔。
林檎の花が咲いては散り、また咲いた幾十年。
そして、いつも心のどこかにいた、あの少年。
「ねえ」
リーネは娘の手を握り返しました。
「私のこと、忘れないでね」
娘の目から涙が落ちました。
「忘れるわけないでしょう」
「セオのことも」
「うん。何度も聞いたもの。お父さんのお話」
「そう……」
リーネは安堵したように笑いました。
もう神さまへ願う必要はありませんでした。
死にたくないのは、まだ愛していたいから。
そして、愛してきた時間が、自分と一緒に消えてしまうのが怖かったから。
けれど、その時間はもう、娘の中にも、孫たちの中にも残っていました。
「お母さん」
娘が呼びました。
「なあに?」
「私、あなたの娘でよかった」
リーネは目を細めました。
あの夜、神さまが授けてくれた、小さな命。
その命は、セオの代わりにはならなかった。
けれど確かに、彼女を何度も明日へ連れていってくれました。
「……私も、あなたのお母さんでよかった」
*
その夜、リーネは静かに息を引き取りました。
翌朝、春の雨が降りました。
娘は母の寝台を片づけてから、庭へ出ました。
林檎の木の下には、父と母が若いころに置いた古い木椅子がありました。
娘はそこへ腰掛け、幼いころから何度も聞いた話を思い出しました。
病気だった少年。
月明かりの神殿。
叶わなかった晴れの願い。
そして、二人が約束した春の湖。
娘はしばらく泣いていました。
やがて雨が上がり、雲の切れ間から淡い光が差しました。
白い花びらが、濡れた膝へ落ちました。
「……忘れないよ」
誰に聞かせるでもなく呟きました。
「お父さんも、お母さんも」
遠い神殿で、金色の雫が一滴だけ落ちました。
けれど、奇跡は起こりませんでした。
リーネの最後の願いは、すでに叶っていたからです。
*
この国の神さまは、二番目の願いしか叶えません。
人々は今も、最初にどうでもいい願いを口にします。
けれど神さまは、そんな言葉を数えてはいません。
誰かを助けたいと願う、その奥にある「一緒に生きたい」という気持ち。
死なないでほしいと願う、その奥にある「ひとりにしないで」という気持ち。
そして、死にたくないと願う、その奥にある「愛した時間を失いたくない」という気持ち。
神さまが聞いているのは、いつもそちらです。
リーネは生涯に、二度だけ神さまへ願いました。
最初の願いで、セオと過ごす十年を与えられました。
二度目の願いで、セオのいない何十年を生きるための、小さな手を与えられました。
そして最後の願いだけは、神さまへ届けませんでした。
雨上がりの庭で、娘は林檎の木の下に立っていました。
濡れた枝から白い花びらがひとつ、肩へ落ちました。
娘はそれを指先で受け止め、胸元にそっとしまいました。
「忘れないよ」
風が吹き、花の匂いが庭いっぱいに広がりました。
遠い湖のほとりで、少年と少女が笑ったような気がしました。
娘は目を閉じました。
その声は、雨の向こうへ消えず、春の光の中にいつまでも残っていました。




