この町では、嘘をつかない子から大人になります
この町では、嘘をつかない子から大人になります。
心に隠した本当の気持ちをひとつ認めるたび、子供の髪は一本ずつ銀色に変わります。
そして、もう自分自身に嘘をつけなくなった子は、《大人》と呼ばれるのです。
だから親たちは教えました。
――正直な子ほど、早く立派な大人になれるのよ。
けれど、この町には奇妙なことがありました。
《大人になった子》が、年老いた姿を見せたことは一度もなかったのです。
*
十一歳のノエミは、嘘つきでした。
「宿題は?」
「終わった」
終わっていません。
「お菓子を食べた?」
「食べてない」
口元には砂糖がついています。
「怖い?」
「全然」
雷が鳴るたび、肩が跳ねました。
そんなノエミの髪は、まだ柔らかな栗色でした。
一方、幼なじみのエルヴァンは十二歳にして、髪の半分が銀色です。
「どうしたら、そんなに正直になれるの?」
冬の放課後、鐘楼の下で尋ねると、エルヴァンは困ったように笑いました。
「嘘をつかなければいいだけだよ」
「それが難しいんだけど」
「ノエミは、もう少し正直になったほうがいい」
そう言った指先が、なぜか震えていました。
そのとき、鐘楼の壁の向こうから、かすかな音がしました。
ごぉん、とも、呻き声ともつかない低い響きです。
ノエミが振り返ると、エルヴァンはすぐに彼女の手を引きました。
「地下には近づかないで」
「どうして?」
「昔の鐘の仕組みが残ってるんだ。聞こえた音を、誰かに話してもいけない」
「誰かって?」
エルヴァンは答えず、銀色の髪を隠すように俯きました。
その夜から、ノエミは鐘楼の地下に、町の人々が口にしない何かがあるのだと思うようになりました。
*
町では年に一度、《真実の日》があります。
子供たちは白い教会へ集められ、《真実の鐘》の前で質問を受けます。
――お母さんが好きですか。
――友達を羨ましく思ったことがありますか。
――誰かがいなくなればいいと思ったことがありますか。
鐘が見ているのは、口にした答えではありません。
その子が、自分の本心を認めたかどうかです。
たとえ「羨ましくありません」と答えても、心の中で《本当は羨ましい》と認めれば、鐘は鳴ります。
反対に「羨ましいです」と答えても、自分の嫉妬を理解していなければ鳴りません。
鐘が鳴るたび、髪が一本、銀色になります。
十歳の年、ノエミは「弟が生まれて嬉しかったですか」と尋ねられました。
本当は、少し寂しかったのです。
母の膝も子守歌も、もう自分だけのものではなくなったから。
けれど、弟を可愛いと思う気持ちもありました。
そんな自分が嫌で、ノエミは胸の奥に蓋をしました。
――私は嬉しかった。それだけ。
「嬉しかったです」
鐘は鳴りませんでした。
帰り道、母はノエミの手を握りました。
「ごめんなさい。嘘をついたの」
「いいのよ」
「でも、悪い子でしょう?」
母は立ち止まり、娘の栗色の髪を撫でました。
「いいえ。まだ、寂しかったって言えなくてもいいの」
母は白い鐘楼を振り返りました。
「いつか言える日まで、その気持ちは大事にしまっておきなさい」
*
ふたりが十二歳の冬。
エルヴァンの髪は、とうとう一本を残してすべて銀色になりました。
町の人々は喜びました。
「もうすぐ大人ね」
「立派な子だわ」
けれど本人だけは、少しも嬉しそうではありません。
その頃から、エルヴァンはときどき授業を抜け出すようになりました。
ある朝、ノエミは教室の窓から、彼が校庭の隅に立っているのを見つけました。
エルヴァンは自分の髪を一本ずつ数え、最後に残った栗色の髪を指で押さえていました。
そこへ教師が近づくと、彼は慌てて手を下ろし、笑顔を作りました。
「何をしていたの?」
「何も」
けれど、彼の手のひらには、爪が食い込んだ赤い跡が残っていました。
その日の昼休み、エルヴァンの机の中から、誰かが入れた小さな銀の鈴が見つかりました。
鈴には教会の地下扉と同じ印が刻まれています。
触れても音はしないのに、エルヴァンが近づくと、鈴の中から低い息づかいが漏れました。
エルヴァンは顔色を変え、鈴を布で包みました。
「それ、何?」
「知らない」
「嘘でしょう」
「知らないんだ!」
初めて聞く大声でした。
エルヴァンはすぐに口元を押さえ、教室の全員が振り返ると、震える声で謝りました。
その日の放課後、彼は教会の裏手にある古い換気口の前で立ち止まっていました。
石の隙間からは、冷たい空気と、鉄のような匂いが流れてきます。
「ここで何をしているの?」
「何でもないよ」
「嘘でしょう」
エルヴァンは笑おうとしましたが、うまく笑えませんでした。
「地下から、名前を呼ばれるんだ」
「誰に?」
「分からない。でも、僕が全部正直になったら、迎えに来るって」
ノエミの背中を冷たいものが走りました。
「そんなの、聞かなかったことにすればいいよ」
「そうできたら、よかったんだけどね」
エルヴァンは銀色の髪を握りしめました。
「鐘が鳴るたび、あれが近くなるんだ」
その夜、二人は雪の積もった丘へ登りました。
家々の窓明かりが、凍てつく町に小さな星のように浮かんでいます。
「ノエミ」
「なに?」
「僕が大人になっても、覚えていてくれる?」
「当たり前でしょう」
「……嘘じゃない?」
「これは本当よ」
エルヴァンは安心したように笑いました。
それから、雪を踏みしめながら呟きました。
「僕、大人になるのが楽しみなんだ」
ノエミは、震える声を聞きました。
けれど、怖いのだろうとは尋ねませんでした。
聞けば彼が泣いてしまう気がしたからです。
*
《真実の日》の三日前、町の掲示板にエルヴァンの名前が刻まれました。
《今年、最も早く大人になる子》
人々は彼を取り囲み、肩を叩き、銀色の髪を褒めました。
その夜、エルヴァンの家の窓から、明かりが消えませんでした。
ノエミが訪ねると、彼の母親は何度も扉の鍵を確かめていました。
「エルヴァンは?」
「教会へ行ったわ」
「こんな時間に?」
母親は答えず、白い布に包まれた何かを胸に抱えていました。
布の隙間から、あの銀の鈴が覗いています。
そのとき、家の床下から、ごぉん、と音がしました。
エルヴァンの母親は息を呑み、鈴を落としました。
「今の、何?」
ノエミが尋ねると、母親は青ざめた顔で笑いました。
「古い家だから、床が鳴ったのよ」
けれど、彼女の足元には、濡れた銀色の粉が落ちていました。
ノエミはその粉を拾おうとしましたが、母親が素早く踏みつけました。
「帰りなさい」
「エルヴァンに会わせて」
「今は駄目」
「どうして?」
母親は扉を閉める直前、声を震わせました。
「明日になれば。もう遅いから」
扉が閉じたあと、ノエミは家の中から聞こえる泣き声を聞きました。
その夜、エルヴァンは戻りませんでした。
翌朝、彼は教室の隅に座っていました。
顔色は悪く、左手の甲には細い亀裂のような傷が走っています。
「どこにいたの?」
「家にいたよ」
「おばさんは、教会に行ったって言ってた」
エルヴァンは黙り込みました。
ノエミが傷に触れようとすると、彼は激しく手を引きました。
「触らないで!」
その声に、ノエミは一歩下がりました。
エルヴァンはすぐに俯きました。
「ごめん。怖かったんだ」
「何が?」
「……分からない」
けれど彼の視線は、教会の方角から離れませんでした。
ノエミは初めて、エルヴァンが何かを隠しているのではなく、何かに隠させられているのだと思いました。
*
翌朝、《真実の鐘》が鳴る日が来ました。
広場の中央に立つエルヴァンの髪には、栗色が一本だけ残っています。
神官が尋ねました。
「あなたは、大人になることが怖いですか」
エルヴァンは俯きました。
「怖くありません」
鐘は鳴りません。
彼はまだ、自分の恐怖を認めまいとしていたのです。
神官が、もう一度尋ねました。
「あなたは、大人になることが怖いですか」
エルヴァンはノエミを見ました。
目に涙が浮かんでいます。
「……怖くありません」
同じ答えでした。
けれど今度は、心の中で認めていました。
――本当は、怖い。
ごぉん。
鐘が鳴りました。
最後の栗色が銀色へ変わり、人々が祝福の拍手を送ります。
その瞬間、鐘楼の地下から、あの低い音が響きました。
ごぉん。
今度は、鐘の音に重なって、誰かが息を吸い込むような音が聞こえます。
エルヴァンの顔から血の気が引きました。
彼はノエミだけを見ていました。
まるで何かを伝えたがっているように。
けれど彼は、最後まで何も言いませんでした。
*
翌朝、エルヴァンはいなくなりました。
雪の上には、教会へ続く足跡だけが残っていました。
その足跡は鐘楼の裏で途切れ、銀色の粉がわずかに散っていました。
「大人になったからよ」
町の人々はそう言いました。
けれど、どこへ行ったのか尋ねても、誰も答えません。
その夜、ノエミは母が古い鍵を磨いているのを見ました。
銀色の粉がついた白い布。
教会の地下扉と同じ印が刻まれた鍵。
「お母さん、それは何?」
母はしばらく黙っていました。
そして、初めて娘に嘘をつきました。
「何でもないのよ」
ノエミは気づきました。
母の手も、エルヴァンと同じように震えていたのです。
*
夜更け、ノエミは教会へ忍び込みました。
祭壇の裏にある階段を下りると、地下には銀色の森が広がっていました。
木々ではありません。
何百人もの少年少女が、白い結晶に閉じ込められていたのです。
みんな銀色の髪をしていました。
結晶の表面には、細い亀裂が走っていました。
その亀裂の奥から、かすかな声が漏れています。
――怖い。
――寂しい。
――まだ、分からない。
その中に、エルヴァンがいました。
「エルヴァン!」
駆け寄ったノエミが結晶の向こうへ手を伸ばすと、背後から声がしました。
「触ってはいけないわ」
母でした。
その目には涙が浮かんでいます。
「……どうして、ここに?」
母は首から古い鍵を外し、地下の奥にある黒い扉を指しました。
「あなたに、見せなければならないものがあるの」
*
黒い扉の向こうには、古い契約書がありました。
その紙の端には、銀色の粉がこびりついていました。
そこには、町が隠してきた真実が記されていました。
昔、この町には《真実を食べるもの》という怪物がいました。
怪物が好むのは、正直な人間ではありません。
自分の心をすべて理解してしまった人間でした。
人は誰かを愛しながら憎むことがあります。
嬉しいのに寂しく、平気なふりをしなければ立っていられない夜もあります。
そうした矛盾を抱えたまま、まだ受け入れきれずにいることが、人の心を守っていました。
けれど怪物は、その守りをすべて失った人間だけを食べるのです。
鐘が鳴ったあと、地下から聞こえた声は、怪物が供物の心を探る音でした。
結晶に閉じ込められた子供たちの亀裂は、怪物が少しずつ心を食べた跡だったのです。
そこで町は、怪物と契約しました。
《真実の鐘》で子供たちに本心を認めさせ、すべての嘘を失った者を差し出す。
その代わり、怪物はほかの人々を襲わない。
「じゃあ……エルヴァンは?」
母は結晶を見つめました。
「怪物に、心を食べられてしまったの」
結晶に残されているのは、もう目覚めることのない身体でした。
ノエミは唇を噛みました。
「お母さんは、知っていたの?」
「ええ」
「だったら、どうして止めなかったの!」
母は答えられませんでした。
長い沈黙のあと、震える声で言いました。
「怖かったの。逆らえば、あなたまで失うと思ったから」
母は鍵を握りしめました。
「この鍵は、昔、真実を知った人から託されたものよ。いつか誰かが、この仕組みを終わらせられるように」
黒い扉の奥には、契約の最後の一節がありました。
《鐘が鳴らぬかぎり、供物は生まれない》
《供物なきとき、怪物は人を喰らうことあたわず》
怪物は、誰でも襲えるわけではありませんでした。
鐘によって、すべての本心を暴かれた人間しか食べられないのです。
「……だったら」
ノエミは顔を上げました。
「もう、鐘を鳴らさなければいい」
母は泣きながら頷きました。
「ええ。でも、鐘を止めるだけでは駄目なの」
子供たちが自分の本心をすべて認めてしまえば、また怪物の餌になります。
必要なのは、真実を知らないふりをすることではありません。
まだ認められない気持ちを、無理に認めさせないことでした。
*
翌年の《真実の日》。
十三歳になったノエミは、鐘の前に立ちました。
神官が尋ねました。
「あなたは、お母様を愛していますか」
「いいえ」
鐘は鳴りませんでした。
ノエミは母を愛していました。
けれど今は、その気持ちを見つめるのが怖かったのです。
――私は、母なんか好きじゃない。
そう自分に言い聞かせました。
「この町が嫌いですか」
「いいえ。大好きです」
鐘は鳴りません。
本当は、大嫌いでした。
それでもノエミは、胸の奥の怒りから目を逸らしました。
最後に、神官が尋ねます。
「あなたは、大人になりたいですか」
ノエミはエルヴァンを思い出しました。
白い結晶の中で眠る少年。
最後まで、怖くないと言い続けた少年。
――怖い。
心の奥で、声がしました。
――私も、あんなふうになりたくない。
ノエミは唇を噛みました。
それを認めれば、鐘が鳴る。
だから、まだ認めないことにしました。
「はい」
私は怖くない。
私は大丈夫。
何度も自分に言い聞かせました。
鐘は鳴りませんでした。
神官の顔から血の気が引きました。
そのとき、ノエミは神官を見上げました。
「ねえ、どうして鐘が鳴らないの?」
誰も答えません。
「私、ちゃんと答えたのに」
広場が静まり返りました。
ノエミは、集まった子供たちを振り返りました。
「みんな、怖いことがあっても、すぐに本当の気持ちを言わなくていいんだよ」
神官が制止しようとしましたが、母がその前に立ちました。
「この子の言うとおりです」
母は初めて、人々の前で声を上げました。
「本当は寂しいのでしょう、本当は怖いのでしょうと、子供たちの心を無理に暴くのは、もうやめましょう」
そして母は、鍵と古い契約書を人々に見せました。
広場に、長い沈黙が落ちました。
*
それから、町の《真実の日》はなくなりました。
子供たちは、もう鐘の前に立たされません。
悲しいのに笑う日も、怖いのに平気なふりをする日もあります。
それを大人たちは責めなくなりました。
本当の気持ちを言えるまで、待つことを覚えたのです。
供物を失った怪物は、長い年月のうちに力を失い、やがて地下の闇へ消えていきました。
けれど、結晶の中の子供たちは戻りませんでした。
エルヴァンも。
ノエミは毎年、雪の降る日に教会の地下へ行きました。
銀色の結晶の前に、小さな花を置きます。
「今年も、覚えてるよ」
返事はありません。
それでもノエミは、エルヴァンとの約束を守り続けました。
*
長い年月が過ぎました。
町の広場には、白髪の老婆がひとり座っていました。
小さな子供が、不思議そうに尋ねます。
「おばあちゃん、どうして髪が真っ白なの?」
ノエミは笑いました。
「嘘をたくさんついたからよ」
「嘘をついたら、髪は黒いままでしょう?」
「そうだったかしら」
「また嘘?」
「さあね」
子供は笑って走っていきました。
ノエミは、風に揺れる白い髪を撫でました。
本当は、怖いことも寂しいことも、ずいぶんたくさん認めてきました。
けれど、すべてを理解したわけではありません。
今でもときどき自分の気持ちが分からなくなるのです。
それでいいのだと、今は思えました。
*
冬になると、ノエミは丘へ登りました。
昔、エルヴァンと二人で町を見下ろした場所です。
雪の向こうで、家々の窓明かりが金色に滲んでいました。
「ねえ、エルヴァン」
風に向かって呼びかけます。
「私、まだ怖いことがあるの」
答えはありません。
「寂しい日もあるし、平気なふりをする日もある」
白い息が、冬空へ溶けていきます。
「でもね、あなたのことを忘れたことは、一度もないよ」
あの日、少年は尋ねました。
――僕が大人になっても、覚えていてくれる?
ノエミは、あのときと同じ答えを返しました。
「当たり前でしょう」
雪が静かに降り始めました。
昔は、自分の本心を認めるたびに鐘が鳴りました。
けれど今は、心の奥にあるものを、すぐに名前にしなくてもいい。
怖いままでも、寂しいままでも、誰かを愛していても、憎んでいても。
ノエミは、揺れる気持ちを揺れるまま抱えていけるようになっていました。
それは、何もかも正直に言える大人になることより、ずっと静かで、ずっと難しい成長でした。
誰かに奪われる前に、誰かに暴かれる前に、自分の心を自分の手元に置いておくこと。
そして、まだ言えない気持ちのために、優しい嘘を残しておくこと。
ノエミは雪の積もった丘を下り始めました。
遠く、町の子供たちの笑い声が聞こえます。
もう誰も、《大人》になるために消えることはありません。
※
この町では今も、ときどき大人が子供へ、優しい嘘をつきます。
「大丈夫。明日には、きっといいことがあるよ」
その言葉が本当かどうか、誰にも分かりません。
けれど、今日を越えるためには、そんな嘘が必要な夜もあるのです。
だからノエミは今でも少しだけ、嘘つきでした。
誰かを守るために。
まだ言葉にならない心を、急かさないために。
そして、ときには自分自身を守るために。
雪の向こうで、鐘は鳴りませんでした。
ただ、誰かの明日を待つように、町の灯りが静かに揺れていました。




