あなたの葬式には、あなたも出席できます
この国では、死んだ人も自分の葬式に出席できます。
それは、死者がこの世を離れる前に、残された人々を見届けるための時間だといわれています。
ただし、姿は見えません。
声も届きません。
ただ最後まで、そこにいることだけが許されます。
そして、ひとつだけ決まりがあります。
――生きている人に、触れてはいけません。
触れれば、その人はあなたとの思い出をひとつ失います。
この決まりを見張り、死者が道を外れないよう葬儀に立ち会うのが、葬儀番です。
*
十六歳の春、ルシエナは死にました。
馬車の事故でした。
朝には母と喧嘩をしていて、昼にはもう死んでいました。
最後に交わした言葉は「もうお母さんなんて知らない」でした。
だから目を開けて、自分の葬式が始まるところだと知ったときにルシエナが最初に探したのは、母でした。
*
教会には、春の雨の匂いが満ちていました。
濡れた黒い外套。
白い百合。
蝋燭の煙。
祭壇の中央には、自分の棺がありました。
覗き込むと、知らない少女が眠っているようでした。
頬には薄く紅が差され、髪も綺麗に梳かされています。
「こんな顔だったっけ」
もちろん誰も答えません。
友人たちが来ました。
学校の先生。
近所のパン屋。
昔、一度だけ喧嘩した少女まで泣いていました。
けれど母がいません。
「……来ないの?」
胸が痛みました。
死んでいるのにまだ、痛む場所が残っていました。
*
葬儀が始まる直前、扉が開きました。
母が立っていました。
黒い服ではありませんでした。
いつもの灰色のワンピース。
髪も結えていません。
靴には泥がついていました。
どうやら、家から走ってきたらしいのです。
「お母さん」
ルシエナは駆け寄りました。
けれど母は娘の身体をすり抜けます。
振り返りもしません。
当然でした。
もう見えないのだから。
母は棺の前まで歩きました。
「馬鹿」
そう言いました。
ルシエナは固まりました。
「……ひどい」
死んだ娘へ最初に言う言葉が、それ?
けれど母はもう一度言いました。
「馬鹿」
声が震えていました。
「知らないなんて言うから」
棺へ手を置きます。
「私も、勝手にしなさいって言ったでしょう」
朝の喧嘩でした。
どうでもいい喧嘩。
ルシエナが友人と隣町へ行きたいと言った。
母が駄目だと言った。
腹を立てて、皿を乱暴に置いた。
「もうお母さんなんて知らない」
「じゃあ勝手にしなさい」
それだけ。
それが最後になりました。
*
葬式では、たくさんの人がルシエナの話をしました。
「明るい子でした」
「よく笑う子で」
「困っている人を放っておけなくて」
ルシエナは落ち着きませんでした。
「そんな立派じゃないよ」
数学の宿題を三回忘れた。
妹の焼き菓子を勝手に食べた。
母に隠れて夜更かしもした。
死ぬと、人は少しだけ綺麗な人間にされてしまうらしい。
けれど母だけは何も言いませんでした。
ただ棺の横に座り娘の手を握っていました。
もちろん握り返すことはできません。
*
やがて人々が帰りました。
雨も止みました。
教会には母だけが残りました。
「ねえ」
ルシエナは隣に座りました。
「帰ろうよ」
母は動きません。
「風邪ひくよ」
返事はありません。
「……ごめんね」
その言葉だけは、生きているうちに言いたかった。
同時に母が突然、口を開きました。
「ごめんね」
ルシエナは顔を上げました。
「もっと優しく言えばよかった」
母は棺へ額をつけました。
「行ってらっしゃいって言えばよかった」
肩が震えます。
「朝ごはん、ちゃんと食べさせればよかった」
「お母さん」
「抱きしめればよかった」
ルシエナは母の肩へ手を伸ばしました。
その瞬間、教会の隅にいた葬儀番が言いました。
「触れてはいけません」
黒い服を着た、顔の見えない人でした。
「触れれば、ひとつ失います」
「どの記憶?」
「選べません」
伸ばした指が止まりました。
初めて歩いた日かもしれない。
初めて「お母さん」と呼んだ日かもしれない。
一緒に焼いた林檎菓子。
熱を出した夜。
十二歳の誕生日。
あるいは――今朝の喧嘩。
*
母が泣いていました。
あまりにも小さく見えました。
ルシエナは思い出しました。
幼いころ、雷が怖くて眠れなかった夜。
母の寝台へ潜り込むと、呆れながら抱き寄せてくれました。
「怖くない」
「嘘」
「お母さんがいるでしょう」
あの腕の温かさを覚えています。
だからルシエナは母を抱きしめました。
*
母の身体が、びくりと震えました。
「……あれ」
涙を拭います。
「どうして私、泣いて……」
ルシエナは息を止めました。
母の中から、何かが消えた。
「何を忘れたの?」
聞いても届きません。
母は棺の中の娘を見ました。
長いあいだ見たあと、不思議そうに呟きました。
「そうだ」
ルシエナの胸が締めつけられます。
「この子、雷が怖かったのよね」
それは残っている。
「初めて歩いた日は……夏だった」
それも残っている。
「林檎のお菓子を焦がして」
残っている。
母はひとつずつ思い出していきました。
そして「ああ」と、小さく息を吐きました。
「最後に、なんて話したんだっけ」
ルシエナは泣きました。
母が忘れたのは最後の喧嘩でした。
*
「ずるいなあ」
ルシエナは笑いました。
涙が頬を伝いました。
「そこだけ持っていくんだ」
朝の怒鳴り声。
乱暴に閉めた扉。
「もうお母さんなんて知らない」
あの言葉だけが、母の中から消えていました。
代わりに残ったのは何千回も呼んだ、「お母さん」でした。
母は娘の冷たい額へ口づけました。
「大好きよ」
今度は、ルシエナにも聞こえました。
*
夜明け前、葬儀番が扉を開きました。
向こうには白い道が続いていました。
「時間です」
ルシエナは母を振り返ります。
もう触れませんでした。
これ以上、何ひとつ失くしてほしくなかったから。
「じゃあね」
届かなくても言いました。
「お母さん」
母は棺のそばで眠っていました。
泣き疲れた頬に、朝の光が差していました。
ルシエナは少しだけ迷って最後に笑いました。
「行ってきます」
*
この国では、死んだ人も自分の葬式に出席できます。
けれど、生きている人に触れてはいけません。
触れれば、その人はあなたとの思い出をひとつ失います。
だから多くの死者は、ただ見ています。
泣く人を。
名前を呼ぶ人を。
棺へ花を置く人を。
それでも、ときどきたったひとつの記憶と引き換えに、最後の抱擁を選ぶ人がいます。
何を失うかは選べません。
ルシエナの母は幸運でした。
娘を失った朝。
彼女が忘れたのは、娘を愛した十六年間ではなく、愛していたからこそ、二人とも意地を張ってしまった――たったひとつの、最後の喧嘩でした。
そしてその日から母の記憶の中で、娘の最後の言葉は、「もうお母さんなんて知らない」ではなくなりました。
もっと昔から何千回も聞いてきた言葉になりました。
――お母さん。
その笑顔。
それだけは、生涯、一度も忘れませんでした。




