天国には椅子がひとつ足りない
天国には、椅子がひとつ足りません。
どれほど多くの人が死んでも。
どれほど長い年月が過ぎても。
必ず、ひとつだけ。
だから天国へ来た人は、最初にこう尋ねられます。
「あなたは、誰の隣に座りますか?」
*
十二歳の冬にソフィエルは死にました。
熱を出してから、わずか五日でした。
最後に覚えているのは、母の泣き声です。
それから目を開けると、白い駅にいました。
空には朝とも夕方ともつかない薄青い光が満ち、遠くまで続くホームには、銀色の草が風もないのに揺れていました。
「ここ、どこ?」
「天国ですよ」
駅員の老人が答えました。
「あなたの席へご案内しましょう」
*
天国は、大きな庭でした。
白い花。
透き通った川。
どこからともなく聞こえる音楽。
そして無数の椅子。
木の椅子。
揺り椅子。
長椅子。
生前、その人がいちばん落ち着いた椅子が用意されるのだそうです。
けれど奇妙でした。
「ひとつ足りなくない?」
ソフィエルはすぐに気づきました。
円卓には六人いるのに椅子は五脚。
木陰には老夫婦がいるのに、一脚しかない。
三人で話している少女たちのところには、二脚。
必ず誰かひとりが立っています。
「そういう場所なのです」
案内人は答えました。
「どうして?」
老人は微笑むだけでした。
*
ソフィエルの椅子は、小さな赤い椅子でした。
家の台所で使っていたものです。
けれど、その隣には誰もいません。
「お母さんは?」
「まだ生きています」
「じゃあ、お父さん」
「生きています」
「弟は?」
「もちろん」
胸の奥が、きゅっと痛みました。
家族が自分のいない朝を迎えていると思うと、急に帰りたくなりました。
「ここ、天国なんでしょう?」
「ええ」
「なのに寂しいの?」
案内人は少し困ったように笑いました。
「天国へ来ても、愛した人まで消えるわけではありませんから」
*
それからソフィエルは、椅子を探しました。
母のぶん。
父のぶん。
弟のぶん。
どこかに余っている椅子がないか、一日中歩きました。
けれど見つかりません。
ある日、川辺で立っている老婆へ尋ねました。
「どうして座らないの?」
老婆は、椅子に座る老人を見て笑いました。
「この人が疲れているから」
「もう死んでるのに?」
「それでもよ」
別の日。
少年が立ったまま、本を読んでいました。
「椅子、欲しくない?」
「欲しいよ」
「じゃあどうしてあの子に貸してるの?」
隣では小さな妹が眠っていました。
少年は肩をすくめます。
「生きてたころも、そうしてたから」
ソフィエルには、ますます分からなくなりました。
*
長い時間が過ぎました。
天国には季節がありません。
だから何年経ったのか、分かりません。
ある日白い駅から鐘が聞こえました。
新しい人が来る合図でした。
ソフィエルは何となく駅へ向かいました。
ホームに一人の老女が立っていました。
白い髪。
曲がった背中。
皺だらけの手。
けれどソフィエルは、一目で分かりました。
「……お母さん?」
老女は顔を上げました。
その目だけは、あの日と同じでした。
「ソフィエル」
母は泣きました。
少女が走りました。
何十年ぶんもの時間を飛び越えて、二人は抱きしめ合いました。
*
赤い椅子のところへ戻りました。
けれど椅子は一脚しかありません。
ソフィエルは立ち止まりました。
「待ってて。探してくる」
「何を?」
「母さんの椅子」
母は笑いました。
「いらないわ」
「でも疲れてるでしょう?」
「じゃあ、あなたが座って」
「嫌。母さんが座って」
「私はいいの」
「私だっていい」
二人で言い争いました。
生きていたころと同じでした。
最後には、二人とも笑いました。
それから母が赤い椅子へ腰掛け、ソフィエルはその足元へ座りました。
幼いころのように、母の膝へ頭を預けます。
皺だらけの手が、十二歳のままの髪を撫でました。
「大きくなれなかったのね」
母が泣きました。
ソフィエルは目を閉じます。
「母さんは、ずいぶんおばあちゃんになったね」
「失礼ね」
「見たかったな」
母の手が止まりました。
「何を?」
「母さんがおばあちゃんになるところ」
しばらくして、髪へ一滴、温かいものが落ちました。
*
そのときソフィエルは、ようやく気づきました。
天国には椅子が足りないのではありません。
最初から、ひとつ少なく作られているのです。
もし全員ぶんの椅子があれば、人は自分の席へ座ります。
けれどひとつ足りなければ誰かが譲ります。
誰かの膝へ座ります。
肩を寄せます。
手を繋ぎます。
天国は、寂しくない場所ではありません。
寂しいときに、誰かのそばへ行ける場所なのです。
*
さらに長い時間が過ぎました。
父が来ました。
弟も、ずいぶん後からやってきました。
家族が揃いました。
椅子は三脚。
四人いるのに。
「また足りない」
弟が笑いました。
「昔からよ」
母が言います。
父は当然のように立っていました。
「父さん座れば?」
「いい」
「腰痛いでしょう」
「死んだら腰痛はない」
「でも座れるじゃん」
そんなことで笑いました。
ソフィエルも笑いました。
十二歳の冬には、もう二度と聞けないと思っていた家族の笑い声でした。
*
今でも天国には、椅子がひとつ足りません。
それを不親切だと言う人もいます。
設計した天使が数を間違えたのだという噂もあります。
けれど、古い案内人だけは知っています。
天国を造ったとき、神さまは最初、人数ぶんの椅子を並べました。
そして最後に、一脚だけ片づけました。
天使が尋ねました。
「なぜです?」
神さまは答えたそうです。
「ここへ来る者たちは、もう十分に別れてきたから」
もう誰も、死によって引き離されることはない。
それでも長く離れていたぶんだけ、寂しさは残ります。
だから天国では、その寂しさを消してしまうのではなく、誰かが埋められるだけの小さな隙間として残しておくのです。
今日も白い駅へ、ひとりの人が降り立ちます。
遠くで誰かが、その姿を見つけます。
椅子から立ち上がります。
そして走っていきます。
だから、その瞬間だけ、天国には椅子がひとつ余ります。
けれどしばらくすればまた誰かが座り、誰かが隣へ立ち、肩を寄せます。
そうして結局、いつものように――天国には、椅子がひとつだけ足りないのです。




