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悪魔は一度だけ、正しいことを言う

悪魔は一度だけ、正しいことを言う


悪魔は、一生に一度だけ正しいことを言います。

それ以外は、すべて嘘です。

だから悪魔に会ったなら、信じてはいけません。


この国の子供は、そう教えられて育ちます。


ただし、今ではほとんど読まれなくなった古い絵本には、その続きがありました。


《悪魔は生まれたとき、胸の奥にひとつだけ真実を与えられる》

《それを口にするまで、悪魔は世界にいることを許される》

《けれど真実が語られれば、世界はその言葉を嘘にする》

《そして、真実を失った悪魔は――》


最後の一行は、黒く塗り潰されていました。


イヴェットは幼いころ、その箇所を爪で削ろうとしたことがあります。

けれど紙の下に文字の跡はなく、黒い染みだけが、何かを隠すように広がっていました。

爪の先に残った黒は、しばらく洗っても落ちず、絵本を閉じたあとも指の節に薄く残りました。


*


十五歳の冬、イヴェットは森で悪魔を拾いました。

雪の中に倒れていたのは、黒い角を持つ少年でした。


「僕は悪魔じゃない」


目を開けるなり、少年は言いました。


イヴェットは安心しました。


「じゃあ悪魔ね」


「……そうなるね」


少年はノクスと名乗りました。


もちろん、それも嘘かもしれません。けれど呼ぶ名前がないのは不便なので、イヴェットはそう呼ぶことにしました。


「どうして倒れてたの?」


「昼寝」


「雪の中で?」


「暑かったから」


「死ぬところだったんじゃない?」


ノクスは笑いました。


「悪魔は死なないよ」


そのとき、黒い角の先から煤のような粉がひとひら落ちました。

イヴェットが拾おうとすると、ノクスは慌てて踏み潰しました。


「なに、それ」


「古い角が剥がれただけ」


「角って脱皮するの?」


「するよ」


当然、それも嘘でした。


けれど靴の裏からは、しばらく冷たい灰の匂いが消えませんでした。

イヴェットが家へ戻ってからも、指先には絵本の黒塗りを削ったときと同じ、乾いた黒い粉が残っていました。


*


イヴェットには、七歳の弟がいました。

リュカは生まれつき肺が弱く、その冬は春まで持たないと言われていました。


「弟は治る?」


暖炉の前で、イヴェットは尋ねました。


ノクスは干した林檎を齧りながら答えます。


「治るよ」


嘘。


「春になったら、一緒に花を見られる?」


「見られる」


嘘。


「大人になれる?」


一瞬、ノクスの口が止まりました。


「もちろん」


嘘。


分かっているのに、イヴェットは毎晩尋ねました。

悪魔の嘘は、薬より少しだけ温かかったからです。


けれどリュカについて尋ねるたび、ノクスの角から黒い粉が落ちるようになりました。


「また落ちてる」


「成長期だから」


「角が?」


「悪魔は十五歳くらいで角が生え替わるんだ」


「あなた何歳なの?」


「七歳」


どう見ても嘘でした。

イヴェットは呆れて笑いました。


だから気づきませんでした。


ノクスがリュカを見るたび、何かを言いかけては飲み込み、そのたび角の亀裂が深くなっていたことに。


その亀裂の奥には、黒い染みが滲んでいました。

絵本の最後の行を覆っていた染みと、よく似た色でした。


*


ある夜、リュカの容体が急変しました。

窓には霜の花が咲き、寝台の小さな胸は、壊れかけた鳥のように浅く上下していました。


医者が帰ったあと、母は廊下で泣きました。

イヴェットは泣きませんでした。

泣いたら、本当になってしまう気がしたのです。


「ねえ」


台所でノクスに尋ねました。


「リュカ、明日の朝も生きてる?」


ノクスは答えません。


「言って」


「……生きてる」


「嘘ね」


長い沈黙のあと、ノクスは頷きました。


「うん」


初めて、自分の言葉を嘘だと認めました。


ぱきり。

黒い角に、新しい亀裂が走りました。


「ノクス?」


「なんでもない」


「それも嘘?」


少年は答えません。

イヴェットは唇を噛みました。


「じゃあ、正しいことを言って」


ノクスの顔から笑みが消えました。


*


「悪魔は一度だけ、本当のことを言えるんでしょう?」


「言えるよ」


「だったら使って」


「嫌だ」


「どうして!」


ノクスは黙っていました。

暖炉の火だけが、二人の影を壁で揺らしています。


やがて少年は、自分の角へ触れました。


「悪魔はね」


珍しく笑わずに言いました。


「正しいことを言ったら消えるんだ」


イヴェットは息を止めました。


「……それ、本当?」


ノクスはいつもの顔で笑いました。


「嘘」


だからイヴェットは信じませんでした。

けれど彼の指先には、黒い粉がついていました。


その粉は暖炉の火に触れても燃えず、灰にもならず、ただ指の皺へ沈んでいきました。


*


夜明け前。

リュカの呼吸が止まりかけました。


イヴェットはノクスを寝台まで引っ張ってきました。


「お願い」


弟の手は、もうほとんど温かくありません。


「リュカは助からない?」


ノクスは答えません。


「正しいことを言って!」


「イヴェット」


「お願いだから!」


ノクスはリュカを見、それからイヴェットを見ました。

泣きそうな顔でした。


「……嫌だったんだけどな」


「え?」


「君に拾われた日から、ずっと」


角の亀裂から、黒い粉が零れます。


「これだけは、言いたくなかった」


ノクスは目を閉じました。

そして、生まれてから一度しか許されていない真実を口にしました。


「――リュカは、今夜死ぬ」


世界から、音が消えました。


*


次の瞬間、リュカが大きく息を吸いました。

止まりかけていた胸が、再び上下します。

窓を覆っていた霜が一斉に砕けました。


「リュカ!」


イヴェットは弟を抱きしめました。


温かい。

生きている。


振り返ると、ノクスは床に膝をついていました。

右の角が、根元から崩れていました。

黒い粉が雪のように肩へ降り積もっています。


イヴェットは、幼いころに見た絵本を思い出しました。


《けれど真実が語られれば、世界はその言葉を嘘にする》


ノクスが口にした《リュカは今夜死ぬ》という言葉を、世界は嘘にしたのです。

そのために、リュカは死ねない。


「どうして……」


ノクスは笑いました。


「昔話って、肝心なところだけ残るんだね」


「じゃあ、角がずっと崩れてたのは?」


「言いそうになってたから」


「……え?」


「君が毎晩、聞くからさ」


――治る?

――春を見られる?

――大人になれる?


そのたびノクスは、リュカに残された時間が少ないことを知っていました。


いっそ言ってしまおうか、と何度も思いました。

《この子は死ぬ》

そうすれば、世界が否定してくれる。


「悪魔の真実は、口に出すためのものじゃないんだ」


ノクスは崩れかけた角を撫でました。


「言おうとするだけで、真実のほうが出口を探す。僕らの身体を割ってね」


だから角が崩れていた。

イヴェットと出会ってから、リュカのために、たった一度を使おうとしていたから。


「でも、言ったら終わりなんだ」


ノクスは胸を指しました。


「真実が外へ出た場所から、僕は世界に戻れなくなる」


*


春。

リュカは生きていました。


病気そのものが消えたわけではありません。


ノクスが否定させたのは、《あの夜、リュカが死ぬ》というひとつだけだったからです。


咳もしました。

熱を出す日もありました。

それでも窓辺まで歩き、春の花を見ることができました。


「お姉ちゃん」


「なに?」


「ノクスは?」


イヴェットは答えられませんでした。


あの朝から、少年の身体は少しずつ世界から欠け始めていました。


まず右の角。

次に影。

それから足音。

鏡にも映らなくなり、声まで遠くなりました。


ノクスが触れた椅子には、誰も座っていないのに浅いへこみだけが残りました。

けれどイヴェットが目を離すと、それもゆっくり元に戻っていきました。


絵本の黒い染みは、真実を失った悪魔が世界から消えていく跡を隠していたのです。

角から落ちた黒い粉も、その同じ欠落でした。


*


ノクスが消える前の日、二人は丘へ行きました。

雪解け水が草のあいだを流れ、冷たい風に春の匂いが混じっています。


「ねえ」


イヴェットは尋ねました。


「あなた、本当は何歳?」


「三百歳」


「嘘ね」


「うん」


「私に会えて嬉しかった?」


「最悪だった」


「それも嘘?」


ノクスは笑いました。

もう確かめる必要はありませんでした。


彼のたった一つの真実は、使われてしまったのだから。


「じゃあ最後に」


イヴェットは泣きながら尋ねました。


「消えるの、怖い?」


ノクスは少し考えました。


「全然」


イヴェットは彼の手を握りました。

透けかけた指が、かすかに握り返します。


「私、あなたの嘘、好きだったよ」


「趣味悪いね」


「うるさい」


「泣かないで」


「それも嘘?」


「もちろん」


イヴェットは泣きながら笑いました。


*


春の風が吹きました。

少年の身体が、黒い灰になってほどけていきます。

最後まで残った指を、イヴェットは離しませんでした。


「ノクス」


「なに?」


「ありがとう」


少年は笑いました。

そして最後に言いました。


「君なんか、大嫌いだ」


正しいことは、もう言えません。

だからイヴェットには、その言葉の意味がちゃんと分かりました。


*


それから何年も経ちました。

リュカは大人になりました。


病弱ではありましたが、二十歳になり、三十歳になり、やがて自分の子供を抱きました。


イヴェットはそのたび、ひとりの悪魔を思い出しました。


あの冬のことを話すことは、ほとんどありません。

ただ春の風が吹くたび、丘へ行きました。

草のあいだに黒い粉が落ちていないか、確かめるように。


もちろん、そこには何もありません。


世界はもう、ノクスがいた場所をすべて埋めてしまったのですから。


それでもイヴェットは、しばらく丘に立っていました。

風が吹くたび、あの日の声だけが記憶の中で鮮明になりました。


――君なんか、大嫌いだ。


イヴェットは目を閉じます。

悪魔は、一生に一度だけ正しいことを言います。


それ以外は、すべて嘘です。


だから悪魔に会ったなら、信じてはいけません。

十五歳のイヴェットも、そう教えられていました。


けれど誰も教えてくれませんでした。


たった一度しか真実を言えないのなら。

そのあとの嘘は、ときどき真実よりもずっと分かりやすいのだと。

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