この町では、十三歳になると母親を選びます
この町では、十三歳になると母親を選びます。
産んでくれた人でも、育ててくれた人でも、一度も会ったことのない人でもかまいません。
ただし、一度選んだ母親は、二度と選び直せません。
そして、選ばれた母親は、その子を生涯守る。
――その言葉の本当の意味を、子供たちは十三歳になった日に知ります。
*
十二歳最後の冬。
ミュリエルは、母のエステラと二人で暮らしていました。
海から吹く風の強い町でした。
冬になると白い家々の屋根には薄く塩の結晶がつき、夕暮れには町全体が貝殻の内側のような淡い桃色に染まります。
その日も窓の向こうでは、冷たい海が鈍く光っていました。
「私、母さんを選ぶからね」
夕食の魚のスープを飲みながら、ミュリエルは言いました。
エステラの匙が止まりました。
「そう」
「嬉しくないの?」
「嬉しいわよ」
エステラは笑いましたが、その顔は泣きそうでした。
「変な母さん」
「そうね」
匙を持つ指が、わずかに震えています。
ミュリエルは知りませんでした。
その夜、娘が眠ったあと、エステラが一人で台所に座り、夜明けまで泣いていたことを。
*
十三歳の誕生日。
町の中央にある《母選びの館》へ、十三人の子供が集められました。
白い石で造られた広間には、十三枚の扉があります。
天井には古い文字が刻まれていました。
《子が十三の年を迎えしとき、その命を願う者を選ばせよ》
けれど、その先は漆喰に覆われ、読むことができません。
「好きな方を選びなさい」
白髪の司祭が告げました。
「あなたが、母と呼びたい人を」
子供たちは次々に扉を開けました。
泣きながら実母へ抱きつく子。
幼いころから面倒を見てくれた叔母を選ぶ子。
亡くなった母の面影を宿した扉の前で、泣き続ける子。
最後に、ミュリエルの番になりました。
十三枚目の扉を開きます。
そこにエステラがいました。
いつもの紺色の服。少し荒れた指。毎朝、ミュリエルの髪を結ってくれる手。
その手の甲に走る細い傷を、ミュリエルは知っていました。去年の冬、薪を割ったときにできた傷です。
血を布で押さえながら、エステラは泣きそうな娘へ笑ってみせました。
――こんなの、すぐ治るわよ。
いつだってそうでした。
高熱を出した夜も、海辺で迷子になった日も、初めて学校へ行った朝も。
怖がっているのは自分のほうなのに、最後には必ず笑ってくれる人でした。
だから、迷う理由などありません。
「母さん」
ミュリエルは笑いました。
「やっぱり母さんにする」
けれど、エステラは笑いませんでした。
膝の上で組んだ両手が震えています。
「……母さん?」
呼ばれて、ようやく顔を上げました。
泣いていました。
それでもエステラは、十三年間そうしてきたように笑います。
「ええ」
立ち上がり、娘の頬へ触れました。
「私を選びなさい」
「どうしたの?」
「なんでもないわ」
「でも泣いてる」
「母親だって泣くのよ」
エステラは娘の髪を耳へ掛けました。
「あなたに生きてほしいから」
ミュリエルには、その意味が分かりませんでした。
*
司祭が杖を床へつきました。
「選ぶ前に、知らなければならないことがあります」
広間が静まり返ります。
この町では昔、子供が十三歳まで育ちませんでした。
海から吹く《白い風》が、幼い命を攫ったからです。
どれほど扉を閉ざしても、母親が抱きしめても、風が吹いた翌朝には子供の寝台だけが空になっていました。
そこで町の人々は、海の神と契約しました。
子供ひとりにつき、大人ひとりの寿命を《担保》として預ける。
そうすれば子供は十三歳まで、白い風から守られる。
そして十三歳になった日、子供自身が、その命を誰から受け取るのか選ぶ。
選ばれた者は残りの寿命をすべて子供へ渡し、子供は自分の命として生きていく。
「……じゃあ」
ミュリエルの唇が震えました。
「母さんを選んだら?」
誰も答えません。
答えなくても分かりました。
「死ぬの?」
エステラは目を閉じ、小さく頷きました。
「ええ」
「知ってたの?」
「あなたが生まれた日から」
ミュリエルは息をすることさえ忘れました。
十三年間、髪を結い、熱を看病し、歩いた日を喜び、喧嘩の翌朝には朝食を作ってくれた。
そのすべてを、いつか自分の命を娘へ渡すと知ったうえで過ごしていたのです。
*
「嫌」
ミュリエルは首を振りました。
「じゃあ、ほかの人を選べばいいの?」
司祭は答えません。
「ほかの人なら、その人が死ぬんでしょう?」
「……そうです」
「誰も選ばなかったら?」
長い沈黙のあと、司祭が答えました。
「十三年間、あなたを守っていた命を返すことになります」
つまり、自分が死ぬ。
ミュリエルは笑いそうになりました。あまりにも酷くて、涙さえ出ません。
「そんなの」
声が掠れます。
「選ぶって言わない」
司祭が顔を上げました。
「誰かを殺すか、自分が死ぬかでしょう」
白い広間に、その声だけが響きました。
何百年ものあいだ、誰も口にしなかった言葉でした。
*
ミュリエルは死にたくありませんでした。
十四歳になりたい。来年も海を見たい。いつか恋をしてみたい。もっと背が伸びて、母より大きくなりたい。
大人になったら働いて、エステラには楽をさせてあげたい。
けれど、その未来に母はいません。
朝、髪を結ってくれる人も、夕食の席に座る人もいない。
そんな明日を、本当に望んでいるのだろうか。
「母さん」
「なに?」
「私、母さんを選ばない」
エステラの顔が歪みました。
「駄目よ」
「嫌」
「ミュリエル」
エステラは娘の肩を掴みました。
「私を選びなさい」
「嫌!」
「あなたに生きてほしいの!」
初めて聞く母の怒鳴り声でした。
ミュリエルは泣きました。
「私だって母さんに生きてほしいよ!」
エステラの手が止まりました。
*
長い沈黙のあと、エステラが呟きました。
「……私は母親よ」
「だから?」
「あなたのためなら死ねる」
「私はそんなこと頼んでない!」
「頼まれなくてもよ!」
エステラも泣いていました。
「あなたが生まれた日に決めたの。十三年だけでもいい。この子を生かせるなら、最後には私が――」
言葉が途切れます。
ミュリエルは母の手を握りました。
「じゃあ母さんは?」
「え?」
「母さんは、死にたいの?」
エステラは答えません。
「本当に死にたい?」
「それは……」
「私のことじゃない」
ミュリエルは泣きながら、手を強く握りました。
「母さん自身は、生きたいの?」
誰も、そんなことを尋ねたことがありませんでした。
母親とは子供のために命を差し出すもの。
それがこの町では、何百年ものあいだ《愛》と呼ばれてきました。
エステラの唇が震えます。
「私は……」
窓の向こうで海が鳴りました。
「生きたい」
消え入りそうな声でした。
「あなたが十四歳になるところを見たい。十五歳も、成人するところも、恋をするところも……あなたがお嫁に行って、たまに帰ってきて、私の料理に文句を言うところも見たい」
「うん」
「白髪になりたい」
「うん」
「皺だらけになりたい」
「うん」
「あなたより先に、おばあさんになりたい」
ミュリエルは母へ抱きつきました。
「なってよ」
二人で泣きました。
「一緒に生きようよ」
その瞬間、十三枚の扉が一斉に開きました。
*
白い風が広間へ吹き込み、人々が悲鳴を上げました。
けれど風は、ミュリエルを攫いません。
壁を覆っていた漆喰が剥がれ落ち、その下から古い文字が現れました。
《子が十三の年を迎えしとき、その命を願う者を選ばせよ》
《選ばれし者が己の命を捨て、子のみの生を願うなら、その命を子へ渡せ》
《子が己の命を捨て、選ばれし者のみの生を願うなら、その命を海へ返せ》
最後の一文だけが、淡い光を帯びました。
《されど双方が己の生を望み、なお互いの明日を願うなら――》
エステラとミュリエルは、手を握ったまま見上げました。
《借りた命を、ひとつの命として返す》
*
ミュリエルは理解しました。
これは最初から、誰かが死ななければならない契約ではなかったのです。
海の神が求めていたのは犠牲ではありません。
十三年間借りた命を、十三歳になった子供自身の命として返すこと。
必要だったのは、子供が「自分も生きたい」と願い、選ばれた人も「自分も生きたい」と願うこと。
そのうえで、互いの明日を望むことでした。
けれど何百年ものあいだ、母親たちは教えられてきました。
子供のために死ねることこそ、母の愛なのだと。
子供たちも、自分のために死んでくれる人を選ぶことが、母を選ぶことなのだと。
だから誰も、契約の最後まで辿り着けなかった。
「生きて」
ミュリエルが言いました。
エステラは娘の手を握りました。
「あなたも」
白い風が二人を包み、静かに消えました。
*
誰も死にませんでした。
翌朝、町の海には十三年ぶりに青い朝日が差しました。
白い風は、それから二度と子供を攫いませんでした。
*
それから、この町では十三歳になると、今でも母親を選びます。
けれど、もう命を渡すためではありません。
子供たちは、自分が母と呼びたい人の前へ立ちます。
産んだ人。育てた人。父親であることも、姉であることもあります。
誰も選ばない子もいます。
そして選ばれた人へ、ひとつだけ尋ねます。
「あなたは、生きたいですか?」
昔なら、母親たちはこう答えました。
――あなたのためなら死ねる。
けれど今は違います。
「生きたい」
そう答えます。
「あなたと一緒に」
*
七十八歳になったエステラの髪を、五十歳のミュリエルが結っていました。
窓からは、穏やかな海が見えます。
「痛い」
エステラが文句を言いました。
「動くからよ」
「昔は私が結ってあげたのに」
「下手だったわよ」
「嘘おっしゃい」
鏡越しに二人は笑いました。
エステラの髪は、ほとんど真っ白です。
額にも目尻にも深い皺があり、歩くのも遅くなりました。冬になると膝が痛いと文句を言います。
そのすべてを見ることができた。
十三歳だったミュリエルが願った通りに。
「ねえ、母さん」
「なに?」
「十三歳の日、私が母さんを選ばなくてよかった?」
エステラは鏡越しに娘を見ました。
「いいえ」
「え?」
「あなたはちゃんと、私を選んだわ」
ミュリエルは瞬きました。
エステラは笑います。
「死んでくれる母親としてじゃなくて」
海から入った風が、白い髪を揺らしました。
「一緒に生きてほしい人として」
ミュリエルも笑いました。
そして、母の真っ白な髪をもう一度、丁寧に結びました。
*
この町では、十三歳になると母親を選びます。
けれど、あの日ミュリエルが選んだのは、母の命ではありませんでした。
エステラが選んだのも、娘の命ではありません。
「あなたのためなら死ねる」
それだけが愛ではないことを、二人は初めて口にしました。
自分も生きたい。
あなたにも生きてほしい。
できることなら、明日も同じ食卓で顔を合わせたい。
そう願うこともまた、愛なのだと。
だから二人が選んだのは、どちらか一方だけが残る未来ではありません。
白髪になるまで喧嘩をして、増えた皺を笑って、いつか本当に別れの日が来るまでどちらも手放さずに迎える明日でした。
海は今も、静かに光っています。




