怪物は、やさしい子から食べる
怪物は、やさしい子から食べます。
だからこの村では、子供にやさしくしてはいけないと教えます。
泣いている子を慰めないこと。
転んだ老人に手を貸さないこと。
最後のパンは、必ず自分で食べること。
そうしなければ、森の怪物に見つかってしまうからです。
けれど昔から、妙な言い伝えもありました。
森へ入った子供が、夜明け前に戻ってくることがある。
その子の靴には雪がついているのに、足は少しも冷えていない。
泣いていた子の枕元に、朝になると白い花が置かれている。
吹雪の夜、森の近くで迷った子供が、「大きな誰かに家まで送ってもらった」と話すこともありました。
その子たちは皆、森の中で聞いた声について語りました。
「もう、無理に笑わなくていい」
「寒いなら、寒いと言っていい」
けれど大人たちは、その言葉を聞かなかったことにしました。
誰も、それを怪物の仕業だとは言いませんでした。
怪物とは、子供を食べるものなのです。
子供を守るものでは、ないはずでした。
*
十一歳のリゼットは、たいへん悪い子でした。
少なくとも、村ではそういうことになっていました。
「パンを盗んだのは私」
本当は、空腹の弟へ持ち帰っただけ。
「花瓶を割ったのも私」
本当は、使用人の少女を庇っただけ。
「おばあさんを突き飛ばした」
本当は、転びそうな老婆を受け止めたのです。
嘘をつくたび、母は安心したようにリゼットを抱きしめました。
「よかった。あなたは悪い子ね」
「うん」
リゼットも笑いました。
この村で、それは何より幸福な褒め言葉でした。
やさしい子は怪物に食べられる。
だから悪い子でいなさい。
自分のことだけを考え、誰かが泣いていても見ないふりをし、決して自分のものを分け与えてはいけない。
そうしていれば、怪物はあなたを見つけられない。
リゼットも、その教えをよく知っていました。
ただし、守ったことはほとんどありませんでした。
そして彼女は、もう一つ知っていました。
夜になると、窓の外の雪に大きな獣の足跡が残ることを。
足跡はいつも、子供たちの家の周りを一度だけ巡り、森へ戻っていました。
まるで、何かを確かめるように。
ある朝、リゼットは自分の窓辺に白い花を見つけました。
昨夜、彼女がこっそり弟へパンを分けたあとでした。
花びらには雪が残っていたのに、触れると不思議なほど温かい。
リゼットはそれを誰にも見せず、枕の下へ隠しました。
*
冬になると、森から怪物がやってきます。
姿を見た者はいません。
ただ、雪の朝になると、ときどき子供がひとり消えている。
不思議なことに、いなくなるのは決まって評判のよい子でした。
病気の母へ薬を届けた子。
自分の靴を妹へ譲った子。
雪の日に迷子を家まで送った子。
だから大人たちは怯え、子供が親切にするたび叱りました。
「そんなことをしたら食べられるよ」
やさしさは、隠さなければならないものになりました。
けれど消えた子供の家では奇妙なことが起きました。
暖炉の火が、薪を足していないのに朝まで消えなかった。
病気の妹が、ひと晩だけ深く眠れた。
窓辺に、見覚えのない木の実や薬草が並んでいた。
ある母親は、子供が消えた翌朝、編みかけの手袋が窓辺に置かれているのを見つけました。
泥ひとつついていませんでした。
まるで、いつか続きを編める日が来るとでもいうように。
また別の家では、消えた子供の布団が、誰かに抱きしめられたように温かくなっていました。
枕元には、白い花が一輪。
花の茎には、黒い毛が一本だけ絡んでいました。
それでも大人たちは口を閉ざしました。
怪物が子供を食べた証拠だと思い込もうとしたのです。
そうでなければ、自分たちは長いあいだ、何かをひどく間違えていたことになるからです。
*
その年の冬は、ひどい寒さでした。
ある晩、リゼットは森の入り口で、小さな男の子を見つけました。
雪の中に座り込み、裸足で泣いています。
「どうしたの?」
「お母さんがいない」
森は暗く、雪は激しくなっていました。
村の決まりなら置いて帰るべきでした。
助けてはいけない。
外套を貸してはいけない。
自分まで危険な目に遭ってはいけない。
それでもリゼットは外套を脱ぎました。
「これ着て」
男の子は首を振りました。
「でも、お姉ちゃん寒いよ」
「寒くない」
震えながらリゼットは嘘をつきました。
男の子を背負い、村へ向かって歩き始めます。
雪は膝近くまで積もっていました。
男の子の体は背中で震え、リゼットの足から感覚が失われていきます。
寒い。痛い。怖い。
けれど、それを口にすれば男の子まで怖がる気がして、黙っていました。
やがて、背後の森で枝が折れました。
振り返ると、雪の向こうに大きな影が立っています。
鹿の角。
黒い毛皮。
闇の中に浮かぶ、月のように白い二つの眼。
怪物でした。
リゼットは男の子を庇うように身を縮めました。
ところが怪物は近づいてきません。
二人と吹雪の間に立ち、巨大な背中で風を遮りました。
雪が、ほんの少し弱くなります。
怪物はリゼットの足元へ視線を落としました。
「寒いなら、寒いと言え」
低い声でした。
リゼットは首を振ります。
「この子が怖がるから」
「お前が倒れれば、この子も倒れる」
その声には、怒りが混じっていました。
けれどそれは、リゼットを責める怒りではありません。
自分を削ることを、やさしさと呼ばせまいとする怒りでした。
「……あなた」
なぜか、その瞬間に分かってしまいました。
夜ごと窓の外を巡っていた足跡。
消えた子供の家に残された薬草。
雪の日に子供を家まで送った、大きな誰か。
枕元の白い花。
「もしかして――」
そこまで言ったところで、リゼットの膝から力が抜けました。
倒れる寸前、大きな腕が少女を受け止めます。
爪の先が触れないように、まるで壊れ物を扱うように、ぎこちなく、とても、やさしく。
*
翌朝。
男の子だけが村へ戻りました。
リゼットはいませんでした。
母は泣き崩れました。
「どうして……あの子は悪い子だったのに」
誰も答えませんでした。
村人たちは、パンのことも、花瓶のことも、老婆のことも知っていました。
ただ、誰も言わなかった。
言えば怪物に見つかると思ったからです。
その日、村で初めて大人たちは口にしました。
「リゼットは、やさしい子だった」
森の奥で、大きな鐘のような音がしました。
ごうん。
男の子が不思議そうに森を振り返ります。
「森の人、ぼくをずっと背負ってくれてたよ」
「何を言っているんだ」
「お姉ちゃんが寝ちゃったあと、お姉ちゃんは片方の腕で抱っこして、ぼくは背中に乗せてくれた」
誰も、その言葉に答えられませんでした。
*
リゼットが目を覚ますと、花畑にいました。
冬の森の奥なのに、そこだけ春でした。
白い花の間を暖かな風が吹き、たくさんの子供たちが遊んでいます。
知っている顔がありました。
何年も前に消えた子。
母から聞かされていた、もっと昔に消えた子。
誰ひとり傷ついていません。
花畑の端には小さな家があり、子供たちは乾いた靴と毛布に包まれていました。
「……食べられたんじゃないの?」
背後で低い声がしました。
「食べてなどいない」
怪物がいました。
近くで見ると、やはり恐ろしい姿です。
けれどその腕の中では、小さな女の子が眠っていました。
爪は、その子に触れないよう不自然なほど丸められています。
「じゃあ、どうして連れてきたの?」
怪物は長いあいだ黙り、やがて言いました。
「昔、この村では、やさしい子から死んだからだ」
*
飢饉の年。
食べ物を弟や妹へ譲った子から死にました。
疫病の年。
病人を看病した子から倒れました。
戦争の年。
誰かを庇った子から帰らなくなりました。
大人たちは、それを美徳と呼びました。
――なんてやさしい子でしょう。
――立派な子だった。
そう言って、子供たちの犠牲を美しい物語にしたのです。
森の怪物は、それをずっと見ていました。
だから誓いました。
次に大人たちが子供のやさしさへ甘えたなら「私が先に奪う」「死からも。大人からも」と。
リゼットは息を呑みました。
「じゃあ……怪物は、やさしい子から食べるって」
「私が流した噂だ」
怪物の白い眼が細くなります。
「子供が、自分まで差し出さずに済むように」
「でも、みんなを怖がらせた」
「怖がらせなければ、大人たちは子供を手放さなかった」
怪物は花畑を見渡しました。
「ここへ来た子供たちは、眠り、食べ、遊ぶ。誰かを救うために、自分を消耗させなくていい」
「じゃあ、ずっとここにいるの?」
怪物は答えませんでした。
白い眼が、遠く村のある方角を見ます。
怪物は子供たちを閉じ込めたいわけではなく帰したいのです。
けれど、帰せない。
帰したところで、また同じことが繰り返されるから。
「……いつなら帰れるの?」
怪物は長いあいだ黙り、低い声で答えました。
「大人が、子供のやさしさを食べなくなったときだ」
*
リゼットが消えた翌日。
村で、小さな女の子が雪の上に転びました。
誰も動きませんでした。
けれど、リゼットの母が駆け寄り、女の子を抱き起こしました。
「やめろ。怪物に見つかるぞ」
母は膝の雪を払いました。
「だったら、見つかればいい」
「私は十一年間、娘にやさしくするなと言い続けた」
母の声は震えていました。
「寒くても我慢しなさい。誰かが泣いていても知らないふりをしなさい。自分だけ助かりなさいって。それで、あの子を守っているつもりだった」
涙が雪の上へ落ちます。
「でも、あの子は最後まで、そんな子にはならなかった」
その日から、村は少しずつ変わり始めました。
倒れた老人を起こし、腹を空かせた子にパンを分け、病人の家へ薪を届けました。
けれど以前とは一つだけ違いました。
子供が最後のパンまで誰かへ渡そうとすれば、大人が止めました。
「半分でいい」
「でも、この子のほうがお腹が空いてるよ」
「だからって、お前まで腹を空かせなくていい」
病人を一晩中看病しようとする子には、毛布を掛けました。
「もう寝なさい。続きは大人がやる」
雪の中へ迷子を捜しに行こうとする子供には、大人たちが先に外套を着ました。
「私も行く」
「駄目だ」
「どうして? 私だって探せるよ」
父親はしゃがみ、子供と同じ高さまで目線を下げました。
「知ってる。でも、お前まで危険な目に遭わなくていい」
子供たちは戸惑いました。
誰かを助けることと、自分を傷つけることは違う。
誰かにやさしくすることと、自分にやさしくすることは、一緒にあっていい。
初めて、そう教えられたのです。
奇妙なことに、それから森へ消える子供はいなくなりました。
*
森の奥では、怪物が村を見ていました。
「もう帰っていいんじゃない?」
リゼットは何度も尋ねました。
けれど怪物は首を振ります。
「まだだ」
人は、悲しいことがあった直後にはやさしくなれる。
大切なのは、その悲しみが薄れたあとです。
だから怪物は、冬のあいだ村を見続けました。
一週間。一か月。
雪が薄くなっても、大人たちは子供のやさしさへ甘えませんでした。
食事を全部渡そうとする子には、半分を戻しました。
疲れているのに「平気」と笑う子には、「平気じゃなくてもいい」と言いました。
誰かを守って傷ついた子には、「立派だった」と褒めるだけでなく「怖かっただろう」と抱きしめました。
そしてある日ひとりの子供が言いました。
「寒い」
母親は答えました。
「じゃあ帰ろう」
たったそれだけでした。
けれど森の奥で見ていた怪物は、長いあいだ動きませんでした。
昔なら、その子は「寒くない」「大丈夫」と言ったでしょう。
そう言える子ほど、立派だと褒められたから。
けれど今は違いました。
寒いと言っていい。
苦しいと言っていい。
助けてと言っていい。
それでも愛されるのです。
その夜、怪物は小さな家の扉を開けました。
「帰る支度をしろ」
遊んでいた子供たちが振り返ります。
リゼットも目を丸くしました。
「……いいの?」
「ああ」
「どうして?」
怪物は村の灯りを見ました。
「約束が終わった」
「約束?」
「子供のやさしさを、大人が食べる村には返さない」
それは何十年も前、怪物が自分自身へ立てた誓いでした。
けれど今は、子供が自分を犠牲にしようとすれば止めてくれる人がいる。
寒いと言えない子に、寒いのだと気づいてくれる人がいる。
やさしさを美しい話にせず、守ってくれる人がいる。
怪物は白い花を一輪摘み、リゼットの髪へ挿しました。
巨大な爪は、少女を傷つけないよう、ぎこちなく丸められています。
「もう、私が先に奪う必要はない」
*
春に、森から子供たちが帰ってきました。
一人、また一人と。
何十年も前に消えた子まで、消えた日の姿のままでした。
怪物の森では、子供は年を取りませんでした。
それは怪物が子供たちから奪った、たった一つのものです。
――傷つく時間。
村の老人の中には、幼いころに別れた兄や姉を見つけ、その場に崩れ落ちる者もいました。
母親だった老婆の前へ、七歳の少女が走っていきました。
「お母さん?」
老婆は返事ができず、皺だらけの腕で娘を抱きしめました。
何十年も遅れた抱擁でした。
最後に、リゼットが現れました。
母が駆け寄ります。
「リゼット!」
少女は抱きしめられながら泣きました。
「お母さん」
「なに?」
「私、本当は悪い子じゃないよ」
母も泣きました。
「知ってる」
「パンも、盗んでない」
「知ってる」
「寒かったのに、寒くないって嘘ついた」
母は娘の頬を包みました。
「もう、そんな嘘をつかなくていい」
森の奥で、大きな鐘のような音が鳴りました。
ごうん、と一度だけ。
それは怪物が何十年も守ってきた約束が、ようやく終わった音でした。
*
それから村では、昔とは反対のことを子供へ教えるようになりました。
泣いている人には、できるなら寄り添いなさい。
困っている人には、できるなら手を貸しなさい。
けれど最後のパンまで渡してはいけません。
寒いなら寒いと言いなさい。
苦しいなら助けてと言いなさい。
疲れたなら、休みなさい。
誰かを救うために自分まで壊れてはいけません。
あなたのやさしさの中には、あなた自身も入れてあげなさい。
そうでなければ、森の怪物が怒るから、と。
今でも冬の夜、森の奥に白い眼が二つ光ることがあります。
けれど子供たちは、もう怖がりません。
雪の中で迷った子がいれば、翌朝には必ず家へ戻っています。
泣いている子の窓辺には、白い花が置かれています。
怪物は、やさしい子から食べる。
それは昔から伝わる話です。
ただ、本当は少し違います。
怪物が食べていたのは、子供ではありません。
やさしい子なら、自分を削って当然だという、大人たちの醜い思い込みでした。
そして冬の夜。
村の子供たちが眠るころ、森の奥では、ときどき誰かが小さく咳をします。
そのたびに白い花が一輪、雪の上に落ちます。
朝になれば、花は消えています。
けれど村人たちは知っています。
あれは怪物が、まだそこにいるしるしです。
子供たちが、もう自分を犠牲にしなくていいように。
誰かのやさしさを、誰かが食べてしまわないように。
もしまた、ひとりで泣く子が森へ迷い込んだなら、雪の向こうから大きな影が現れるでしょう。
鹿の角。
黒い毛皮。
月のように白い眼。
その腕は、今度もぎこちなく丸められているはずです。
子供を傷つけないために。
怪物は迷子を抱き上げ、それから一度だけ村の灯りを振り返ります。
その眼差しを見た者は、なぜか思い出すのです。
昔、誰かにやさしくされたことを。
そして、自分もまた、誰かを抱きしめてよかったのだと。
森の奥で、鐘のような音が鳴ります。
遠く、遠く。
春が来るまで、消えない音です。




