↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
44/60

怪物は、やさしい子から食べる

怪物は、やさしい子から食べます。

だからこの村では、子供にやさしくしてはいけないと教えます。


泣いている子を慰めないこと。

転んだ老人に手を貸さないこと。

最後のパンは、必ず自分で食べること。


そうしなければ、森の怪物に見つかってしまうからです。


けれど昔から、妙な言い伝えもありました。

森へ入った子供が、夜明け前に戻ってくることがある。


その子の靴には雪がついているのに、足は少しも冷えていない。

泣いていた子の枕元に、朝になると白い花が置かれている。


吹雪の夜、森の近くで迷った子供が、「大きな誰かに家まで送ってもらった」と話すこともありました。


その子たちは皆、森の中で聞いた声について語りました。


「もう、無理に笑わなくていい」


「寒いなら、寒いと言っていい」


けれど大人たちは、その言葉を聞かなかったことにしました。


誰も、それを怪物の仕業だとは言いませんでした。

怪物とは、子供を食べるものなのです。

子供を守るものでは、ないはずでした。


*


十一歳のリゼットは、たいへん悪い子でした。


少なくとも、村ではそういうことになっていました。


「パンを盗んだのは私」


本当は、空腹の弟へ持ち帰っただけ。


「花瓶を割ったのも私」


本当は、使用人の少女を庇っただけ。


「おばあさんを突き飛ばした」


本当は、転びそうな老婆を受け止めたのです。


嘘をつくたび、母は安心したようにリゼットを抱きしめました。


「よかった。あなたは悪い子ね」


「うん」


リゼットも笑いました。

この村で、それは何より幸福な褒め言葉でした。


やさしい子は怪物に食べられる。

だから悪い子でいなさい。


自分のことだけを考え、誰かが泣いていても見ないふりをし、決して自分のものを分け与えてはいけない。

そうしていれば、怪物はあなたを見つけられない。


リゼットも、その教えをよく知っていました。

ただし、守ったことはほとんどありませんでした。


そして彼女は、もう一つ知っていました。


夜になると、窓の外の雪に大きな獣の足跡が残ることを。

足跡はいつも、子供たちの家の周りを一度だけ巡り、森へ戻っていました。

まるで、何かを確かめるように。


ある朝、リゼットは自分の窓辺に白い花を見つけました。


昨夜、彼女がこっそり弟へパンを分けたあとでした。

花びらには雪が残っていたのに、触れると不思議なほど温かい。


リゼットはそれを誰にも見せず、枕の下へ隠しました。


*


冬になると、森から怪物がやってきます。

姿を見た者はいません。

ただ、雪の朝になると、ときどき子供がひとり消えている。


不思議なことに、いなくなるのは決まって評判のよい子でした。


病気の母へ薬を届けた子。

自分の靴を妹へ譲った子。

雪の日に迷子を家まで送った子。


だから大人たちは怯え、子供が親切にするたび叱りました。


「そんなことをしたら食べられるよ」


やさしさは、隠さなければならないものになりました。

けれど消えた子供の家では奇妙なことが起きました。


暖炉の火が、薪を足していないのに朝まで消えなかった。

病気の妹が、ひと晩だけ深く眠れた。

窓辺に、見覚えのない木の実や薬草が並んでいた。


ある母親は、子供が消えた翌朝、編みかけの手袋が窓辺に置かれているのを見つけました。

泥ひとつついていませんでした。

まるで、いつか続きを編める日が来るとでもいうように。


また別の家では、消えた子供の布団が、誰かに抱きしめられたように温かくなっていました。

枕元には、白い花が一輪。

花の茎には、黒い毛が一本だけ絡んでいました。


それでも大人たちは口を閉ざしました。

怪物が子供を食べた証拠だと思い込もうとしたのです。

そうでなければ、自分たちは長いあいだ、何かをひどく間違えていたことになるからです。


*


その年の冬は、ひどい寒さでした。


ある晩、リゼットは森の入り口で、小さな男の子を見つけました。

雪の中に座り込み、裸足で泣いています。


「どうしたの?」


「お母さんがいない」


森は暗く、雪は激しくなっていました。

村の決まりなら置いて帰るべきでした。


助けてはいけない。

外套を貸してはいけない。

自分まで危険な目に遭ってはいけない。


それでもリゼットは外套を脱ぎました。


「これ着て」


男の子は首を振りました。


「でも、お姉ちゃん寒いよ」


「寒くない」


震えながらリゼットは嘘をつきました。

男の子を背負い、村へ向かって歩き始めます。


雪は膝近くまで積もっていました。

男の子の体は背中で震え、リゼットの足から感覚が失われていきます。


寒い。痛い。怖い。


けれど、それを口にすれば男の子まで怖がる気がして、黙っていました。


やがて、背後の森で枝が折れました。

振り返ると、雪の向こうに大きな影が立っています。


鹿の角。

黒い毛皮。

闇の中に浮かぶ、月のように白い二つの眼。


怪物でした。


リゼットは男の子を庇うように身を縮めました。

ところが怪物は近づいてきません。

二人と吹雪の間に立ち、巨大な背中で風を遮りました。


雪が、ほんの少し弱くなります。

怪物はリゼットの足元へ視線を落としました。


「寒いなら、寒いと言え」


低い声でした。

リゼットは首を振ります。


「この子が怖がるから」


「お前が倒れれば、この子も倒れる」


その声には、怒りが混じっていました。

けれどそれは、リゼットを責める怒りではありません。

自分を削ることを、やさしさと呼ばせまいとする怒りでした。


「……あなた」


なぜか、その瞬間に分かってしまいました。


夜ごと窓の外を巡っていた足跡。

消えた子供の家に残された薬草。

雪の日に子供を家まで送った、大きな誰か。

枕元の白い花。


「もしかして――」


そこまで言ったところで、リゼットの膝から力が抜けました。


倒れる寸前、大きな腕が少女を受け止めます。


爪の先が触れないように、まるで壊れ物を扱うように、ぎこちなく、とても、やさしく。


*


翌朝。

男の子だけが村へ戻りました。


リゼットはいませんでした。

母は泣き崩れました。


「どうして……あの子は悪い子だったのに」


誰も答えませんでした。


村人たちは、パンのことも、花瓶のことも、老婆のことも知っていました。


ただ、誰も言わなかった。

言えば怪物に見つかると思ったからです。

その日、村で初めて大人たちは口にしました。


「リゼットは、やさしい子だった」


森の奥で、大きな鐘のような音がしました。


ごうん。


男の子が不思議そうに森を振り返ります。


「森の人、ぼくをずっと背負ってくれてたよ」


「何を言っているんだ」


「お姉ちゃんが寝ちゃったあと、お姉ちゃんは片方の腕で抱っこして、ぼくは背中に乗せてくれた」


誰も、その言葉に答えられませんでした。


*


リゼットが目を覚ますと、花畑にいました。

冬の森の奥なのに、そこだけ春でした。


白い花の間を暖かな風が吹き、たくさんの子供たちが遊んでいます。

知っている顔がありました。


何年も前に消えた子。

母から聞かされていた、もっと昔に消えた子。


誰ひとり傷ついていません。


花畑の端には小さな家があり、子供たちは乾いた靴と毛布に包まれていました。


「……食べられたんじゃないの?」


背後で低い声がしました。


「食べてなどいない」


怪物がいました。

近くで見ると、やはり恐ろしい姿です。

けれどその腕の中では、小さな女の子が眠っていました。


爪は、その子に触れないよう不自然なほど丸められています。


「じゃあ、どうして連れてきたの?」


怪物は長いあいだ黙り、やがて言いました。


「昔、この村では、やさしい子から死んだからだ」


*


飢饉の年。

食べ物を弟や妹へ譲った子から死にました。


疫病の年。

病人を看病した子から倒れました。


戦争の年。

誰かを庇った子から帰らなくなりました。


大人たちは、それを美徳と呼びました。


――なんてやさしい子でしょう。

――立派な子だった。


そう言って、子供たちの犠牲を美しい物語にしたのです。

森の怪物は、それをずっと見ていました。


だから誓いました。

次に大人たちが子供のやさしさへ甘えたなら「私が先に奪う」「死からも。大人からも」と。


リゼットは息を呑みました。


「じゃあ……怪物は、やさしい子から食べるって」


「私が流した噂だ」


怪物の白い眼が細くなります。


「子供が、自分まで差し出さずに済むように」


「でも、みんなを怖がらせた」


「怖がらせなければ、大人たちは子供を手放さなかった」


怪物は花畑を見渡しました。


「ここへ来た子供たちは、眠り、食べ、遊ぶ。誰かを救うために、自分を消耗させなくていい」


「じゃあ、ずっとここにいるの?」


怪物は答えませんでした。

白い眼が、遠く村のある方角を見ます。


怪物は子供たちを閉じ込めたいわけではなく帰したいのです。

けれど、帰せない。

帰したところで、また同じことが繰り返されるから。


「……いつなら帰れるの?」


怪物は長いあいだ黙り、低い声で答えました。


「大人が、子供のやさしさを食べなくなったときだ」


*


リゼットが消えた翌日。

村で、小さな女の子が雪の上に転びました。


誰も動きませんでした。

けれど、リゼットの母が駆け寄り、女の子を抱き起こしました。


「やめろ。怪物に見つかるぞ」


母は膝の雪を払いました。


「だったら、見つかればいい」


「私は十一年間、娘にやさしくするなと言い続けた」


母の声は震えていました。


「寒くても我慢しなさい。誰かが泣いていても知らないふりをしなさい。自分だけ助かりなさいって。それで、あの子を守っているつもりだった」


涙が雪の上へ落ちます。


「でも、あの子は最後まで、そんな子にはならなかった」


その日から、村は少しずつ変わり始めました。

倒れた老人を起こし、腹を空かせた子にパンを分け、病人の家へ薪を届けました。


けれど以前とは一つだけ違いました。

子供が最後のパンまで誰かへ渡そうとすれば、大人が止めました。


「半分でいい」


「でも、この子のほうがお腹が空いてるよ」


「だからって、お前まで腹を空かせなくていい」


病人を一晩中看病しようとする子には、毛布を掛けました。


「もう寝なさい。続きは大人がやる」


雪の中へ迷子を捜しに行こうとする子供には、大人たちが先に外套を着ました。


「私も行く」


「駄目だ」


「どうして? 私だって探せるよ」


父親はしゃがみ、子供と同じ高さまで目線を下げました。


「知ってる。でも、お前まで危険な目に遭わなくていい」


子供たちは戸惑いました。

誰かを助けることと、自分を傷つけることは違う。

誰かにやさしくすることと、自分にやさしくすることは、一緒にあっていい。

初めて、そう教えられたのです。


奇妙なことに、それから森へ消える子供はいなくなりました。


*


森の奥では、怪物が村を見ていました。


「もう帰っていいんじゃない?」


リゼットは何度も尋ねました。

けれど怪物は首を振ります。


「まだだ」


人は、悲しいことがあった直後にはやさしくなれる。

大切なのは、その悲しみが薄れたあとです。


だから怪物は、冬のあいだ村を見続けました。


一週間。一か月。

雪が薄くなっても、大人たちは子供のやさしさへ甘えませんでした。


食事を全部渡そうとする子には、半分を戻しました。

疲れているのに「平気」と笑う子には、「平気じゃなくてもいい」と言いました。

誰かを守って傷ついた子には、「立派だった」と褒めるだけでなく「怖かっただろう」と抱きしめました。


そしてある日ひとりの子供が言いました。


「寒い」


母親は答えました。


「じゃあ帰ろう」


たったそれだけでした。

けれど森の奥で見ていた怪物は、長いあいだ動きませんでした。


昔なら、その子は「寒くない」「大丈夫」と言ったでしょう。

そう言える子ほど、立派だと褒められたから。


けれど今は違いました。


寒いと言っていい。

苦しいと言っていい。

助けてと言っていい。


それでも愛されるのです。

その夜、怪物は小さな家の扉を開けました。


「帰る支度をしろ」


遊んでいた子供たちが振り返ります。

リゼットも目を丸くしました。


「……いいの?」


「ああ」


「どうして?」


怪物は村の灯りを見ました。


「約束が終わった」


「約束?」


「子供のやさしさを、大人が食べる村には返さない」


それは何十年も前、怪物が自分自身へ立てた誓いでした。


けれど今は、子供が自分を犠牲にしようとすれば止めてくれる人がいる。

寒いと言えない子に、寒いのだと気づいてくれる人がいる。

やさしさを美しい話にせず、守ってくれる人がいる。


怪物は白い花を一輪摘み、リゼットの髪へ挿しました。

巨大な爪は、少女を傷つけないよう、ぎこちなく丸められています。


「もう、私が先に奪う必要はない」


*


春に、森から子供たちが帰ってきました。

一人、また一人と。

何十年も前に消えた子まで、消えた日の姿のままでした。


怪物の森では、子供は年を取りませんでした。

それは怪物が子供たちから奪った、たった一つのものです。


――傷つく時間。


村の老人の中には、幼いころに別れた兄や姉を見つけ、その場に崩れ落ちる者もいました。

母親だった老婆の前へ、七歳の少女が走っていきました。


「お母さん?」


老婆は返事ができず、皺だらけの腕で娘を抱きしめました。

何十年も遅れた抱擁でした。


最後に、リゼットが現れました。

母が駆け寄ります。


「リゼット!」


少女は抱きしめられながら泣きました。


「お母さん」


「なに?」


「私、本当は悪い子じゃないよ」


母も泣きました。


「知ってる」


「パンも、盗んでない」


「知ってる」


「寒かったのに、寒くないって嘘ついた」


母は娘の頬を包みました。


「もう、そんな嘘をつかなくていい」


森の奥で、大きな鐘のような音が鳴りました。

ごうん、と一度だけ。


それは怪物が何十年も守ってきた約束が、ようやく終わった音でした。


*


それから村では、昔とは反対のことを子供へ教えるようになりました。


泣いている人には、できるなら寄り添いなさい。

困っている人には、できるなら手を貸しなさい。

けれど最後のパンまで渡してはいけません。

寒いなら寒いと言いなさい。

苦しいなら助けてと言いなさい。

疲れたなら、休みなさい。

誰かを救うために自分まで壊れてはいけません。

あなたのやさしさの中には、あなた自身も入れてあげなさい。


そうでなければ、森の怪物が怒るから、と。


今でも冬の夜、森の奥に白い眼が二つ光ることがあります。

けれど子供たちは、もう怖がりません。


雪の中で迷った子がいれば、翌朝には必ず家へ戻っています。

泣いている子の窓辺には、白い花が置かれています。


怪物は、やさしい子から食べる。


それは昔から伝わる話です。

ただ、本当は少し違います。

怪物が食べていたのは、子供ではありません。

やさしい子なら、自分を削って当然だという、大人たちの醜い思い込みでした。


そして冬の夜。

村の子供たちが眠るころ、森の奥では、ときどき誰かが小さく咳をします。


そのたびに白い花が一輪、雪の上に落ちます。

朝になれば、花は消えています。


けれど村人たちは知っています。

あれは怪物が、まだそこにいるしるしです。


子供たちが、もう自分を犠牲にしなくていいように。

誰かのやさしさを、誰かが食べてしまわないように。


もしまた、ひとりで泣く子が森へ迷い込んだなら、雪の向こうから大きな影が現れるでしょう。


鹿の角。

黒い毛皮。

月のように白い眼。


その腕は、今度もぎこちなく丸められているはずです。

子供を傷つけないために。


怪物は迷子を抱き上げ、それから一度だけ村の灯りを振り返ります。

その眼差しを見た者は、なぜか思い出すのです。


昔、誰かにやさしくされたことを。

そして、自分もまた、誰かを抱きしめてよかったのだと。


森の奥で、鐘のような音が鳴ります。

遠く、遠く。


春が来るまで、消えない音です。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。