図書館では、まだ死んでいない人の本を貸し出しています
その図書館では、まだ死んでいない人の本を貸し出しています。
生まれた日のことから、死ぬ日のことまで。
ただし、自分の本だけは借りられません。
本には、出来事だけでなく、誰かが書いた手紙や、書きかけの言葉も収められていました。
けれどそれらは、本文の頁に印刷されているとは限りません。
折り込まれた紙の裏や、頁と頁のあいだの余白に、ひっそり残されていることがあるのです。
*
十四歳の秋。
ネリネは、森の中で道に迷いました。
日が暮れ、濡れた落ち葉を踏みながら歩いていると、木々のあいだから明かりが見えました。
蔦に覆われた、小さな図書館でした。
扉の上には銀文字で《未完図書館》とあります。
中へ入ると、古い紙と雨の匂いがしました。
天井まで届く書架。
数え切れないほどの本。
けれど背表紙に題名はなく、すべて人の名前だけが記されていました。
《エルネスト・ハーグ》 《ミレイア・コルト》 《ダニエル・ロウ》
知らない名前ばかりです。
「何の本ですか?」
カウンターの老人へ尋ねると、司書は眼鏡越しにネリネを見ました。
「人生ですよ」
「誰の?」
「そこに書いてある人の」
老人は当たり前のように答えました。
「ここには、生きている人間の人生が一冊ずつ収められています」
ネリネは笑いかけてやめました。
司書が少しも笑っていなかったからです。
カウンターの上には、誰かの本からこぼれたらしい小さな紙片がありました。
何も書かれていないように見えましたが、紙の端には、何度も折りたたまれた跡が残っていました。
*
「じゃあ」
ネリネは思いついて尋ねました。
「ルディク・アーヴェンという人の本もありますか?」
兄の名前でした。
十八歳。
春から戦地へ行っています。
手紙は二か月前から届いていません。
老人は書架を見上げました。
「ありますよ」
差し出された本は、青い布張りでした。
表紙を撫でると、背の綴じ目から薄い紙の端が覗いていました。
栞かと思って引き抜きかけましたが、老人が静かに首を振ったので、ネリネは手を止めました。
開こうとすると、老人の手が重なりました。
「ひとつだけ」
「何ですか?」
「読んだことは、変えられません」
ネリネは手を止めました。
「未来が書いてあるんでしょう?」
「ええ」
「だったら、知れば変えられる」
「いいえ」
老人は首を振りました。
「あなたが読むことまで含めて、その本なのです」
それでもネリネは、本を開きました。
*
兄の人生がありました。
七歳。
木から落ちて左腕を折った日。
十一歳。
ネリネが熱を出した夜、朝まで手を握っていたこと。
十五歳。
母に隠れて初めて酒を飲み、盛大に吐いたこと。
思わず笑いました。
「馬鹿」
頁をめくります。
十八歳。
戦争。
知らない町。
雪。
頁の隅には、本文とは関係のない細い線が引かれていました。まるで、誰かがそこへ手紙を差し込むために、余白を残していたようでした。
そして最後の頁は、驚くほど短いものでした。
《十二月十四日》
《ルディク・アーヴェンは、妹へ手紙を書いた》
《書き終えることはなかった》
《享年十八》
ネリネの指から、本が落ちました。
*
「返します」
声が震えました。
「読まなかったことにしてください」
「できません」
「じゃあ、助けに行きます」
「間に合いません」
「まだ十一月よ!」
司書は黙っていました。
その沈黙が何より残酷でした。
ネリネは本を抱えて走りました。
森を抜け、家へ帰り、両親へ話しました。
誰も信じませんでした。
それでも戦地へ手紙を送りました。
《十二月十四日は外へ出ないで》 《お願いだから逃げて》 《死なないで》
何通も、何通も。
返事はありませんでした。
*
十二月十四日。
雪が降りました。
ネリネは朝から玄関に座っていました。
夜になっても、翌朝になっても、兄は帰りませんでした。
三日後に軍から知らせが届きました。
ルディクは十四日に亡くなった。
ネリネは泣きませんでした。
もう知っていたからではありません。
知っていたのに救えなかったから、泣き方が分からなかったのです。
*
春、ネリネはもう一度森へ行きました。
「どうしてあんな本を置いているの」
司書へ尋ねました。
「未来を変えられないなら、読む意味なんてないじゃない」
老人は答えず、一冊の青い本を差し出しました。
兄の本でした。
「いらない」
「最後までお読みになっていません」
「読んだわ」
「いいえ」
震える手で開きます。
あの日はなかった頁が、一枚増えていました。
《十二月十四日》
兄が、雪の降る窓辺で手紙を書いています。
《ネリネへ》
そこで文字は途切れていました。
けれどその下。
本の余白に、兄の筆跡ではない文字がありました。
《妹から七通の手紙を受け取る》
ネリネは息を止めました。
《死ぬのが怖くなった》
《帰りたいと思った》
《だから最後まで、生きようとした》
涙が頁へ落ちました。
「……変わってる」
「死ぬ日は変わりません」
司書は言いました。
「ですが、その日をどう生きたかは変わった」
*
「未来って」
ネリネは泣きながら尋ねました。
「決まってるんじゃないの?」
老人はしばらく考えました。
「最後の頁はね」
窓の外で、春の雨が降っていました。
「結末ではありません」
「じゃあ何?」
「本を閉じる場所です」
老人は静かに笑いました。
「そこへ辿り着くまでに何を書くかは、誰にも決められません」
ネリネは兄の本を胸へ抱きました。
死ぬ日は変えられなかった。
けれど兄は最後の日に、自分が待たれていることを知っていた。
帰ってきてほしいと願う人がいることを知っていた。
それだけでした。
それだけなのに、知らないまま死ぬのと同じだったとは、どうしても思えませんでした。
*
帰り際、ネリネは尋ねました。
「私の本もある?」
「もちろん」
「どこ?」
老人は書架のどこかを見ました。
けれど教えてはくれませんでした。
「自分の本は借りられません」
「どうして?」
「読んでしまったら」
老人は微笑みました。
「頁をめくる楽しみがなくなるでしょう?」
外へ出ると、雨が上がっていました。
雲の切れ間から夕日が差しています。
ネリネは歩き出しました。
自分がいつ死ぬのかは知りません。
明日かもしれない。
兄より長く生きるかもしれない。
けれど、それでよいのだと思いました。
*
未完図書館には、今日も本が増え続けています。
恋をする人、誰かと別れる人、明日の朝に人生でいちばん幸福な出来事に出会う人。
そして自分に明日がないことをまだ知らない人。
どの本にも最後の頁があります。
けれど司書たちは決して、その頁を《結末》とは呼びません。
人生とは、最後に何が起きたかだけで出来ているものではないからです。
その前に誰を愛したのか。
誰に愛されたのか。
怖い夜に、それでも誰の名前を呼んだのか。
誰へ手紙を書き、何を余白に残したのか。
それらすべてが、一冊の本になる。
だから図書館では、まだ死んでいない人の本を貸し出しています。
ただし、自分の本だけは借りられません。
あなたの本は今もまだ、あなたの知らないところで、静かに頁を増やしている途中なのです。
今日、誰かにかける言葉も。
ふと差し出す手も。
まだ書かずにいる手紙も。
その一つひとつが、あなたの本の余白に残っていきます。
いつか最後の頁へ辿り着くその日まで、あなたは知らないまま、けれど確かに、自分の物語を書き続けているのです。




