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泣いた涙は、瓶に戻してください

この国では、子どもが生まれると、空の硝子瓶をひとつ渡されます。

手のひらに載るほど小さく、月明かりを溶かしたように青白い瓶です。


そして母親は、子どもへ最初にこう教えます。


――泣いた涙は、瓶に戻してください。


悲しい夜も。 転んだ朝も。 大切な人と喧嘩した日も。

零れた涙を指先ですくい、瓶へ入れるのです。


昔、この国では、人が一生に流せる涙には限りがあると信じられていました。

泣くたびに少しずつ失われ、すべて使い切れば、もう二度と泣けなくなる。


だから涙を瓶へ戻すのだ、と。


けれど本当は、少し違います。

人に限りがあるのは、涙そのものではありません。

悲しみを涙へ変え、身体の外へ送り出す力です。


瓶へ戻された涙は、夜になると月の光に溶け、持ち主のもとへ還ります。

そうすれば翌朝には、また泣くことができる。


ただし、ひとつだけ。

涙とともに身体を出た《悲しみ》は、戻りません。

それだけは淡い光となって、瓶の底へ沈んでいきます。


だから硝子瓶は、その人が一生のあいだに手放した悲しみを、代わりに覚えているのです。


そして昔から、もうひとつだけ言い伝えがありました。


――決して、他人の涙を自分の瓶へ戻してはいけません。


理由を知る子どもは、ほとんどいませんでした。


*


リュシエが弟のカイルムと二人きりになったのは、十四歳の冬でした。

両親を流行病で亡くした日のことです。


葬儀の帰り道、七歳のカイルムは姉の手を握ったまま、ずっと泣いていました。

雪の積もる道へ、小さな涙が落ちていきます。


「お母さんに会いたい」


リュシエは慌ててしゃがみました。


「駄目。ちゃんと瓶に戻さないと」


冷えた指で弟の頬から涙を掬い、小瓶へ移します。

一滴。また一滴。

青白かった硝子の底へ、淡い金色が溜まっていきました。


「お姉ちゃんは?」


「なに?」


「泣かないの?」


その問いに、リュシエは一瞬だけ答えられませんでした。


怖かった。

母のいない家へ帰ることが。 父がもう暖炉へ薪を足してくれないことが。

明日の朝から、自分がこの小さな手を守らなければならないことが。


十四歳の少女には、何もかもが大きすぎました。

それでも弟の前では笑いました。


「お姉ちゃんだからね」


その夜カイルムが眠ってから、リュシエは台所の床へ座り込みました。


母の椅子がある。 父のカップもある。

なのに二人だけがいない。


そこでようやく、声を殺して泣きました。

けれど落ちた涙を、瓶へ戻すことはしませんでした。

自分が泣いたことさえ、朝になればなかったことにしたかったのです。


*


年月が過ぎました。


カイルムはよく泣く子でした。

転べば泣く。 叱られれば泣く。 飼っていた小鳥が死んでも泣く。

そのたびリュシエは笑いました。


「また使っちゃったの?」


「だって悲しかったんだもん」


「仕方ないなあ」


そう言って頬を拭いてやる時間が、リュシエは嫌いではありませんでした。

弟が泣けるうちは、この子の心はちゃんと柔らかいままだと思えたからです。


けれどある春の日、窓辺で弟の瓶を陽へ透かしたリュシエは、息を止めました。


瓶いっぱいに、金色の光が揺れていました。

底が見えないほどに。


「……この子は、あとどれくらい泣けるんですか」


町外れに住む《涙守》の老女へ尋ねました。

老女は瓶を傾け、光の深さを確かめました。


「このままなら、あと七度ほどだろうね」


「七度?」


リュシエの顔から血の気が引きました。


「そのあと、どうなるんです?」


「瓶が満ちれば、涙は還る場所を失う」


「泣けなくなるだけ?」


老女は黙りました。

窓の外では春の雨が降り、軒先から落ちる雫が規則正しく石を叩いています。


やがて老女は言いました。


「人は泣いて、悲しみを自分の外へ出す」


一滴。また一滴。


「それができなくなれば、悲しみは胸の中へ残り続ける。最初は苦しいだけだ。けれど溜まりすぎれば、心は自分を守ろうとする」


「どうやって?」


「悲しいということ自体を、感じなくなる」


リュシエは弟の瓶を見つめました。

そのとき、彼女が恐れたのは弟が泣くことではありませんでした。


いつかこの子が、泣くことさえできなくなることでした。


*


それからリュシエは、カイルムを泣かせないようにしました。


痛いものも、 悲しいものも、できるだけ弟から遠ざけました。

それでも生きていれば悲しみはやってきます。


そんな夜には、カイルムが眠ったあと、リュシエは弟の瓶を持ち出しました。


そして。

一滴。二滴。

弟の涙を、自分の瓶へ移しました。


翌朝には、カイルムの瓶へ少しだけ空きができていました。

そのぶん、リュシエの瓶は重くなっていました。


昔から禁じられていたことでした。


――他人の涙を、自分の瓶へ戻してはいけない。


けれど、なぜなのかリュシエは知ろうともしませんでした。


弟が泣けるなら、それでよかった。

弟の悲しみを、自分が持てばいい。


母が死んだ夜から、それは彼女にとってあまりにも自然なことでした。


*


けれど、涙はただの水ではありません。

そこには、その涙を流した理由が残っています。


他人の涙を自分の瓶へ入れるということは、その人が手放した悲しみまで、自分の瓶へ引き受けるということでした。


リュシエの瓶には、少しずつ二人分の悲しみが積もっていきました。


母を失った悲しみ。

父を失った悲しみ。

弟が熱を出した夜の恐怖。

死んだ小鳥を掌へ載せた幼いカイルムの痛み。

そしてリュシエ自身が「大丈夫」と言うたび、見ないふりをした寂しさ。


瓶が重くなるほど、リュシエは泣かなくなりました。


悲しい出来事を思い出しても、「大丈夫」と口にするほうが早くなりました。

その言葉が本当なのか、自分自身へ確かめることさえしなくなっていきました。


*


十七歳になった春にカイルムは恋をしました。

そして、振られました。


帰宅した弟は玄関で姉の顔を見るなり、子どものころのように泣きました。


「リュシエ」


「うん」


「苦しい」


リュシエは何も言わず、その身体を抱きしめました。

七歳だった弟は、いつの間にか姉の肩を越えるほど大きくなっていました。

それでも泣き方だけは、あの冬と同じでした。


背中を撫でながら、リュシエは笑いました。


「いっぱい泣きなさい」


「でも、瓶が」


「大丈夫」


弟には見えないように、自分の瓶を握ります。


「まだ、たくさん残ってるから」


嘘でした。

その夜カイルムが眠ったあと、最後の一滴を自分の瓶へ移しました。


金色の光が、瓶の口まで満ちました。


かちり。

誰も触れていないのに、蓋が閉まりました。


「……え?」


リュシエは瓶を持ち上げました。

その瞬間胸の奥で、何かが切れました。


母の顔を思い浮かべます。

何も感じません。


父の声。

懐かしくありません。


眠っている弟。

大切なはずなのに、その「大切」がどんな感情だったのか分からない。


怖い。

そう思うはずでした。

けれど、その恐怖すら湧きませんでした。


満杯になった瓶は、持ち主を守るために閉じるのです。

もうこれ以上、悲しみを抱えなくていいように。


悲しみに繋がるすべての感情ごと、心から遠ざけて。


*


翌朝。


「姉さん」


カイルムは台所に立つ姉へ声をかけました。


「昨日、ありがとう」


「何が?」


リュシエはいつもと同じように笑いました。

だからこそ、カイルムは怖くなりました。


「僕、泣いてたでしょう」


「ああ」


「心配した?」


リュシエは少し考えました。


「どうだったかしら」


声には、何もありませんでした。

カイルムは棚の奥に、姉の瓶を見つけました。

金色の涙で満たされ、固く蓋が閉じています。


触れた瞬間、瓶の中にいくつもの記憶が浮かびました。


母の葬儀。

父の棺。

七歳の自分。

熱を出した夜。

小鳥が死んで泣いた午後。


そして夜ごと自分の瓶から涙を掬い、ひとり自分の瓶へ移していた姉。


カイルムは、ようやく理解しました。


自分が泣いたぶんだけ姉が代わりに、悲しみを抱えていたことを。


「姉さん……」


声が震えました。

リュシエは振り返ります。


「どうして泣いてるの?」


カイルムの頬を涙が伝いました。

リュシエは昔と同じように手を伸ばしました。


「ちゃんと瓶に戻しなさい」


けれどカイルムは首を振りました。

ぽとりと、涙が床へ落ちます。


「駄目でしょう」


もう一滴。


「戻さないと、泣けなくなるわよ」


「いい」


「どうして?」


カイルムは姉を抱きしめました。


「これは、姉さんのぶんだから」


リュシエは意味が分からないようでした。


「お母さんが死んだとき、本当は怖かったでしょう」


返事はありません。


「お父さんがいなくなったとき、寂しかったでしょう」


姉の指が、ほんの少し震えました。


「七歳の僕をひとりで守るの、苦しかったでしょう」


「……違う」


初めて声が揺れました。


「私は、お姉ちゃんだから」


「うん」


カイルムは泣きながら笑いました。


「知ってる」


姉の肩へ顔を埋めます。


「だから今度は、僕が姉さんのぶんを泣くよ」


その涙が一滴、リュシエの瓶へ落ちました。

満杯のはずの瓶へ。

ありえない一滴でした。


それはリュシエが奪った涙ではありません。

カイルムが、自分から姉の悲しみへ寄り添うために流した涙でした。


ぱき。

硝子に細い亀裂が走りました。


*


瓶が砕けました。

けれど、それは壊れたのではありませんでした。

役目を終えたのです。


金色の光が、部屋いっぱいへ溢れました。


母の笑顔。

父の大きな手。

雪の積もる葬儀の日。

七歳の弟。

十四歳で大人にならなければならなかった少女。


そして、何度も何度も飲み込んだ、怖い、寂しい、助けて、そんな言葉たち。


全部が胸へ戻ってきました。


苦しい。

痛い。

寂しい。

会いたい。


そして――愛しい。


リュシエは床へ崩れ落ちました。


「お母さん……」


十四歳の冬から初めて声を上げて泣きました。

カイルムが抱きしめます。


「うん」


「会いたい」


「うん」


「ずっと、会いたかった」


「知ってる」


「私だって……子どもだったのに」


その言葉を口にした瞬間、リュシエはさらに泣きました。

カイルムも泣きました。

姉弟は朝まで泣き続けました。


落ちた涙を、もう瓶へ戻すことはありませんでした。


*


数日後。

リュシエは《涙守》のもとを訪ねました。


「瓶が割れました」


老女は驚きませんでした。


「そうかい」


「私、もう泣けなくなるんでしょうか」


「今朝は?」


「……泣きました」


「昨日は?」


「泣きました」


「なら、答えは出ているじゃないか」


リュシエは戸惑いました。


「でも、人が流せる涙には限りがあるって」


老女は静かに首を振りました。


「あれはね、昔の人が半分だけ理解した話なんだよ」


「半分?」


「悲しみをひとりで抱えれば、いつか心は泣く力を失う。それは本当だ」


窓の外では雪解け水が光っていました。


「だから昔の人は、悲しみを瓶へ預けた。そうすれば何度でも泣けると思った」


老女はリュシエを見ました。


「でも本当は、瓶でなくてもよかったんだ」


「じゃあ、何に?」


老女は微笑みました。


「人に」


リュシエは瞬きをしました。


「誰かが一緒に悲しんでくれるなら、涙はなくならない」


母親を亡くした子の隣で泣く人。

友を失った人の手を握る人。

「悲しい」と言ったとき、「そうだね」と答えてくれる人。


「涙というのは、不思議なものでね」


老女は言いました。


「ひとりで閉じ込めれば尽きるのに、誰かと分けると、また生まれてくるんだよ」


*


それから、リュシエとカイルムの家では、瓶を棚の奥へしまわなくなりました。


割れたリュシエの瓶は捨てませんでした。

欠片を集め、小さな皿へ入れて窓辺に置きました。

カイルムの瓶も、その隣です。


もう涙は入っていません。


朝日を受けると、青白い硝子の底に小さな虹が生まれます。


ある朝、カイルムが台所で湯を沸かし、リュシエは濡れた布で床を拭いていました。


窓の外では雪解け水が、ぽたりぽたりと軒先から落ちています。


リュシエは赤く腫れた目をこすり、弟へ椀を差し出しました。


「熱いから、気をつけて」


「姉さんも」


二人は並んで椀を持ちました。


しばらくしてカイルムが尋ねました。


「姉さん」


「なに?」


「また悲しくなったら、どうする?」


リュシエは考えました。

昔なら、きっと笑ったでしょう。


――大丈夫。


そう言って悲しくないふりをしたでしょう。


けれど今はこう答えました。


「泣くわ」


「瓶は?」


リュシエは窓辺を見ました。

砕けた硝子が朝日にきらめいています。


「戻さない」


「じゃあ、なくなったら?」


リュシエは少しだけ笑いました。

そして弟の肩へ、自分の肩を寄せました。


「そのときは、あなたに少し分けてもらう」


カイルムも笑いました。


「うん」


*


この国では今でも、子どもが生まれると硝子瓶を贈る家があります。


けれど昔のように、


――泣いた涙は、瓶に戻してください。


そう教える人は、少しずつ減りました。


代わりに母親たちは、子どもへこんな話をするようになりました。


悲しいときには、泣きなさい。

涙は、悲しみを外へ連れ出してくれるから。


そして、ひとりで持てなくなった悲しみは、瓶ではなく、誰かに少しだけ持ってもらいなさい。


泣いた涙を無理に戻す必要はありません。


大切なのは涙が尽きないように生きることではなく、涙が零れたとき、隣で一緒に泣いてくれる人を大切にすることなのです。

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