わたしのお葬式に、わたしだけ呼ばれなかった
十七歳になる前の夜、母はわたしの髪を梳いてくれました。
もう子供ではないのに。
「どうしたの、急に」
鏡越しに笑うと、母は答えませんでした。
ただ、櫛を通すたびに茶色い髪を一本一本、覚えようとするように見つめていました。
「明日は何しようかな」
その瞬間櫛が止まりました。
「久しぶりに市場へ行こうかな。ルッツも連れて――」
「明日の話はしないで」
母が言いました。
声が震えていました。
振り返ると、すぐに笑います。
「誕生日なんだから、今日のことだけ考えなさい」
変なの。
そう思いました。
もっと変だったのは、部屋でした。
去年まで棚にあった木彫りの小鳥がない。
五歳の誕生日にもらった赤いリボンも、学校で初めて満点を取った答案も。
ここ数か月古いものから順番に、少しずつ消えていました。
母に尋ねるたび「片づけただけよ」そう言われました。
鏡の隅には、白い布が掛けられていました。
最近、母は夜になると鏡を隠します。
理由は知りません。
でも眠る前に布の隙間から自分を見るとときどき、鏡の中のわたしだけが、ほんの少し遅れて瞬きをするのです。
*
その夜、弟のルッツが寝室へ来ました。
八歳です。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「これ、持ってて」
渡されたのは、紙切れでした。
幼い字で《おねえちゃんとぼく》二人の絵。
「懐かしい」
笑った瞬間、胸がひどく痛みました。
紙を持つ指先が薄くなっています。
向こう側の文字が透けていました。
瞬きをすると元に戻りました。
「……疲れてるのかな」
呟くと、ルッツが泣き出しました。
「どうしたの?」
「やっぱり捨てよう」
絵を奪おうとします。
「嫌よ。せっかく描いてくれたのに」
「駄目!」
あまりに必死なので驚きました。
「昔のもの、持っちゃ駄目なんだって!」
廊下から母の声。
「ルッツ!」
弟は口を押さえました。
母は青ざめていました。
「もう寝なさい」
連れていかれる直前にルッツは振り返りました。
「お姉ちゃん」
泣きながら言いました。
「明日も僕のこと、好き?」
妙な質問でした。
「当たり前でしょう」
そう答えると弟はもっと泣きました。
*
眠れませんでした。
窓辺に座っていると、昔のことばかり浮かびました。
五歳。
母に赤いリボンを結んでもらった朝。
九歳。
父が木彫りの小鳥をくれた冬。
十三歳。
ルッツがあの絵を描いた日。
思い出すたび身体が少し軽くなる。
足元を見ると月明かりの中で、影がありませんでした。
それなのに不思議と怖くありません。
昔の記憶に沈んでいるときだけとても温かいのです。
このままずっと、昨日の中にいたい。
そんなことさえ思いました。
机へ向かいました。
なぜか手紙を書きたくなりました。
《明日のわたしへ》
そこまで書いて手が止まりました。
明日の自分。
その言葉が、知らない誰かのことのように感じられたからです。
*
朝、十七歳になりました。
目を覚ますと、枕元に黒い服が置かれていました。
母のものです。
階下には大勢の人。
庭には白い百合。
鈴蘭。
青い花。
死者を送る花ばかり。
「誰か死んだの?」
台所へ下りると母がカップを落としました。
白い陶器が割れます。
「シェリナ」
母は呟きました。
「起きてきちゃったの」
「何それ」
母は娘を抱きしめました。
痛いほど強く。
その肩越しに、テーブルの案内状が見えました。
《故 シェリナ・ヴァイス》
わたしの名前でした。
*
「私、生きてるよ」
胸へ手を置きました。
とくん。
とくん。
心臓は動いています。
父は何も言いません。
「ほら」
母は泣きました。
「分かってるわ」
「だったら、どうして?」
答えはありません。
昼に町の鐘が鳴りました。
黒い服を着た人々が丘へ向かいます。
学校の先生。
パン屋のおばさん。
友人たち。
みんなわたしを見ません。
いいえ、見ないようにしていました。
幼なじみと目が合いました。
彼女は咄嗟に顔を背け、泣きました。
そのとき昨夜のルッツの言葉を思い出しました。
――昔のもの、持っちゃ駄目なんだって。
嫌な予感がしました。
「私も行く」
玄関へ向かうと、父に腕を掴まれました。
「駄目だ」
「私のお葬式でしょう?」
「だからだ」
「死んでない!」
叫びました。
父の顔が歪みました。
「知ってる」
その一言のほうがずっと怖かった。
*
家族が出たあとわたしは丘へ走りました。
秋の風。
乾いた落ち葉。
死者を送る歌。
墓地には白い棺がありました。
蓋は開いています。
中には誰もいません。
代わりに、赤いリボン、木彫りの小鳥、答案、古い服、写真。
全部ここ数か月、部屋から消えていったものでした。
「……返して」
母が泣きました。
父もルッツも。
「それ、私のものだよ」
誰も動きません。
「返して!」
棺へ手を伸ばした瞬間、指が透けました。
今度は戻りませんでした。
*
老司祭が前へ出ました。
「十七歳になったのですね」
そして、この町の秘密を教えてくれました。
ごく稀に十七歳になると、《昨日》に身体を引かれる子供が生まれる。
昔の夢を見る。
思い出の品へ触れると身体が薄くなる。
鏡像が遅れる。
影が消える。
やがて過去の中へ溶けてしまう。
「治す方法は?」
「あります」
その子にまつわる《過去》をすべて葬ること。
写真。
手紙。
愛用品。
思い出。
そして誕生日の一日だけ、家族も友人も、その子を死者として送り出す。
「だから本人は葬儀へ呼ばれない」
司祭が言いました。
「自分の過去を見れば、手放せなくなるからです」
わたしは棺を見ました。
すべて繋がりました。
母が古いものを片づけた理由。
鏡を隠した理由。
誰も昔話をしなくなった理由。
そして――明日の話はしないで。
あれは明日が来ないと思っていたからではありません。
明日のわたしが今日のわたしではなくなるからでした。
「これを埋めたら、私は?」
「生きられます」
安堵しました。
けれど。
「今日までのあなたへの感情は、すべて過去とともに眠ります」
母が好きだったことは覚えている。
でも好きだった温度を失う。
弟と笑ったことは覚えている。
でもなぜ嬉しかったのか分からなくなる。
十七年間の人生が他人の伝記になる。
*
「嫌だ」
初めて口にしました。
「忘れたくない」
母へ抱きつきました。
匂いを覚えようとしました。
父の大きな手。
ルッツの柔らかい髪。
全部。全部なくなる。
「お姉ちゃん」
ルッツが泣いていました。
「僕のこと、明日も好き?」
昨夜と同じ質問。
今度は意味が分かりました。
答えようとして声が出ませんでした。
明日の自分がどう思うかなんて約束できない。
だからルッツを抱きしめました。
「ごめん」
それしか言えませんでした。
*
夕暮れ、棺の蓋を閉じる前にわたしは家へ戻りました。
机には昨夜の手紙。
《明日のわたしへ》
続きを書きました。
涙で文字が滲みました。
そして封をしました。
*
棺の前に立ちます。
十七年間のわたしが眠っています。
「さようなら」
自分自身へ言いました。
蓋が閉じました。
土が落ちる音を聞きながらわたしの指は少しずつ、元の色へ戻っていきました。
*
翌朝、部屋は空っぽでした。
階下へ行くと、母がいます。
この人が母だと知っています。
けれど胸は動きません。
「おはよう」
母が言いました。
泣きそうな笑顔。
わたしも笑いました。
「おはようございます」
母の目から涙が落ちました。
理由は分かりませんでした。
*
何年も経ちました。
わたしは町を出て、恋をして、結婚し、娘が生まれました。
ある秋の日。十七歳になった娘が尋ねました。
「お母さんの子供のころの写真って、どうして一枚もないの?」
「昔、なくしたの」
そう答えました。
その夜、古い箱から一通の手紙を見つけました。
《明日のわたしへ》
自分の筆跡。
けれど書いた記憶はありません。
封を開きました。
中には、こうありました。
《明日のわたしへ》
《あなたはきっと、お母さんを見ても何も感じません》
《お父さんの手を見ても、安心しません》
《ルッツのことも、ただ弟だと知っているだけになります》
《それでいいです》
文字が震えていました。
《だからお願いがあります》
《もう一度、好きになってください》
《初めて会った人を好きになるみたいに》
《時間がかかってもいいから》
《もう一度、家族になってください》
最後に小さな文字。
《ルッツへ》
《明日も好きだと約束できなくて、ごめんね》
《でも》
《明日のわたしが、またあなたを好きになってくれますように》
ぽたり。
紙へ涙が落ちました。
どうして泣いているのか分かりません。
ただ胸の奥。
ずっと昔に埋めた場所で何かが、とくん、と鳴りました。
*
わたしのお葬式に、わたしだけ呼ばれませんでした。
けれど本当は、前の晩からみんな少しずつ、わたしにさよならを言っていたのです。
髪を梳く母も。
昔のものを隠す父も。
「明日も好き?」と尋ねた弟も。
みんな知っていました。
朝になれば、わたしは生きている。
けれど。
自分たちを愛した昨日の少女は、もう帰ってこないことを。
それでも不思議なものです。
思い出は埋められても愛された跡までは、きれいに埋まらないらしいのです。
だから今度、故郷へ帰ってみようと思います。
母に会ったら。
父に会ったら。
弟に会ったら。
きっと最初は、知らない人を見るような気持ちでしょう。
それでも「はじめまして」そう言ってみようと思います。
そしてもう一度ゆっくりと、あの人たちのことを好きになれたらと思うのです。
かつてのわたしが、明日のわたしへ託した、たったひとつの願いのように。




