↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
40/60

わたしのお葬式に、わたしだけ呼ばれなかった

十七歳になる前の夜、母はわたしの髪を梳いてくれました。

もう子供ではないのに。


「どうしたの、急に」


鏡越しに笑うと、母は答えませんでした。

ただ、櫛を通すたびに茶色い髪を一本一本、覚えようとするように見つめていました。


「明日は何しようかな」


その瞬間櫛が止まりました。


「久しぶりに市場へ行こうかな。ルッツも連れて――」


「明日の話はしないで」


母が言いました。

声が震えていました。

振り返ると、すぐに笑います。


「誕生日なんだから、今日のことだけ考えなさい」


変なの。

そう思いました。


もっと変だったのは、部屋でした。

去年まで棚にあった木彫りの小鳥がない。


五歳の誕生日にもらった赤いリボンも、学校で初めて満点を取った答案も。

ここ数か月古いものから順番に、少しずつ消えていました。


母に尋ねるたび「片づけただけよ」そう言われました。


鏡の隅には、白い布が掛けられていました。

最近、母は夜になると鏡を隠します。

理由は知りません。


でも眠る前に布の隙間から自分を見るとときどき、鏡の中のわたしだけが、ほんの少し遅れて瞬きをするのです。


*


その夜、弟のルッツが寝室へ来ました。

八歳です。


「お姉ちゃん」


「なに?」


「これ、持ってて」


渡されたのは、紙切れでした。

幼い字で《おねえちゃんとぼく》二人の絵。


「懐かしい」


笑った瞬間、胸がひどく痛みました。

紙を持つ指先が薄くなっています。


向こう側の文字が透けていました。

瞬きをすると元に戻りました。


「……疲れてるのかな」


呟くと、ルッツが泣き出しました。


「どうしたの?」


「やっぱり捨てよう」


絵を奪おうとします。


「嫌よ。せっかく描いてくれたのに」


「駄目!」


あまりに必死なので驚きました。


「昔のもの、持っちゃ駄目なんだって!」


廊下から母の声。


「ルッツ!」


弟は口を押さえました。

母は青ざめていました。


「もう寝なさい」


連れていかれる直前にルッツは振り返りました。


「お姉ちゃん」


泣きながら言いました。


「明日も僕のこと、好き?」


妙な質問でした。


「当たり前でしょう」


そう答えると弟はもっと泣きました。


*


眠れませんでした。

窓辺に座っていると、昔のことばかり浮かびました。


五歳。

母に赤いリボンを結んでもらった朝。


九歳。

父が木彫りの小鳥をくれた冬。


十三歳。

ルッツがあの絵を描いた日。


思い出すたび身体が少し軽くなる。


足元を見ると月明かりの中で、影がありませんでした。

それなのに不思議と怖くありません。


昔の記憶に沈んでいるときだけとても温かいのです。


このままずっと、昨日の中にいたい。

そんなことさえ思いました。


机へ向かいました。

なぜか手紙を書きたくなりました。


《明日のわたしへ》


そこまで書いて手が止まりました。


明日の自分。

その言葉が、知らない誰かのことのように感じられたからです。


*


朝、十七歳になりました。


目を覚ますと、枕元に黒い服が置かれていました。


母のものです。

階下には大勢の人。


庭には白い百合。

鈴蘭。

青い花。


死者を送る花ばかり。


「誰か死んだの?」


台所へ下りると母がカップを落としました。

白い陶器が割れます。


「シェリナ」


母は呟きました。


「起きてきちゃったの」


「何それ」


母は娘を抱きしめました。

痛いほど強く。


その肩越しに、テーブルの案内状が見えました。


《故 シェリナ・ヴァイス》


わたしの名前でした。


*


「私、生きてるよ」


胸へ手を置きました。


とくん。

とくん。


心臓は動いています。


父は何も言いません。


「ほら」


母は泣きました。


「分かってるわ」


「だったら、どうして?」


答えはありません。


昼に町の鐘が鳴りました。

黒い服を着た人々が丘へ向かいます。


学校の先生。

パン屋のおばさん。

友人たち。

みんなわたしを見ません。


いいえ、見ないようにしていました。


幼なじみと目が合いました。

彼女は咄嗟に顔を背け、泣きました。


そのとき昨夜のルッツの言葉を思い出しました。


――昔のもの、持っちゃ駄目なんだって。


嫌な予感がしました。


「私も行く」


玄関へ向かうと、父に腕を掴まれました。


「駄目だ」


「私のお葬式でしょう?」


「だからだ」


「死んでない!」


叫びました。

父の顔が歪みました。


「知ってる」


その一言のほうがずっと怖かった。


*


家族が出たあとわたしは丘へ走りました。


秋の風。

乾いた落ち葉。

死者を送る歌。


墓地には白い棺がありました。

蓋は開いています。


中には誰もいません。


代わりに、赤いリボン、木彫りの小鳥、答案、古い服、写真。


全部ここ数か月、部屋から消えていったものでした。


「……返して」


母が泣きました。

父もルッツも。


「それ、私のものだよ」


誰も動きません。


「返して!」


棺へ手を伸ばした瞬間、指が透けました。

今度は戻りませんでした。


*


老司祭が前へ出ました。


「十七歳になったのですね」


そして、この町の秘密を教えてくれました。


ごく稀に十七歳になると、《昨日》に身体を引かれる子供が生まれる。


昔の夢を見る。

思い出の品へ触れると身体が薄くなる。


鏡像が遅れる。

影が消える。


やがて過去の中へ溶けてしまう。


「治す方法は?」


「あります」


その子にまつわる《過去》をすべて葬ること。


写真。

手紙。

愛用品。

思い出。


そして誕生日の一日だけ、家族も友人も、その子を死者として送り出す。


「だから本人は葬儀へ呼ばれない」


司祭が言いました。


「自分の過去を見れば、手放せなくなるからです」


わたしは棺を見ました。

すべて繋がりました。

母が古いものを片づけた理由。

鏡を隠した理由。

誰も昔話をしなくなった理由。

そして――明日の話はしないで。


あれは明日が来ないと思っていたからではありません。


明日のわたしが今日のわたしではなくなるからでした。


「これを埋めたら、私は?」


「生きられます」


安堵しました。

けれど。


「今日までのあなたへの感情は、すべて過去とともに眠ります」


母が好きだったことは覚えている。

でも好きだった温度を失う。


弟と笑ったことは覚えている。

でもなぜ嬉しかったのか分からなくなる。


十七年間の人生が他人の伝記になる。


*


「嫌だ」


初めて口にしました。


「忘れたくない」


母へ抱きつきました。

匂いを覚えようとしました。

父の大きな手。

ルッツの柔らかい髪。


全部。全部なくなる。


「お姉ちゃん」


ルッツが泣いていました。


「僕のこと、明日も好き?」


昨夜と同じ質問。

今度は意味が分かりました。


答えようとして声が出ませんでした。

明日の自分がどう思うかなんて約束できない。


だからルッツを抱きしめました。


「ごめん」


それしか言えませんでした。


*


夕暮れ、棺の蓋を閉じる前にわたしは家へ戻りました。

机には昨夜の手紙。


《明日のわたしへ》


続きを書きました。

涙で文字が滲みました。

そして封をしました。


*


棺の前に立ちます。

十七年間のわたしが眠っています。


「さようなら」


自分自身へ言いました。

蓋が閉じました。

土が落ちる音を聞きながらわたしの指は少しずつ、元の色へ戻っていきました。


*


翌朝、部屋は空っぽでした。


階下へ行くと、母がいます。

この人が母だと知っています。


けれど胸は動きません。


「おはよう」


母が言いました。

泣きそうな笑顔。


わたしも笑いました。


「おはようございます」


母の目から涙が落ちました。

理由は分かりませんでした。


*


何年も経ちました。

わたしは町を出て、恋をして、結婚し、娘が生まれました。


ある秋の日。十七歳になった娘が尋ねました。


「お母さんの子供のころの写真って、どうして一枚もないの?」


「昔、なくしたの」


そう答えました。

その夜、古い箱から一通の手紙を見つけました。


《明日のわたしへ》


自分の筆跡。

けれど書いた記憶はありません。


封を開きました。

中には、こうありました。


《明日のわたしへ》

《あなたはきっと、お母さんを見ても何も感じません》

《お父さんの手を見ても、安心しません》

《ルッツのことも、ただ弟だと知っているだけになります》

《それでいいです》


文字が震えていました。


《だからお願いがあります》

《もう一度、好きになってください》

《初めて会った人を好きになるみたいに》

《時間がかかってもいいから》

《もう一度、家族になってください》


最後に小さな文字。


《ルッツへ》

《明日も好きだと約束できなくて、ごめんね》

《でも》

《明日のわたしが、またあなたを好きになってくれますように》


ぽたり。

紙へ涙が落ちました。


どうして泣いているのか分かりません。


ただ胸の奥。

ずっと昔に埋めた場所で何かが、とくん、と鳴りました。


*


わたしのお葬式に、わたしだけ呼ばれませんでした。


けれど本当は、前の晩からみんな少しずつ、わたしにさよならを言っていたのです。


髪を梳く母も。

昔のものを隠す父も。

「明日も好き?」と尋ねた弟も。


みんな知っていました。


朝になれば、わたしは生きている。


けれど。

自分たちを愛した昨日の少女は、もう帰ってこないことを。


それでも不思議なものです。


思い出は埋められても愛された跡までは、きれいに埋まらないらしいのです。


だから今度、故郷へ帰ってみようと思います。


母に会ったら。

父に会ったら。

弟に会ったら。


きっと最初は、知らない人を見るような気持ちでしょう。


それでも「はじめまして」そう言ってみようと思います。


そしてもう一度ゆっくりと、あの人たちのことを好きになれたらと思うのです。


かつてのわたしが、明日のわたしへ託した、たったひとつの願いのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。