↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
39/60

世界の端には郵便局があります

世界の端には、郵便局があります。


そこへ行けば、どんな手紙でも届けてもらえるのだそうです。


死んだ人へも。

生まれなかった人へも。

もう自分を忘れてしまった人へも。


ただし、ひとつだけ。


――宛先には、決して嘘を書いてはいけません。


そしてもうひとつ。


これは、あまり知られていないことですが、世界の端の郵便局では、手紙だけでなく、忘れたい記憶も預かってくれるのです。


*


アニエスが世界の端を目指したのは、十六歳の秋でした。


少なくとも、自分ではそう思っていました。

鞄の中には、一通の手紙。


宛名はありません。

名前だけが、どうしても思い出せないのです。


奇妙なのは、名前以外のことなら断片的に覚えていることでした。


林檎を剥くのが、ひどく下手だった。

雨の日には、自分の右肩だけ濡らして傘を差した。

眠れない夜には、星へでたらめな名前をつけてくれた。


思い出そうとすると、胸が痛みました。

本当に、痛い。傷口を指で押したように。


だからいつも、そこで考えるのをやめました。


――思い出さなくていい。


なぜか心の中で、誰かがそう囁くのです。

それは他人の声ではありませんでした。

自分自身の声に、よく似ていました。


*


道中、不思議なことが何度もありました。


宿屋で日付を書くよう言われたとき、アニエスはペンを止めました。

今年が何年なのか分からなかったのです。


鏡を見ると、ときどき自分の顔がひどく遠く感じました。

食事をしても、味がしない日もありました。


そして雨が降ると、必ず道の右側を空けて歩きました。

誰もいないのに。


「……変なの」


笑って左へ寄る。

しばらくすると、また右側が空いている。


身体だけが誰かと並んで歩いたことを覚えていました。


*


世界の端には、白い崖がありました。

その向こうには海さえありません。

星の浮かぶ深い夜だけが、世界の下まで続いています。


崖の際に、小さな建物がありました。

赤い屋根に青い扉。

金色の郵便受け。


《世界終端郵便局》


アニエスは立ち止まりました。

初めて来たはずなのに、扉の取っ手の傷を知っていました。

右下に三本。


見る前から、そこにあると分かっていたのです。


「……どうして?」


扉を開けました。

ちりん。

鈴が鳴ります。


カウンターには、年老いた郵便局員がいました。

名札には《トーヴェ》。

老人はアニエスを見ても驚きませんでした。

ただ、悲しそうに目を細めました。


「いらっしゃいませ」


少し間を置いて。


「――アニエスさん」


少女は足を止めました。


「どうして、私の名前を?」


トーヴェは答えませんでした。


「手紙を?」


「……はい」


「そうですか」


老人は静かに頷きました。


「今度こそ、届くといいですね」


「今度?」


「……いえ」


トーヴェは微笑みました。


「こちらの話です」


*


手紙を送る料金は、お金ではありませんでした。


「その人について、一番大切な記憶をひとついただきます」


アニエスは妙な既視感を覚えました。


この言葉、前にも聞いた。

そんな気がしました。


「記憶は、どうなるんですか?」


「ここでお預かりします」


「捨てるんじゃなくて?」


トーヴェの指が止まりました。


「ええ」


そして、意味ありげに付け加えました。


「あなたは昔から、捨てることだけは嫌がりましたから」


アニエスは顔を上げました。


「昔から?」


老人はまた答えませんでした。


*


アニエスは目を閉じました。


草原が見えます。

十五歳の夏。

隣には少年。

顔だけが見えません。


「もし僕が先に死んだらどうする?」


「忘れる」


「薄情だな」


「だって、ずっと悲しいの嫌だもの」


「じゃあ僕も忘れる」


「私が先なら?」


「三日で」


「早すぎる!」


二人で笑いました。

やがて少年が言いました。


「……本当は忘れたくないけど」


アニエスも答えました。


「私も」


草の中で、小指だけを絡めました。

胸が締めつけられました。


この記憶を失えば、きっと何か大切なものまで、本当に消えてしまう。


「……嫌」


アニエスは目を開けました。


「別のものにします」


トーヴェが静かに尋ねました。


「なぜです?」


「分からない」


手紙を胸へ抱きました。


「でも、これは前にも失くした気がするから」


老人の目が揺れました。


*


その夜、眠れないアニエスは郵便局を歩きました。

廊下の奥に、小さな扉がありました。


《保管室》


なぜか鍵の場所を知っていました。


受付机の三番目の引き出し。

青い紐の下。


「……どうして知ってるの」


震える手で鍵を開けました。

中には無数の小瓶がありました。


笑い声。

夕焼け。

誰かの名前。

母親の手の温度。


人々が忘れた記憶が、淡い光となって眠っています。


そして一番奥には見覚えのある箱がありました。


《アニエス》


開けました。

小瓶が並んでいました。


一つではありません。

十二本。


最初の瓶には、

《セヴランの名前》


二本目。

《セヴランの顔》


三本目。

《最初の口づけ》


四本目。

《病室での最後の夜》


アニエスは息ができなくなりました。


「……セヴラン」


名前を読んだ瞬間、胸の空白が痛みました。


箱の底には、一通の紙。

自分の筆跡でした。


《トーヴェさんへ》

《お願いします》

《あの人を思い出すと、向こうへ行けません》

《でも捨てないでください》

《いつか私が、ちゃんと悲しめるようになったら返してください》


その下に何度も書き直した跡。


《忘れたい》


消して。


《忘れたくない》


また消して。

最後には。


《今だけ、忘れさせてください》


*


「あなたは百年前にも、ここへ来ました」


背後でトーヴェが言いました。

アニエスは振り返れませんでした。


「亡くなった直後です」


十六歳。

病室。

セヴランの手。


――置いていかないで。

――ごめんね。


思い出した。


死んだあとも、アニエスは彼から離れられなかった。


世界の端まで来た。

手紙を書いた。


《これからも生きていくセヴランへ》


けれど届かなかった。


「三日後」


トーヴェが言いました。


「彼も亡くなりました」


アニエスの膝から力が抜けました。

あの日、その知らせを聞いた自分は泣かなかった。

泣けなかった。


ただ言った。


――忘れさせてください。


忘れればセヴランのいない場所へ行けると思った。


最初は、最後の夜だけ。

それでも苦しかった。


次に顔。声。名前。


ひとつ忘れるたび、少しだけ楽になった。

けれど完全には楽になれなかった。


「十二回」


トーヴェが言いました。


「あなたは記憶を預けました」


「どうして……十二回も?」


老人は悲しそうに笑いました。


「忘れるたびに、あなたはまた彼を探し始めたからです」


アニエスは泣きました。


記憶を失っても、名前を失っても、自分が死んだことさえ忘れても、胸だけが覚えていた。


誰かがいない。

誰かに会いたい。

誰かへ、言わなければならないことがある。


だから百年ものあいだ何度も、何度も同じ郵便局へ帰ってきた。


*


「返してください」


アニエスは言いました。

トーヴェが尋ねます。


「全部?」


怖かった。

全部思い出せばもう一度、失うことになる。


病室も。

葬儀も。

セヴランが三日後に死んだことも。


それでも。


「全部」


十二本の瓶が開きました。

光が、少女の胸へ帰ってきます。


六歳。

木から二人で落ちた。


十一歳。

財布を一日探した。


十三歳。

一本の傘で、二人とも濡れた。


十五歳。

草原で小指を絡めた。


十六歳。

病室。

最後の夜。


そして自分の葬儀の帰り道、ひとりぶん空けて傘を差し、雨の中で死んだ少年。


アニエスは床へ蹲りました。


「セヴラン」


百年ぶんの悲しみが戻りました。


痛かった。

耐えられないほど。


それでも今度は手放しませんでした。


「セヴラン」


もう一度、名前を呼びます。

忘れれば悲しくない。


けれど悲しくないことと、愛していなかったことは、同じではありません。


「会いたい」


青い扉が開きました。


*


春の草原に少年が立っていました。


「セヴラン」


彼が振り返ります。


「今度は覚えてる?」


アニエスは泣きながら笑いました。


「うん」


「僕が林檎を剥くの上手だったことも?」


「それは記憶を十二回消しても信じない」


セヴランが笑いました。

その声。

百年間、自分が探していたもの。


アニエスは走りました。

途中で一度も止まりませんでした。


「ごめん」


抱きしめながら言いました。


「忘れてた」


セヴランは首を振りました。


「十二回も」


「……知ってたの?」


「待ってたから」


「怒らないの?」


「少し」


「ごめん」


少年は少女の髪へ顔を埋めました。


「でも」


声が震えました。


「十三回目も来てくれてよかった」


アニエスは彼を強く抱きしめました。


「もう忘れない」


「無理だよ。君、昔から忘れっぽいし」


「じゃあ」


少し考えて笑いました。


「忘れるたびに、また探す」


セヴランも笑いました。


「それなら大丈夫だ」


*


翌朝。


世界終端郵便局の保管室から、《アニエス》と書かれた箱が消えていました。


窓辺には一枚の葉書。

春の草原。

二人で一本の傘を差している少年と少女。

雨など降っていないのに。


裏には、こう書かれていました。


《忘れることは、さよならではありませんでした》

《だって私は十二回忘れて》


その下だけ、少し滲んでいます。


《十二回とも、あなたを探したから》


そして別の筆跡。


《十三回目、到着》


トーヴェは葉書を眺め、静かに笑いました。


※


世界の端には、郵便局があります。

そこでは手紙だけでなく、忘れたい記憶も預かっています。


悲しすぎて持っていられない記憶をいつかもう一度、抱きしめられる日まで。


けれど人は不思議なものです。


顔を忘れても。

声を忘れても。

名前さえ忘れても。


愛したという事実だけは、心のどこかに宛先を残す。


だから今日も誰かが世界の端まで歩いてきます。

誰を探しているのかさえ分からないまま。


それでも確かに、会いたい人がいることだけを覚えて。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。