世界の端には郵便局があります
世界の端には、郵便局があります。
そこへ行けば、どんな手紙でも届けてもらえるのだそうです。
死んだ人へも。
生まれなかった人へも。
もう自分を忘れてしまった人へも。
ただし、ひとつだけ。
――宛先には、決して嘘を書いてはいけません。
そしてもうひとつ。
これは、あまり知られていないことですが、世界の端の郵便局では、手紙だけでなく、忘れたい記憶も預かってくれるのです。
*
アニエスが世界の端を目指したのは、十六歳の秋でした。
少なくとも、自分ではそう思っていました。
鞄の中には、一通の手紙。
宛名はありません。
名前だけが、どうしても思い出せないのです。
奇妙なのは、名前以外のことなら断片的に覚えていることでした。
林檎を剥くのが、ひどく下手だった。
雨の日には、自分の右肩だけ濡らして傘を差した。
眠れない夜には、星へでたらめな名前をつけてくれた。
思い出そうとすると、胸が痛みました。
本当に、痛い。傷口を指で押したように。
だからいつも、そこで考えるのをやめました。
――思い出さなくていい。
なぜか心の中で、誰かがそう囁くのです。
それは他人の声ではありませんでした。
自分自身の声に、よく似ていました。
*
道中、不思議なことが何度もありました。
宿屋で日付を書くよう言われたとき、アニエスはペンを止めました。
今年が何年なのか分からなかったのです。
鏡を見ると、ときどき自分の顔がひどく遠く感じました。
食事をしても、味がしない日もありました。
そして雨が降ると、必ず道の右側を空けて歩きました。
誰もいないのに。
「……変なの」
笑って左へ寄る。
しばらくすると、また右側が空いている。
身体だけが誰かと並んで歩いたことを覚えていました。
*
世界の端には、白い崖がありました。
その向こうには海さえありません。
星の浮かぶ深い夜だけが、世界の下まで続いています。
崖の際に、小さな建物がありました。
赤い屋根に青い扉。
金色の郵便受け。
《世界終端郵便局》
アニエスは立ち止まりました。
初めて来たはずなのに、扉の取っ手の傷を知っていました。
右下に三本。
見る前から、そこにあると分かっていたのです。
「……どうして?」
扉を開けました。
ちりん。
鈴が鳴ります。
カウンターには、年老いた郵便局員がいました。
名札には《トーヴェ》。
老人はアニエスを見ても驚きませんでした。
ただ、悲しそうに目を細めました。
「いらっしゃいませ」
少し間を置いて。
「――アニエスさん」
少女は足を止めました。
「どうして、私の名前を?」
トーヴェは答えませんでした。
「手紙を?」
「……はい」
「そうですか」
老人は静かに頷きました。
「今度こそ、届くといいですね」
「今度?」
「……いえ」
トーヴェは微笑みました。
「こちらの話です」
*
手紙を送る料金は、お金ではありませんでした。
「その人について、一番大切な記憶をひとついただきます」
アニエスは妙な既視感を覚えました。
この言葉、前にも聞いた。
そんな気がしました。
「記憶は、どうなるんですか?」
「ここでお預かりします」
「捨てるんじゃなくて?」
トーヴェの指が止まりました。
「ええ」
そして、意味ありげに付け加えました。
「あなたは昔から、捨てることだけは嫌がりましたから」
アニエスは顔を上げました。
「昔から?」
老人はまた答えませんでした。
*
アニエスは目を閉じました。
草原が見えます。
十五歳の夏。
隣には少年。
顔だけが見えません。
「もし僕が先に死んだらどうする?」
「忘れる」
「薄情だな」
「だって、ずっと悲しいの嫌だもの」
「じゃあ僕も忘れる」
「私が先なら?」
「三日で」
「早すぎる!」
二人で笑いました。
やがて少年が言いました。
「……本当は忘れたくないけど」
アニエスも答えました。
「私も」
草の中で、小指だけを絡めました。
胸が締めつけられました。
この記憶を失えば、きっと何か大切なものまで、本当に消えてしまう。
「……嫌」
アニエスは目を開けました。
「別のものにします」
トーヴェが静かに尋ねました。
「なぜです?」
「分からない」
手紙を胸へ抱きました。
「でも、これは前にも失くした気がするから」
老人の目が揺れました。
*
その夜、眠れないアニエスは郵便局を歩きました。
廊下の奥に、小さな扉がありました。
《保管室》
なぜか鍵の場所を知っていました。
受付机の三番目の引き出し。
青い紐の下。
「……どうして知ってるの」
震える手で鍵を開けました。
中には無数の小瓶がありました。
笑い声。
夕焼け。
誰かの名前。
母親の手の温度。
人々が忘れた記憶が、淡い光となって眠っています。
そして一番奥には見覚えのある箱がありました。
《アニエス》
開けました。
小瓶が並んでいました。
一つではありません。
十二本。
最初の瓶には、
《セヴランの名前》
二本目。
《セヴランの顔》
三本目。
《最初の口づけ》
四本目。
《病室での最後の夜》
アニエスは息ができなくなりました。
「……セヴラン」
名前を読んだ瞬間、胸の空白が痛みました。
箱の底には、一通の紙。
自分の筆跡でした。
《トーヴェさんへ》
《お願いします》
《あの人を思い出すと、向こうへ行けません》
《でも捨てないでください》
《いつか私が、ちゃんと悲しめるようになったら返してください》
その下に何度も書き直した跡。
《忘れたい》
消して。
《忘れたくない》
また消して。
最後には。
《今だけ、忘れさせてください》
*
「あなたは百年前にも、ここへ来ました」
背後でトーヴェが言いました。
アニエスは振り返れませんでした。
「亡くなった直後です」
十六歳。
病室。
セヴランの手。
――置いていかないで。
――ごめんね。
思い出した。
死んだあとも、アニエスは彼から離れられなかった。
世界の端まで来た。
手紙を書いた。
《これからも生きていくセヴランへ》
けれど届かなかった。
「三日後」
トーヴェが言いました。
「彼も亡くなりました」
アニエスの膝から力が抜けました。
あの日、その知らせを聞いた自分は泣かなかった。
泣けなかった。
ただ言った。
――忘れさせてください。
忘れればセヴランのいない場所へ行けると思った。
最初は、最後の夜だけ。
それでも苦しかった。
次に顔。声。名前。
ひとつ忘れるたび、少しだけ楽になった。
けれど完全には楽になれなかった。
「十二回」
トーヴェが言いました。
「あなたは記憶を預けました」
「どうして……十二回も?」
老人は悲しそうに笑いました。
「忘れるたびに、あなたはまた彼を探し始めたからです」
アニエスは泣きました。
記憶を失っても、名前を失っても、自分が死んだことさえ忘れても、胸だけが覚えていた。
誰かがいない。
誰かに会いたい。
誰かへ、言わなければならないことがある。
だから百年ものあいだ何度も、何度も同じ郵便局へ帰ってきた。
*
「返してください」
アニエスは言いました。
トーヴェが尋ねます。
「全部?」
怖かった。
全部思い出せばもう一度、失うことになる。
病室も。
葬儀も。
セヴランが三日後に死んだことも。
それでも。
「全部」
十二本の瓶が開きました。
光が、少女の胸へ帰ってきます。
六歳。
木から二人で落ちた。
十一歳。
財布を一日探した。
十三歳。
一本の傘で、二人とも濡れた。
十五歳。
草原で小指を絡めた。
十六歳。
病室。
最後の夜。
そして自分の葬儀の帰り道、ひとりぶん空けて傘を差し、雨の中で死んだ少年。
アニエスは床へ蹲りました。
「セヴラン」
百年ぶんの悲しみが戻りました。
痛かった。
耐えられないほど。
それでも今度は手放しませんでした。
「セヴラン」
もう一度、名前を呼びます。
忘れれば悲しくない。
けれど悲しくないことと、愛していなかったことは、同じではありません。
「会いたい」
青い扉が開きました。
*
春の草原に少年が立っていました。
「セヴラン」
彼が振り返ります。
「今度は覚えてる?」
アニエスは泣きながら笑いました。
「うん」
「僕が林檎を剥くの上手だったことも?」
「それは記憶を十二回消しても信じない」
セヴランが笑いました。
その声。
百年間、自分が探していたもの。
アニエスは走りました。
途中で一度も止まりませんでした。
「ごめん」
抱きしめながら言いました。
「忘れてた」
セヴランは首を振りました。
「十二回も」
「……知ってたの?」
「待ってたから」
「怒らないの?」
「少し」
「ごめん」
少年は少女の髪へ顔を埋めました。
「でも」
声が震えました。
「十三回目も来てくれてよかった」
アニエスは彼を強く抱きしめました。
「もう忘れない」
「無理だよ。君、昔から忘れっぽいし」
「じゃあ」
少し考えて笑いました。
「忘れるたびに、また探す」
セヴランも笑いました。
「それなら大丈夫だ」
*
翌朝。
世界終端郵便局の保管室から、《アニエス》と書かれた箱が消えていました。
窓辺には一枚の葉書。
春の草原。
二人で一本の傘を差している少年と少女。
雨など降っていないのに。
裏には、こう書かれていました。
《忘れることは、さよならではありませんでした》
《だって私は十二回忘れて》
その下だけ、少し滲んでいます。
《十二回とも、あなたを探したから》
そして別の筆跡。
《十三回目、到着》
トーヴェは葉書を眺め、静かに笑いました。
※
世界の端には、郵便局があります。
そこでは手紙だけでなく、忘れたい記憶も預かっています。
悲しすぎて持っていられない記憶をいつかもう一度、抱きしめられる日まで。
けれど人は不思議なものです。
顔を忘れても。
声を忘れても。
名前さえ忘れても。
愛したという事実だけは、心のどこかに宛先を残す。
だから今日も誰かが世界の端まで歩いてきます。
誰を探しているのかさえ分からないまま。
それでも確かに、会いたい人がいることだけを覚えて。




