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眠れる森には姫がいない

眠れる森には、美しい姫がいる。

茨に閉ざされた古城のいちばん高い塔で、百年の眠りについている。

勇敢な者が森を越え、姫に口づければ呪いは解ける。


そんな昔話を、この国の子供なら誰でも知っていました。

ただし最後には、必ずこう付け加えられます。


――けれど、眠れる森へ行ってはいけません。


なぜならあの森には、姫などいないのですから。


*


十七歳のユーディは、その昔話が嫌いでした。

兄のアルノシュが森へ消えたからです。


五年前の春、「姫を見つけてくる」と、兄は十二歳だった妹の頭を撫でました。


「姫を助けたら、何をもらえるの?」


ユーディが尋ねると、兄は笑いました。


「そりゃあ、姫と結婚して、城と宝物をもらうんだろ」


「変なの」


「何が?」


「助けたのに、お礼がいるの?」


アルノシュは笑いました。


「おまえは昔から損する性格だな」


その言葉を、ユーディは長いあいだ覚えていました。


翌朝、兄の寝台は空になっていました。


*


ユーディは昔から、自分のものを誰かに渡してしまう子でした。

冬、市場でひとつだけ買ってもらった蜜菓子を、泣いている子供にあげた。

誕生日にもらった青い毛糸の手袋を、凍えていた旅人へ渡した。

十二歳の冬には、熱を出した兄へ自分の毛布まで掛けました。


「寒くないのか」


「寒いよ」


「じゃあ、なんでくれるんだよ」


ユーディは不思議そうに兄を見ました。


「だって兄さんのほうが必要でしょう?」


アルノシュは呆れた顔をしました。


「いつか本当に、自分まで誰かにやりそうだな」


ユーディは笑いました。


「私なんてもらって、誰が喜ぶの」


五年後。その言葉だけが、兄の予言になりました。


*


十七歳になると、ユーディは眠れる森へ向かいました。


母には言いませんでした。

言えば止められるからです。

ただ食卓に、短い手紙を残しました。


《兄さんを連れて帰ります》


書いてから、一度だけ迷いました。

そして、その下にもう一行。


《私が帰らなくても、兄さんを怒らないで》


なぜそんなことを書いたのか、自分でも分かりませんでした。


紙を伏せて、家を出ました。

朝靄の向こうで、森だけが夜の続きを抱いていました。


*


森は、不自然なほど静かでした。


鳥はいるのに鳴きません。

白い花が咲いているのに、香りがありません。

足元には無数の剣。

折れた槍。

苔に埋もれた盾。


そして、眠る人々。


騎士。

猟師。

まだ幼い少年。

古い時代の服を着た者までいました。


ユーディは、そのひとりに自分の外套を掛けました。


どうせ眠っているのだから必要ない。

そう思って通り過ぎようとして戻ったのです。


「……寒そうだから」


誰にともなく呟きました。

外套を失った肩へ、森の冷気が触れました。


それでも歩きました。

やがて大樹の下で、兄を見つけました。


五年前と同じ姿でした。

十七歳のまま。


「兄さん」


ユーディは駆け寄りました。

頬に触れます。

温かい。


「遅くなって、ごめんね」


その瞬間だけ、兄を連れて帰れれば自分はどうなってもいい、そんな考えがごく自然に胸をよぎりました。


ユーディ自身、それを恐ろしいとは思いませんでした。


*


「起こしてはいけないよ」


声がしました。

花に覆われた老婆が立っていました。

森番でした。


「どうしたら兄を起こせるの?」


「起こせない。まだ姫を待っているから」


老婆は、この森の秘密を語りました。


昔ここに眠ったのは、姫ではありません。

病弱な王子でした。

王子を愛した王妃が魔女へ願ったのです。


――この子を死なせないで。


魔女は王子を眠らせました。

そして目覚める条件をひとつだけ残しました。


《自分より、この者の命を望む者が現れること》


けれど王妃には、それができなかった。

息子には生きてほしい。

けれど自分も生きたい。


それは責められる願いではありませんでした。


だから王子は眠り続けました。

長い年月の中で王子は姫へ変わり、《姫を救った者は幸福になれる》という昔話だけが残ったのです。


「じゃあ、この人たちは?」


「姫を救しに来た者たちさ」


名誉が欲しい。富が欲しい。愛されたい。

姫を助け、その先にある自分の幸福を願った。

森はそれを見抜き、彼らも眠らせました。


「兄さんも?」


老婆は頷きました。

ユーディは兄の顔を見ました。


腹が立ちました。

けれど、それ以上に会いたかった。


「馬鹿」


兄の手を握ります。


「本当に、馬鹿」


五年間、母は玄関の灯りを消さなかった。

父は兄の椅子を捨てなかった。

ユーディは、自分の誕生日のたびに願いました。


贈り物はいらないから今年こそ兄を帰してください。


一度も叶いませんでした。


「連れて帰ります」


「そのためには、王子を目覚めさせなければならない」


「どうすれば?」


老婆はユーディを見つめました。

悲しそうな目でした。


「もう聞いただろう?」


そのときユーディは初めて意味を理解しました。


*


大樹の根の下。

崩れた石室に王子は眠っていました。


金色の髪。

白い頬。

何百年も前の少年。


知らない人でした。

名前すら知りません。


ユーディは、その手を取ることができませんでした。


怖かったのです。

死ぬことが。

消えることが。


母にもう一度会いたかった。

父の焼いた固いパンが食べたかった。

兄と喧嘩したかった。


来年も、再来年も生きたかった。


「……嫌だ」


涙が落ちました。

老婆は何も言いません。


「私だって帰りたい」


それは、生まれて初めて口にした自分のための願いでした。


その瞬間ユーディは、少しだけ安心しました。

自分にもちゃんと、自分を惜しむ心があった。


それでも背後には兄が眠っています。


五年間待っている母がいる。

そして目の前には、何百年も誰かに「生きて」と言われることを待ち続けた、名前も知らない少年がいる。


ユーディは泣きながら笑いました。


「兄さんの言ったとおりだ」


いつか本当に、自分まで誰かにやりそうだな。


「損する性格だなあ、私」


そして王子の手を取りました。

冷たい手でした。

怖くて、指が震えました。

それでも離しませんでした。


「あなたに生きてほしい」


森がざわめきます。


「兄さんにも」


白い花が一枚、落ちました。


「お父さんにも、お母さんにも」


涙で王子の顔が滲みました。

最後の言葉だけは、なかなか言えませんでした。


生きたい。

本当は、とても。


それでもユーディは目を閉じました。


「私よりも」


森中の白い花が、一斉に散りました。


*


アルノシュが目を覚ましたとき、森には朝日が差していました。

五年ぶりに鳥が鳴いていました。

周囲では、何百人もの人々が目覚めています。


「ユーディ?」


なぜその名前を呼んだのか自分でも分かりませんでした。


胸の中に、大きな穴が空いていました。


誰かを探さなければならない。

そんな気がする、けれど。


誰を?


大樹の下には、一人の金髪の少年が座って泣いていました。


何百年もの眠りから目覚めた王子です。

その手には、青い毛糸の手袋がありました。

片方だけ。


アルノシュはそれを見た瞬間、胸が痛みました。


「それ……」


誰のものだっただろう。

思い出せません。


*


家へ帰ると、母はアルノシュを抱きしめました。

父も泣きました。


けれど食卓には、椅子がひとつ多くありました。


「これ、誰の椅子?」


母は首を傾げました。


「さあ」


机の上には一枚の紙。


《兄さんを連れて帰ります》


その下に。


《私が帰らなくても、兄さんを怒らないで》


けれど署名だけがありません。


アルノシュは、その手紙を読んで泣きました。

どうして泣いているのか分かりませんでした。


*


眠れる森は、その春に消えました。


けれど何百年後。

森だった場所には、一面の白い花が咲きました。


その中央に、一人の少女が眠っています。

十七歳のまま、胸の上で両手を組み。

片手には、青い毛糸の手袋をひとつだけ握って。


少女の名前を知る者は、もういません。


ある日村の子供が彼女を見つけました。


「お姫さまだ」


大人たちは笑いました。


「こんなところに姫なんているものか」


やがて新しい昔話が生まれました。


白い花の森には、美しい姫が眠っている。

心から姫を救いたいと願う者が現れれば、いつか目を覚ます。


そうして物語は、また最初へ戻ります。


眠れる森には、美しい姫がいる。


けれど眠れる森には、姫などいません。

そこに眠っているのは蜜菓子をあげたかった子、手袋を渡したかった子、自分の毛布まで兄へ掛けてしまった子。


生きたいと泣きながらそれでも最後には、誰かの明日を自分より先に選んでしまった、名前も残らない、ただのひとりの少女なのです。

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