夕焼けを拾う子ども
夕焼けは、日が沈んだあとに拾えます。
海辺へ行って、波がさらってしまう前に。
硝子瓶へ、そっと。
ただし、町の古い人たちは言いました。
――落ちた夕焼けを、いつまでも取っておいてはいけないよ。
――あれは今日が明日へ行くために、置いていく光なのだから。
*
エニスが初めて夕焼けを拾ったのは、九歳の秋でした。
そのころ妹のマレッタは、一日のほとんどを寝台で過ごしていました。
七歳になったばかりでした。
窓辺には薬瓶が六本。 枕元には読みかけの絵本。
頁のあいだには、春に咲くという青い花の押し絵が挟まれていました。
「春になったら、本物を見に行こう」
エニスが言うと、マレッタは少しだけ黙りました。
「……うん」
それから、笑いました。
「春になったらね」
その言い方がエニスは好きではありませんでした。
まるで春がとても遠い国の話みたいだったからです。
医者は週に二度やってきました。
診察が終わると、いつも母と廊下で小声で話しました。
「あと、どれくらい」
ある日、母の声が聞こえました。
そのあとの言葉は聞き取れませんでした。
エニスが扉を開けると、母は慌てて目元を拭いました。
「何でもないのよ」
大人は、何でもないことでは泣かない。
エニスは知っていました。
けれど、知らないふりをしました。
*
町の西には海がありました。
夕方になると空は燃えるような茜色に染まり、その光が海へ溶けて、波打ち際に薄い欠片となって残ります。
橙。
朱。
淡い桃。
拾い上げると、硝子より柔らかく、花びらより温かい。
けれど夜になると、消えてしまいます。
町の人々は、それを《夕焼けのかけら》と呼びました。
「持って帰れる?」
ある日、マレッタが尋ねました。
その日は具合が悪く、夕方まで起きていられませんでした。
「持って帰るよ」
エニスは胸を張りました。
「いちばん綺麗なのを」
「じゃあ、今日のぶんをお願い」
今日のぶん。
妙な言い方だと思いました。
「明日もあるよ」
エニスが笑うと、マレッタも笑いました。
「そうだね」
けれど、その手は毛布の上でひどく細く、透けるほど白く見えました。
*
その夕方、エニスは海へ走りました。
日が沈むまで待ち、濡れた砂に残った光を拾います。
掌に載せると、ほんのり温かい。
まるで小さな心臓でした。
それを硝子瓶へ入れて持ち帰りました。
「マレッタ」
眠っていた妹の耳元で囁きます。
「今日を持ってきたよ」
蓋を開けました。
部屋いっぱいに夕焼けが広がりました。
白い壁も、薄い毛布も、妹の青白い頬も。
すべてが柔らかな茜色になります。
そのときマレッタの頬に、ほんの少し血の色が戻りました。
「……あったかい」
閉じていた瞼が開きます。
「お兄ちゃん」
エニスは驚きました。
昼には水さえ飲めなかった妹が、身体を起こしたのです。
「綺麗」
マレッタは笑いました。
その夜は珍しく、夕食を半分も食べました。
母は何度も「どうして……」と呟いていました。
翌朝には、また顔色が悪くなっていました。
だからエニスは思いました。
もっと持ってくればいい。
*
それから毎日、夕焼けを拾いました。
夏には葡萄色。
冬には淡い金色。
雨上がりには薄桃色。
「今日はどんな色?」
「林檎を煮たみたいな色」
「昨日は?」
「火をつけた蜂蜜」
マレッタは笑いました。
「変な色」
「本当だって」
夕焼けを見せた夜だけ、妹は元気になりました。
歩ける日もありました。
笑い声が家中に響く日もありました。
けれど朝になると、必ず少し弱っていました。
だからエニスは、もっと拾いました。
一日分では足りないなら二日分。
二日で足りないなら、もっと。
窓辺。
机。
棚。
部屋いっぱいに、沈んだはずの夕日が並びました。
ある晩、母が瓶を見ながら言いました。
「この子は、あと何回夕焼けを見られるのかしら」
「毎日見られるよ」
エニスは答えました。
「僕が持ってくるから」
母は振り返りました。
何かを言おうとして、結局言いませんでした。
ただエニスの髪を撫でました。
その手が震えていたことを、少年は覚えています。
*
ある日、浜辺に老人がいました。
エニスが夕焼けを瓶へ詰めていると、老人は言いました。
「拾いすぎだよ」
「妹にあげるんだ」
「病気なのかい」
「うん。でも、これを見ると元気になる」
老人は、瓶の中で揺れる赤い光を見ました。
その目が、ひどく悲しそうになりました。
「坊や」
「なに?」
「それは命を増やしているんじゃない」
エニスは眉を寄せました。
「じゃあ何?」
老人は答えませんでした。
ただ、沈みかけた太陽を見ながら言いました。
「夕焼けは、夜へ渡すものだよ」
「でも明日、また来る」
「そうだね」
老人は微笑みました。
「明日がある者には」
*
その夜、時計が十一時を過ぎても空は暗くなりませんでした。
西の空には赤い光が残り、太陽が水平線の上で震えていました。
翌日も、その翌日も。
夜は少しずつ遅くなりました。
鳥たちは眠る時刻を失いました。
花は閉じることを忘れました。
星は見えなくなりました。
けれどマレッタだけは、日に日に元気になっていきました。
「お兄ちゃん」
ある夕方、妹は自分の足で玄関まで歩いてきました。
「海へ行ってみたい」
エニスは泣きそうになりました。
ずっと待っていた言葉でした。
二人で手を繋ぎ、浜辺へ向かいました。
けれどそこに夕焼けはありませんでした。
白い太陽が、水平線の上に浮かんでいました。
沈もうとして、沈めずに。
「……苦しそう」
マレッタが言いました。
エニスは家にある何百もの瓶を思いました。
その瞬間、老人の言葉が胸によみがえりました。
――明日がある者には。
ようやく分かりました。
自分は夕焼けを拾っていたのではありません。
一日の終わりを拾っていたのです。
*
老人は言いました。
マレッタの病気が治ったわけではない。
彼女には、もうずっと前から残された時間がほとんどなかった。
けれどエニスが《今日の終わり》を持ち去るたび、今日が終わらなくなった。
だから彼女も終われなかった。
「返したら」
エニスの唇が震えました。
「マレッタはどうなるの?」
老人は静かに目を伏せました。
「終われなかったものが、終わる」
*
その夜、兄妹は瓶を海へ運びました。
たくさん、たくさん。
マレッタも手伝いました。
「ごめん」
エニスは何度も言いました。
「どうしてお兄ちゃんが謝るの?」
「返したくない」
マレッタは俯きました。
「私も」
最後の瓶が残りました。
最初の日の夕焼け。
妹が初めて「綺麗」と笑った色。
エニスはそれを胸へ抱きしめました。
「これだけ残そう」
「お兄ちゃん」
「これだけならいいだろ」
「駄目だよ」
「嫌だ!」
エニスは泣きました。
「まだ何もしてない!」
春の花を見ていない。
市場にも行っていない。
海で泳いだこともない。
来年の誕生日も祝っていない。
「お前、春になったら花を見に行くって言っただろ!」
マレッタの目から、静かに涙が落ちました。
「うん」
「だったら――」
「でもね、お兄ちゃん」
妹は泣きながら笑いました。
「あのとき私、春までは無理だって知ってたの」
エニスは息を止めました。
「お医者さまが言ってるの、聞いちゃったから」
だから、――春になったらね、とあんなふうに笑ったのだ。
「だけど」
マレッタは瓶を胸へ抱きました。
「私、三年ももらったよ」
「違う」
「いっぱい笑った」
「違うよ」
「お兄ちゃんが、毎日持ってきてくれたから」
マレッタは最後の瓶を海へ傾けました。
*
三年間閉じ込められていた夕焼けが、一斉に空へ帰っていきました。
橙。
朱。
金。
桃。
世界中の空が燃えました。
誰も見たことがないほど、美しい夕焼けでした。
やがて太陽が沈みます。
三年ぶりの夜。
星が現れました。
「星って」
マレッタが呟きました。
「こんなにいっぱいあるんだね」
エニスは妹の手を握りました。
少しずつ冷たくなっていました。
「マレッタ」
「なに?」
「明日も見よう」
妹は困ったように笑いました。
そして、昔と同じ言い方で答えました。
「……うん」
少しだけ間を置いて。
「明日になったらね」
それが二人の、最後の嘘でした。
*
翌朝、マレッタは目を覚ましませんでした。
それからエニスは、夕焼けを拾わなくなりました。
どれほど美しい欠片が浜辺へ落ちていてもただ、沈むまで見届けました。
何十年も経ち老人になったエニスは、いつもの浜辺に座っていました。
その日の夕焼けは、昔どこかで見た色でした。
林檎を煮たような赤。
エニスは笑いました。
「綺麗だな」
波の音に混じって、少女の声がした気がしました。
――変な色。
老人は泣きながら笑いました。
「本当だって」
太陽が沈んでいきます。
最後の光が海へ溶けます。
足元には、拾おうと思えば拾えるほど美しい夕焼けの欠片が落ちていました。
けれどエニスは手を伸ばしませんでした。
もう知っていたからです。
夕焼けが美しいのは、残せないから。
今日が愛しいのは、終わるから。
そして明日というものは、今日を手放した者だけが迎えに行けるものだから。
最後の赤が消えました。
エニスは静かに目を閉じました。
「おやすみ、マレッタ」
長い人生で初めて言えました。
少年だったあの日から、ずっと言えなかった言葉でした。
海の向こうで、夜がやさしく降りてきます。
そしてその夜を、エニスはもう怖いとは思いませんでした。




