棺の中で花嫁は眠る
この国では、花嫁は結婚した夜に棺へ入ります。
死ぬためではありません。
夫が死ぬ日まで、眠るためです。
*
フェリシアが花嫁になったのは、十九歳の春でした。
王都じゅうの梨の花が咲き、白い花びらが雪のように石畳を流れていました。
教会には銀の鐘が鳴り響き、フェリシアは真珠を縫い込んだ白いドレスで祭壇を歩きました。
その先に、ヴァレルがいました。
幼いころから一緒だった人。
川へ落ちたフェリシアを助けようとして、自分まで落ち、二人揃って風邪を引いた人。
十五歳の夏、梨の木の下で「いつか結婚してくれる?」と、耳まで赤くしながら尋ねた人。
フェリシアは世界でいちばん彼を愛していました。
だからこそ誓いの口づけを終え、教会の地下へ降りる階段が近づくほど、足が震えました。
地下聖堂には、白い棺が並んでいます。
百も千も。
名前を刻まれたものもあれば、長い年月のなかで文字が摩耗し、誰が眠っているのか分からなくなったものもありました。
そのすべてに、かつて誰かに愛された花嫁が眠っています。
「怖い?」
ヴァレルが尋ねました。
フェリシアは強がって笑いました。
「少しだけ」
「大丈夫」
彼は彼女の手を握りました。
「僕が死んだら、また会える」
それが、この国の結婚でした。
花嫁は婚姻の日に眠りにつく。
老いることなく。 病むことなく。
夫が人生を終えた日に目を覚まし、その亡骸へ最後の口づけをする。
そうして夫婦は《永遠の国》へ旅立つのだと、誰もが幼いころから教えられていました。
「……嫌だな」
フェリシアが呟きました。
「何が?」
「あなたがおじいさんになったところ、見られないのね」
ヴァレルは笑いました。
「酷い顔だと思うよ」
「見たい」
「皺だらけだよ」
「それが見たいの」
声が震えました。
「あなたの髪が白くなるところも。眼鏡が必要になるところも。腰が痛いって文句を言うところも」
笑おうとしたのに、涙が落ちました。
「全部、一緒に見たかった」
ヴァレルは何も言えませんでした。
ただ、彼女の指を強く握りました。
やがて神官が告げます。
「お時間です」
フェリシアは棺へ横たわりました。
白い蓋が降りてきます。
その向こうに見えるヴァレルの顔が、少しずつ細くなっていきました。
「ヴァレル」
「うん」
「おやすみ」
彼は泣きながら笑いました。
「おやすみ、僕の花嫁」
蓋が閉じました。
最後に聞こえたのは、春の鐘でした。
*
フェリシアは夢を見ました。
不思議な夢でした。
夢の中では、ヴァレルの人生が見えました。
二十歳。
ひとりで朝食を食べています。
向かいの椅子には、誰も座っていません。
二十五歳。
仕事から帰った彼が、暗い家へ癖のように言います。
「ただいま」
返事がないことに気づいてから、小さく笑いました。
三十一歳。
市場で梨を二つ買い、しばらく眺めてから、ひとつを籠へ戻しました。
三十八歳。
友人に再婚を勧められます。
「妻がいるから」
ヴァレルは笑って断りました。
四十五歳。
鏡の前で初めて白髪を見つけました。
「フェリシアが見たがってたな」
夢の中でフェリシアは叫びました。
――見てるよ。
――ちゃんと見てる。
けれど声は届きません。
*
最初に異変が起きたのは、ヴァレルが四十八歳のときでした。
結婚記念日。
いつものように地下聖堂を訪れた彼は、棺の横へ腰を下ろしました。
「今年はね」
一年分の出来事を話します。
庭の梨が豊作だったこと。
屋根から雨漏りしたこと。
昔フェリシアが可愛がっていた猫の孫が、今も庭へ遊びに来ること。
話し終え、立ち上がろうとしたとき。
棺の内側から――こつん、と小さな音がしました。
ヴァレルは動きを止めました。
「……フェリシア?」
返事はありません。
神官に尋ねると「棺材が軋んだのでしょう」そう笑われました。
けれど翌年も――こつん。
さらに翌年。今度は二度。
――こつん。こつん。
まるで誰かが、中から返事をしているようでした。
*
五十三歳。
ヴァレルは初めて、眠る花嫁について調べ始めました。
教会の記録には《夫の死と同時に花嫁は目覚め、永遠の国へ旅立つ》そう記されていました。
けれど、奇妙なことに気づきます。
目覚めた花嫁を見た者の記録が、一件もありません。
夫が亡くなれば棺は封印され、そのまま地下深くへ移される。
「なぜ、最後の別れを家族が見届けないのです?」
ヴァレルが尋ねても、神官は答えませんでした。
六十一歳。
古い墓地で、百二十年前に亡くなった男の墓を見つけました。
妻の名も刻まれています。
けれど地下聖堂へ行くとその妻の棺は、まだそこにありました。
――眠ったまま。
「……どういうことだ」
初めて、恐怖を覚えました。
もしかして。
もしかして、フェリシアも。
*
六十六歳。
王宮の古文書庫で、一枚の財産記録を見つけました。
《婚姻により、妻所有の土地を夫家へ移譲》
その日付は、《永遠の婚姻》が始まった年と一致していました。
さらに古い記録には、夫を亡くした妻たちが土地を相続し、商会や農園を継いでいたことが記されています。
ところが制度が始まった翌年からそれらの名前が消えている。
代わりに残ったのは、夫の家名ばかりでした。
ヴァレルは震える手で頁を閉じました。
「まさか」
そこからは、取り憑かれたように調べました。
教会。
王宮。
廃修道院。
焼却された記録の断片。
そして七十三歳の冬。
王宮禁書庫の最奥で、ようやく一冊の本へ辿り着きました。
《第一婚姻制度制定記録》。
そこに《永遠の国》という言葉は、一度もありませんでした。
書かれていたのは、土地、相続、血統、財産。
そして《妻の恒久的休眠》。
ヴァレルは、その場で膝をつきました。
フェリシアは待っている。
自分が死ねば目覚めると信じて。
七十年以上ずっと。
「……ごめん」
誰もいない禁書庫で、老人は泣きました。
「ごめん、フェリシア」
*
七十四歳。
ヴァレルは久しぶりに地下聖堂へ来ました。
杖をつき、ひどく痩せていました。
棺へ手を置きます。
「フェリシア」
長い沈黙。
「君を起こす方法を見つけた」
棺の中で眠り続ける十九歳の少女の指が、ほんのわずかに動きました。
*
その夜。
ヴァレルは禁書を抱えて地下聖堂へ忍び込みました。
「全部、嘘だった」
永遠の国など存在しない。
花嫁は夫の死後に目覚めるのではない。
そもそも――目覚めない。
昔、この国では女性のほうが男性より長命でした。
夫を亡くした妻が財産を相続し、土地を継ぎ、家を守る。
それを嫌った古い王たちが制度を作りました。
《永遠の婚姻》。
愛という言葉で飾り、永遠という夢を与え、花嫁を眠らせた。
棺に眠る無数の花嫁たちは、死者ではありません。
今もずっと、夢を見ながら、生きています。
「僕も信じていた」
ヴァレルは棺へ額をつけました。
「君を愛しているから、眠らせるんだと思っていた」
泣きました。
「愛していたのに」
七十年以上、妻と呼び続けた人。
その人を目覚めさせる方法は、ひとつだけ。
婚姻を捨てること。
愛の証とされた言葉を、自分の口で否定すること。
ヴァレルは息を吸いました。
「フェリシア」
声が震えます。
「君は――」
言えませんでした。
七十年。
彼女が妻だったから、生きてこられました。
誰もいない家へ帰っても、梨をひとつしか買わなくなっても、老いていく自分を鏡で見るたび寂しくても。
妻がいる。
そう思って生きてきた。
それを今、自分で捨てなければならない。
ヴァレルは目を閉じました。
そして告げます。
「君は、僕の妻ではない」
棺に亀裂が入りました。
「僕のものでもない」
白い蓋が軋みます。
「僕の人生のために、眠っている人でもない」
亀裂から、白い光が溢れました。
「だから」
棺が砕けました。
ずっと眠っていた少女が、目を開けました。
十九歳のまま。
「生きてくれ」
*
フェリシアが最初に見たのは、白髪の老人でした。
皺だらけ。
痩せた頬。
震える手。
けれど。
「……ヴァレル?」
老人は泣きました。
「うん」
フェリシアは起き上がりました。
そして、彼の顔へ触れました。
額の皺。
目尻。
真っ白な髪。
ひとつずつ、過ぎた時間を確かめるように。
「見たかった」
泣きながら笑いました。
「ずっと、見たかったの」
ヴァレルも笑いました。
「酷い顔だろう?」
「世界でいちばん綺麗」
その夜。
二人は地下聖堂に並ぶ棺を、一つずつ開けていきました。
百も千も。
二百年前の少女。
三百年前の母親。
歴史から名前さえ消された女たち。
眠りから戻った人々の泣き声が、地下聖堂を満たしました。
それは葬儀ではありませんでした。
長すぎた夜の、終わりでした。
*
ヴァレルは、その春の終わりに亡くなりました。
フェリシアが目覚めてから、四十三日後でした。
最期の日、庭の梨の木の下で、フェリシアは老人の手を握っていました。
白い花びらが二人の肩へ降り積もります。
「ごめん」
ヴァレルが言いました。
「何が?」
「四十三日しか、一緒に生きられなかった」
フェリシアは首を振りました。
「四十三日も、一緒に老いたわ」
「君は老いてないよ」
「昨日より四十三日ぶん、おばあさんよ」
彼は笑いました。
「じゃあ僕は?」
フェリシアは白い髪を撫でました。
「ずっと先輩」
その笑い声は、十五歳の夏と少しも変わりませんでした。
やがて彼の呼吸が、静かになりました。
フェリシアは泣きました。
声を上げて、眠っていた時間、一緒に老いた時間ぶん、愛した人の手を握りながら。
今度こそ眠らずに、ちゃんと別れました。
*
それから、この国では花嫁を棺へ入れなくなりました。
夫婦は一緒に歳を取ります。
喧嘩をして、病気になって、皺が増えて。
ときには愛が終わることさえあります。
それでも春になると、花嫁たちは梨の花を髪に飾ります。
昔、棺の中で眠った少女たちを忘れないために。
フェリシアは八十六歳まで生きました。
亡くなる前日、鏡の中の自分を、長いこと見つめていたそうです。
真っ白な髪。
深い皺。
十九歳だった花嫁の面影は、もうほとんどありません。
フェリシアは、皺だらけの自分の頬へ触れました。
「ヴァレル」
嬉しそうに笑います。
「やっと、追いついたわ」
翌朝、梨の花が満開になりました。
フェリシアは寝台の上で、静かに眠っていました。
今度は、棺の中ではありません。
窓を開けたまま、朝の光を浴びながら。
その手には、一枚の古びた紙が握られていました。
七十年以上前の婚姻証明書。
《ヴァレルとフェリシアを、永遠の夫婦と認める》
その文字には、一本の線が引かれていました。
そして、その下にはヴァレルの震えた文字。
《この人は、私の妻ではない。》
さらに、その下。
フェリシアが目覚めた日に書き足した文字。
《それでも私は、この人を愛しています。》
棺の中で花嫁は眠る。
そんな時代は、もう終わりました。
愛するということは、同じ墓へ入ることではありません。
同じ永遠を夢見ることでもありません。
朝ごとに変わっていく顔を見て、昨日とは少し違う人を、それでも今日も選ぶこと。
白髪を見つけて笑い、増えた皺に過ぎた季節を数え、いつか片方の手が冷たくなったなら、眠ってその瞬間をやり過ごすのではなく、その手を握ったまま、きちんと泣くこと。
そしていつかどちらかが先に眠る、その日まで同じ時間を、生きることなのです。




