死神の娘は、人を殺せない
死神の娘は、人を殺せませんでした。
それは死神として、たいへん困った欠陥でした。
*
シェーナが初めて鎌を与えられたのは、十二歳の冬でした。
月のない夜。 父から渡された鎌は少女には大きすぎて、刃には凍った星のような光が宿っていました。
「名前を呼び、死の糸を切りなさい」
「その人、死ぬの?」
「死ぬ」
シェーナは鎌を握りしめました。
「……嫌」
最初に送るはずだったのは、八十九歳の老婆でした。
枕元では娘と孫が泣いています。
「幸せだったわ」
老婆がそう笑った瞬間、シェーナは鎌を下ろしました。
「できない」
「シェーナ」
「だって、この人を明日も好きな人がいる」
結局、老婆の銀色の糸はひとりでに切れました。
それからも同じでした。
兵士。 老人。 病に伏した母親。
誰の前でも、シェーナは鎌を振れませんでした。
死神たちは囁きました。
――出来損ない。
父だけは何も言いませんでした。
*
十六歳の冬、シェーナはオルフェンという十五歳の少年のもとへ送られました。
生まれつき心臓が弱く、今夜が峠だと言われていました。
窓の外では雪が降っていました。
少年は眠らず、窓辺に座っています。
「見えてるよ」
シェーナは固まりました。
「……私が?」
「大きな鎌を持った女の子なんて、死神以外にいる?」
「いるかもしれない」
「どこに?」
「……知らない」
オルフェンが笑いました。
シェーナは少し腹が立ちました。
死にかけているくせに、妙に楽しそうなのです。
「怖くないの?」
「怖いよ」
少年は窓の外を見ました。
「でも、君も怖そうだから」
シェーナは何も言えなくなりました。
死ぬ人間から心配されたのは、初めてでした。
その夜、二人はたくさん話しました。
オルフェンは海を見たことがありませんでした。
「海って、本当に青い?」
「昼はね」
「夜は?」
「黒い」
「つまらない」
「月が出ると銀色になるよ」
「見たことあるの?」
「死神だから。いろんな場所へ行くもの」
オルフェンは羨ましそうに笑いました。
「いいな」
シェーナは初めて、自分が死神であることを羨ましいと言われました。
「じゃあ」
少年は小指を差し出しました。
「もし朝まで生きてたら、いつか連れていって」
「海へ?」
「うん」
シェーナはその指を見ました。
死神は、人間と約束などしません。
明日を保証できないからです。
けれどそっと、小指を絡めました。
「……約束」
その瞬間、オルフェンの胸から伸びた銀色の糸が揺れました。
細い。
あまりにも細い。
今にも切れそうでした。
「嫌」
シェーナは反射的に糸を掴みました。
掌が焼けました。
死神は命へ触れてはいけない。
それでも離せませんでした。
「まだ駄目」
初めてでした。
誰かの死が嫌なのではなく、この人の明日が見たいと思ったのは。
「約束したでしょう」
シェーナは泣きました。
「だから、まだ死なないで」
すると銀糸が、ほんの少しだけ太くなりました。
*
翌朝、オルフェンは生きていました。
それからシェーナは、夜になるたび彼の窓辺へ通いました。
「死神って暇なの?」
「見回り」
「僕の部屋だけ?」
「……偶然」
「毎晩?」
「うるさい」
オルフェンは笑いました。
春になりました。
彼は少しずつ歩けるようになりました。
シェーナは花の名前を教わりました。
人間が誕生日に贈り物をすることも。
焼きたてのパンの匂いが幸福と呼ばれることも。
誰かを待つ時間が、寂しいだけではないことも。
全部、オルフェンから教わりました。
代わりにシェーナは、死者しか知らない話をしました。
星は死んだ人の魂ではないこと。
死者は夜空へ行くわけではないこと。
それでも人が星を見上げて誰かを思うなら、それは少しだけ本当になること。
「シェーナ」
ある夜、オルフェンが言いました。
「君、前より死神っぽくなくなったね」
「悪口?」
「褒めてる」
「どこが?」
「笑うようになった」
シェーナは頬へ触れました。
自分では気づいていませんでした。
*
そのころ、父は急速に弱っていました。
そして春を目前にした夜に言いました。
「私を送りなさい」
父の胸には銀色ではなく、無数の黒い糸が絡みついていました。
そこでシェーナは初めて真実を知りました。
死神は命を奪っていたのではない。
人間と《死》を結ぶ糸を切り、その死を自らへ引き受けていたのです。
「では、私が今までできなかったのは……」
「お前は死の糸が見えていなかった」
父は微笑みました。
「命ばかり見ていたんだ」
シェーナは息を呑みました。
「それは死神として欠陥なの?」
「いや」
父は首を振りました。
「ごく稀に生まれる」
死ではなく、命へ触れられる者。
「お前は人を殺せないのではない」
父は言いました。
「生きたいと願う命を、こちら側へ繋ぎ止められる」
シェーナはオルフェンを思いました。
あの夜、自分が彼を救ったのだと思っていました。
けれど違う。
――もし朝まで生きてたら。
彼自身が、生きたいと願った。
自分は、その願いを握っただけだったのです。
「だったら、お父さまも!」
父の黒い糸へ手を伸ばしました。
しかし父は止めました。
「私はもう充分に生きた」
「嫌!」
「シェーナ」
「嫌だよ!」
少女は父へ縋りました。
「オルフェンは助けられた! だったら――」
父は娘を抱きしめました。
「だから、お前は知っただろう」
耳元で、静かな声。
「生かすことと、別れを奪うことは違う」
シェーナは泣きました。
その言葉の意味を理解したくありませんでした。
やがて父の身体は、無数の黒い蝶になりました。
最後に一匹だけ残った白い蝶が、少女の頬へ触れました。
*
父を失ったあと、シェーナは三日間、オルフェンのところへ行きませんでした。
四日目に窓辺へ行くと、少年は怒っていました。
「遅い」
「……ごめん」
「死神でも約束くらい守ってよ」
その言葉で、シェーナは泣きました。
オルフェンは慌てました。
「え、僕そんな酷いこと言った?」
「お父さまが死んだ」
少年は黙りました。
慰めの言葉は言いませんでした。
ただ窓を開けました。
「入れば?」
「死神を部屋に入れるの?」
「今さらでしょう」
その夜、シェーナは初めて人間の隣で朝を待ちました。
何も話しませんでした。
それでもオルフェンは眠らず、ずっと隣にいました。
夜明け前。
「シェーナ」
「なに?」
「悲しいときって、どうすればいいか知ってる?」
「知らない」
「僕も知らない」
少しだけ間があって。
「じゃあ、一緒に分からないままでいよう」
シェーナは泣きながら笑いました。
*
春の終わりに二人は海へ行きました。
オルフェンは初めて見る海の前で、しばらく言葉を失っていました。
「本当に青い」
「言ったでしょう」
「夜まで待つ」
「寒いよ」
「約束だから」
二人は日が沈むまで浜辺に座りました。
やがて海は群青色になり、水平線から月が昇りました。
銀色の道が、二人の足元まで伸びました。
「綺麗だ」
オルフェンが囁きます。
「うん」
「生きててよかった」
シェーナは彼を見ました。
それだけの言葉なのに、胸の奥が痛いほど温かくなりました。
「シェーナ」
「なに?」
「僕、いつか死ぬ?」
「……うん」
「そのとき、来てくれる?」
シェーナは頷きました。
「絶対に」
「また助ける?」
少女は答えられませんでした。
オルフェンは笑いました。
「そのときの僕に聞いて」
「え?」
「まだ生きたいって言ったら、手を握って」
月明かりの下、少年はあの冬と同じように小指を差し出しました。
「もう充分って言ったら?」
シェーナが尋ねます。
オルフェンは少し考えました。
「そのときは、一人にしないで」
シェーナは泣きそうになりました。
それでも笑って、小指を絡めました。
「約束」
今度は、死神としてではなく、シェーナとして。
*
波の音がしました。
二人の頭上には、数え切れない星。
誰にも見えないところで、オルフェンの胸から伸びる銀色の糸が、月明かりを受けて揺れていました。
あの冬より、ずっと太くなっていました。
シェーナはもう、その糸を怖いとは思いませんでした。
いつか切れる。
だから握れるうちに、握っていたいと思いました。
死神の娘は、人を殺せません。
これからも、きっと。
けれど彼女は知りました。
死を遠ざけることだけが、命を愛することではない。
「まだ生きたい」と願う手を握ること。
そしていつか、「もういいよ」と微笑むその手を、最後まで離さないこと。
そのどちらもきっと、死を知る者にしかできない愛し方なのです。
「シェーナ」
「なに?」
「来年も海を見よう」
以前の彼女なら、答えられなかったでしょう。
死神は明日の約束をしない。
そう教えられて育ったから。
けれどシェーナは、少年の肩へそっと頭を預けました。
「うん」
波の向こうを、一匹の白い蝶が飛んでいきます。
「来年も」
その言葉を聞いて、オルフェンは笑いました。
そして死神の娘は、生まれて初めて、誰かが死なないことではなく誰かと生きていく未来を、願いました。




