お月さまを食べたのは、私です
お月さまを食べたのは、私です。
だから、夜が暗くなったのは私のせいです。
*
昔、夜空には今よりずっと大きな月がありました。
満月の夜には本が読めるほど明るく、森の湖には銀色の道ができました。
町の人々は月を愛していました。
けれど十二歳のアステラだけは、月が嫌いでした。
「どうして?」
兄のカシアンが尋ねると、少女は窓のカーテンを閉めました。
「見られている気がするから」
「月に?」
「うん」
カシアンは笑いました。
「月に目なんてないよ」
「あるよ」
アステラは小さく答えました。
「いっぱいあるの」
兄は聞こえないふりをしました。
*
その町では、満月になると子供がひとり消えました。
最初は粉屋の娘。
次は靴職人の息子。
その次は、教会の双子の片方。
朝になると寝台だけが残っています。
争った跡も、足跡もありません。
ただ窓だけが開き、枕元に白い粉が落ちていました。
大人たちは言いました。
「月に選ばれたのだ」
そして不思議なことに、誰も悲しみませんでした。
昨日まで我が子だったはずなのに。
「そんな子、いたかしら」
母親でさえ首を傾げるのです。
けれどアステラだけは覚えていました。
消えた子供たちの名前も、声も、笑った顔も、全部。
だから夜になると、忘れないよう紙へ書きました。
一人目。
二人目。
三人目。
紙は少しずつ増えていきました。
カシアンだけがその秘密を知っていました。
「どうして私だけ覚えてるの?」
「分からない」
兄は答えました。
それでも必ず最後に言いました。
「でも僕は、君を忘れないよ」
「絶対?」
「絶対」
その言葉だけが、アステラにとって夜より確かなものでした。
*
十五人目の子供が消えた冬、月は以前より大きくなっていました。
屋根の向こういっぱいに、白い光が浮かんでいます。
アステラには分かっていました。
月は子供を食べている。
そして食べるたび、大きくなっている。
誰かに話しても笑われました。
「月が人を食べるものか」
けれどカシアンだけは笑いませんでした。
「だったら、どうすればいい?」
「分からない」
アステラは震えました。
「でも、このままだと――」
その夜、町中の犬が一斉に吠えました。
窓から白い光が差し込みます。
振り返ると、カシアンの身体が淡く光っていました。
「……兄さん?」
兄の足元から白い粉が零れています。
カシアンはすぐに理解しました。
「僕か」
「嫌」
アステラは兄の腕を掴みました。
「行かないで」
「アステラ」
「絶対忘れないって言った!」
「うん」
身体が透けていきます。
「だったら行かないでよ!」
兄は泣きませんでした。
ただ、いつもと同じように妹の頭を撫でました。
「忘れないよ」
「嘘つき!」
「だから君も」
指先が光へほどけます。
「僕を忘れないで」
消えました。
腕の中から。
最初から存在しなかったように。
*
翌朝。
「カシアンは?」
母は首を傾げました。
「誰?」
父も、隣人も、先生も。
兄の部屋すらありませんでした。
家には最初から、娘がひとりしかいなかったことになっていました。
アステラは泣きませんでした。
泣くより先に、怒りました。
夜になるのを待ちました。
そして町でいちばん高い丘へ登りました。
空には巨大な満月。
「返して」
月は答えません。
「みんな返して!」
白い光だけが降り注ぎます。
そのとき、声がしました。
――アステラ。
兄の声でした。
月の中から。
――来ちゃ駄目だ。
「兄さん!」
月の表面に無数の影が浮かびました。
子供たちでした。
これまで消えた子供たち。
みんな月の中にいる。
アステラは手を伸ばしました。
届くはずなどないのに。
その瞬間、月が落ちてきました。
*
気づけば、掌に白い欠片がありました。
砂糖菓子ほどの大きさ。
甘い匂いがしました。
――食べて。
知らない子供の声。
――食べて。
別の声。
――私たちごと。
「そんなことしたら」
アステラは震えました。
「あなたたちも消えちゃう」
月の中から、兄の声がしました。
――もう消えてるよ。
胸が痛みました。
世界から忘れられた者は、戻れない。
けれど月が残れば、また子供を食べる。
アステラは白い欠片を口へ入れました。
甘かった。
そして少しだけ、塩辛かった。
誰かの涙の味がしました。
ひと口食べるたび、夜空の月が欠けました。
ひと口。
またひと口。
三日月になりました。
細い月になりました。
町の人々が外へ出て叫んでいます。
「月が消える!」
アステラは食べ続けました。
最後のひとかけら。
掌の上で、それは小さく震えていました。
「兄さん」
――なに?
「忘れたくない」
長い沈黙。
それから。
――忘れていいよ。
アステラは泣きました。
初めて泣きました。
「嫌」
――僕は、覚えてるから。
「どこで?」
兄は答えませんでした。
代わりに、最後の欠片がほんの少し温かくなりました。
アステラは目を閉じました。
そして飲み込みました。
*
月が消えました。
世界で初めて、完全な夜が来ました。
人々は怯えました。
けれど翌朝、消えた子供たちの名前が戻っていました。
家々には空の寝台。
写真。
小さな靴。
そして家族は、自分たちが誰を失ったのか思い出しました。
町中から泣き声がしました。
アステラの家にも、兄の部屋が戻っていました。
母は床に座り込みました。
「カシアン……」
父は兄の上着を抱いて泣きました。
アステラは扉の前に立っていました。
「カシアン?」
その名前を口にしてみます。
何も浮かびませんでした。
「誰?」
母が顔を上げました。
「あなたのお兄ちゃんよ」
「私に……兄さんがいたの?」
月を食べた代償でした。
アステラだけが、月の中にいた者をすべて忘れたのです。
*
それから長い年月が過ぎました。
月のない夜が当たり前になりました。
アステラは大人になり、老婆になりました。
それでも、ときどき夜空を見上げると胸が苦しくなりました。
何か大切なものが、あそこにあった気がする。
ある冬の夜、八十歳になったアステラは、丘へ登りました。
昔、月を食べた場所。
もちろん彼女自身はそのことを覚えていません。
空には星だけ。
「どうしてかしら」
老婆は笑いました。
「あなたを見ると、寂しいの」
誰に言ったのか、自分でも分かりませんでした。
そのとき夜空に小さな光が生まれました。
星ではありません。
細い、細い銀色の月。
何十年ぶりかの月でした。
アステラは息を呑みました。
月の中に人影がありました。
少年でした。
顔は見えません。
それなのに涙が出ました。
「……あなた、誰?」
月は答えません。
ただ、優しい光が老婆の頬を照らしました。
その光に触れた瞬間、舌の奥に微かな味が蘇りました。
甘くて、少しだけ塩辛い。
アステラは泣きながら笑いました。
「私、あなたを食べたことがある?」
月の中の少年も、笑ったように見えました。
*
翌朝、丘の上で老婆は静かに眠っていました。
その夜から、空には再び月が昇るようになりました。
けれど昔ほど大きくありません。
人をさらうこともありません。
満ちて、欠けて、消えて、また戻ります。
町では、こんな昔話が残りました。
月が欠けるのは、夜が少しずつ月を食べるから。
そして新月の夜に完全になくなると、どこかの少女が泣きながら月を吐き出して、もう一度空へ返すのだと。
けれど、それは少し違います。
月が欠けるたび、かつて月に食べられた子供たちはひとりずつ夜へ帰っていきます。
そして月が再び満ちるたび、忘れられた名前がひとつずつ誰かの胸へ戻ってくるのです。
だから満月の夜によく目を凝らせば、月のいちばん端に、少女と少年が並んで座っているのが見えることがあります。
少女は隣の少年が誰なのか、まだ思い出せません。
それでも毎晩、同じことを尋ねます。
「あなた、誰?」
少年は笑います。
そして何度でも答えるのです。
「君のお兄ちゃんだよ」
少女は首を傾げます。
「そうなの?」
「うん」
「私、あなたのこと好きだった?」
「すごくね」
少女は少し考えてから、少年の肩へ頭を預けます。
「じゃあ、きっと思い出すね」
少年は答えません。
ただ、妹が忘れてしまったぶんまで覚えているようにそっと、その頭を撫でます。
その夜。
地上から見える月は、ほんの少しだけいつもより丸くなります。




