嘘しか咲かない庭
その庭では、嘘をつくたびに花が咲きました。
だから母が死んだ朝、オルテンシアは言いました。
「悲しくないわ」
すると足元に、一輪の青い花が咲きました。
それが、この庭で最初に咲いた花でした。
*
母の葬儀が終わった日の夕暮れ。
十三歳のオルテンシアは、弟のイーヴェンと二人で古い屋敷へ戻りました。
冬を目前にした庭は荒れ果て、薔薇の枝は黒く枯れ、噴水には落ち葉が沈んでいました。
両親はもういません。
父は三年前に亡くなり、母も今朝、長い病の末に息を引き取りました。
残されたのは姉弟だけでした。
「お姉ちゃん」
九歳のイーヴェンが袖を握ります。
「僕たち、これからどうなるの?」
オルテンシアは弟を抱き寄せました。
本当は怖かった。
食べていけるのか。
屋敷を守れるのか。
たった十三歳の自分に、弟を育てられるのか。
けれど笑いました。
「大丈夫よ」
足元で白い花が咲きました。
二人は黙りました。
雪のように白い、小さな花でした。
「……今、咲いた?」
イーヴェンがしゃがみ込みます。
オルテンシアも花を見つめました。
「偶然よ」
また一輪。
紫色の花が咲きました。
そこで二人は気づきました。
この庭は、嘘をつくと花が咲くのです。
*
最初は面白がりました。
「私は王女さまです」
桃色の花。
「僕は百歳だ」
黄色い花。
「お姉ちゃんなんて嫌い」
赤い花。
オルテンシアは笑って、弟の頬をつまみました。
「それはずいぶん綺麗な嘘ね」
庭は少しずつ華やかになりました。
けれど春が来ても、普通の花は一輪も咲きませんでした。
種を蒔いても、球根を植えても、水をやっても。
本当の言葉からは、何も生まれない。
「この庭、変だね」
イーヴェンが言いました。
オルテンシアは咲き乱れる花々を見渡しました。
「綺麗だからいいじゃない」
その言葉にも花が咲きました。
深い青でした。
*
年月が過ぎました。
姉弟は庭とともに暮らしました。
貧しい生活でした。
それでもオルテンシアは、弟には決して弱音を吐きませんでした。
食べるものが少ない冬。
「私はお腹いっぱい」
白い花。
熱を出した夜。
「全然つらくないわ」
薄紫の花。
弟の学費を払うため、母の指輪を売った日。
「もう要らなかったの」
銀色の花。
庭は年々、美しくなりました。
町の人々は噂しました。
――あの屋敷には、世界でいちばん美しい庭がある。
誰も知りません。
そこに咲く花のひとつひとつが、少女の飲み込んだ言葉であることを。
*
やがてイーヴェンは十八歳になりました。
遠い王都の学校へ進むことが決まりました。
旅立ちの朝。
「お姉ちゃんも一緒に来ない?」
オルテンシアは笑いました。
「私はこの町が好きなの」
黄色い花が咲きました。
「ひとりでも平気?」
「もちろん」
青い花。
「寂しくない?」
「全然」
白い花。
イーヴェンは黙りました。
足元には、姉の言葉の数だけ花が咲いています。
彼はもう、この庭の意味を知っていました。
それでも何も言いませんでした。
ただ姉を抱きしめました。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
その言葉には、花が咲きませんでした。
*
弟がいなくなると、屋敷はひどく静かになりました。
二人分だった食卓。
誰も開けない弟の部屋。
夕暮れになると、オルテンシアは庭へ出ました。
「寂しくない」
花。
「私は幸せ」
花。
「これでよかったの」
花。
言えば言うほど、庭は美しくなりました。
薔薇より赤く、月より白く、夜空より青く。
けれど、その美しさを見る人はもういませんでした。
*
十年後。
イーヴェンが帰ってきました。
立派な青年になっていました。
「姉さん」
玄関でそう呼ばれた瞬間、オルテンシアは笑いました。
「遅かったじゃない」
花は咲きませんでした。
弟は結婚していました。
妻と、小さな娘を連れていました。
「姉さんも一緒に暮らそう」
「嫌よ」
赤い花。
「ここが好きなの」
青い花。
「ひとりが気楽だもの」
白い花。
イーヴェンは泣きそうな顔をしました。
「……姉さん」
「何?」
「一度くらい、本当のことを言ってよ」
風が止まりました。
庭いっぱいの花が、静かに揺れています。
十三歳からずっと、弟を安心させるために、自分を守るために、何百、何千という嘘を咲かせてきました。
オルテンシアは口を開きました。
「私は――」
怖い。
寂しかった。
行かないでほしかった。
母が死んだ日、本当は泣きたかった。
あなたを育てるのが苦しかった。
それでも、あなたがいたから生きてこられた。
言いたいことが、胸の奥に溢れました。
けれど。
「……幸せだったわ」
庭いっぱいに、花が咲きました。
これまでで最も美しい花でした。
透明な花びらを持つ、硝子のような花。
イーヴェンは泣きました。
姉も笑いながら泣きました。
*
その冬、オルテンシアは眠るように亡くなりました。
四十三歳でした。
弟が庭に墓を作りました。
墓石には、ただ名前だけを刻みました。
翌春、不思議なことが起きました。
庭の花が、すべて枯れたのです。
赤も。
青も。
白も。
あれほど美しかった花が、一夜ですべて土へ還りました。
けれど墓のそばに、一輪だけ、小さな花が咲いていました。
見たことのない花でした。
姉がどんな嘘をついたときにも、咲かなかった色。
淡い金色でした。
イーヴェンの娘が尋ねました。
「お父さん、この花は何?」
「分からない」
青年はしゃがみ込みました。
花に触れた瞬間、ずっと忘れていた記憶が蘇りました。
十三歳の姉。
母を亡くした朝。
まだ何も咲いていなかった庭で、弟を抱きしめていた少女。
――大丈夫よ。
そのとき咲いた白い花。
あれが最初の嘘だと思っていました。
けれど、その前に母の寝台のそばで姉が、誰にも聞こえない声で言っていたのです。
「お母さん」
震えながら。
「私がイーヴェンを守るから」
花は咲きませんでした。
あれだけは最初から最後まで、本当だったのです。
イーヴェンは顔を覆いました。
「姉さん……」
墓の前で、初めて子供のように泣きました。
すると金色の花が、もう一輪咲きました。
そしてもう一輪。
嘘しか咲かなかったはずの庭を、淡い金色がゆっくりと満たしていきます。
娘が驚いて尋ねました。
「どうして?」
イーヴェンは涙を拭いました。
そして、ようやく分かりました。
この庭は、嘘しか咲かない庭ではなかったのです。
本当の言葉は花にならない。
誰かの胸に残るから。
けれど、その言葉を覚えている最後の人が涙を流したとき、行き場をなくした真実だけが、花になって帰ってくる。
だから庭には今も、春になると金色の花が咲きます。
それは世界でいちばん遅く咲く花。
ひとりの少女が、三十年間ずっと言えなかった言葉の色。
――寂しかった。
――怖かった。
――それでも、あなたがいてくれて幸せだった。
風が吹くたび、金色の花々は小さく揺れます。
まるで今になってようやく、少女が本当のことを話しているように。




