↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/60

嘘しか咲かない庭

その庭では、嘘をつくたびに花が咲きました。

だから母が死んだ朝、オルテンシアは言いました。


「悲しくないわ」


すると足元に、一輪の青い花が咲きました。

それが、この庭で最初に咲いた花でした。


*


母の葬儀が終わった日の夕暮れ。


十三歳のオルテンシアは、弟のイーヴェンと二人で古い屋敷へ戻りました。


冬を目前にした庭は荒れ果て、薔薇の枝は黒く枯れ、噴水には落ち葉が沈んでいました。


両親はもういません。

父は三年前に亡くなり、母も今朝、長い病の末に息を引き取りました。


残されたのは姉弟だけでした。


「お姉ちゃん」


九歳のイーヴェンが袖を握ります。


「僕たち、これからどうなるの?」


オルテンシアは弟を抱き寄せました。


本当は怖かった。

食べていけるのか。

屋敷を守れるのか。

たった十三歳の自分に、弟を育てられるのか。


けれど笑いました。


「大丈夫よ」


足元で白い花が咲きました。


二人は黙りました。

雪のように白い、小さな花でした。


「……今、咲いた?」


イーヴェンがしゃがみ込みます。

オルテンシアも花を見つめました。


「偶然よ」


また一輪。

紫色の花が咲きました。


そこで二人は気づきました。

この庭は、嘘をつくと花が咲くのです。


*


最初は面白がりました。


「私は王女さまです」


桃色の花。


「僕は百歳だ」


黄色い花。


「お姉ちゃんなんて嫌い」


赤い花。

オルテンシアは笑って、弟の頬をつまみました。


「それはずいぶん綺麗な嘘ね」


庭は少しずつ華やかになりました。

けれど春が来ても、普通の花は一輪も咲きませんでした。

種を蒔いても、球根を植えても、水をやっても。


本当の言葉からは、何も生まれない。


「この庭、変だね」


イーヴェンが言いました。

オルテンシアは咲き乱れる花々を見渡しました。


「綺麗だからいいじゃない」


その言葉にも花が咲きました。

深い青でした。


*


年月が過ぎました。


姉弟は庭とともに暮らしました。

貧しい生活でした。


それでもオルテンシアは、弟には決して弱音を吐きませんでした。


食べるものが少ない冬。


「私はお腹いっぱい」


白い花。


熱を出した夜。


「全然つらくないわ」


薄紫の花。


弟の学費を払うため、母の指輪を売った日。


「もう要らなかったの」


銀色の花。


庭は年々、美しくなりました。

町の人々は噂しました。


――あの屋敷には、世界でいちばん美しい庭がある。


誰も知りません。

そこに咲く花のひとつひとつが、少女の飲み込んだ言葉であることを。


*


やがてイーヴェンは十八歳になりました。


遠い王都の学校へ進むことが決まりました。

旅立ちの朝。


「お姉ちゃんも一緒に来ない?」


オルテンシアは笑いました。


「私はこの町が好きなの」


黄色い花が咲きました。


「ひとりでも平気?」


「もちろん」


青い花。


「寂しくない?」


「全然」


白い花。


イーヴェンは黙りました。

足元には、姉の言葉の数だけ花が咲いています。


彼はもう、この庭の意味を知っていました。


それでも何も言いませんでした。

ただ姉を抱きしめました。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


その言葉には、花が咲きませんでした。


*


弟がいなくなると、屋敷はひどく静かになりました。


二人分だった食卓。

誰も開けない弟の部屋。


夕暮れになると、オルテンシアは庭へ出ました。


「寂しくない」


花。


「私は幸せ」


花。


「これでよかったの」


花。


言えば言うほど、庭は美しくなりました。


薔薇より赤く、月より白く、夜空より青く。

けれど、その美しさを見る人はもういませんでした。


*


十年後。


イーヴェンが帰ってきました。

立派な青年になっていました。


「姉さん」


玄関でそう呼ばれた瞬間、オルテンシアは笑いました。


「遅かったじゃない」


花は咲きませんでした。

弟は結婚していました。

妻と、小さな娘を連れていました。


「姉さんも一緒に暮らそう」


「嫌よ」


赤い花。


「ここが好きなの」


青い花。


「ひとりが気楽だもの」


白い花。


イーヴェンは泣きそうな顔をしました。


「……姉さん」


「何?」


「一度くらい、本当のことを言ってよ」


風が止まりました。

庭いっぱいの花が、静かに揺れています。


十三歳からずっと、弟を安心させるために、自分を守るために、何百、何千という嘘を咲かせてきました。


オルテンシアは口を開きました。


「私は――」


怖い。

寂しかった。

行かないでほしかった。


母が死んだ日、本当は泣きたかった。

あなたを育てるのが苦しかった。


それでも、あなたがいたから生きてこられた。

言いたいことが、胸の奥に溢れました。


けれど。


「……幸せだったわ」


庭いっぱいに、花が咲きました。


これまでで最も美しい花でした。

透明な花びらを持つ、硝子のような花。


イーヴェンは泣きました。

姉も笑いながら泣きました。


*


その冬、オルテンシアは眠るように亡くなりました。

四十三歳でした。


弟が庭に墓を作りました。

墓石には、ただ名前だけを刻みました。


翌春、不思議なことが起きました。

庭の花が、すべて枯れたのです。


赤も。

青も。

白も。


あれほど美しかった花が、一夜ですべて土へ還りました。

けれど墓のそばに、一輪だけ、小さな花が咲いていました。


見たことのない花でした。


姉がどんな嘘をついたときにも、咲かなかった色。

淡い金色でした。


イーヴェンの娘が尋ねました。


「お父さん、この花は何?」


「分からない」


青年はしゃがみ込みました。


花に触れた瞬間、ずっと忘れていた記憶が蘇りました。


十三歳の姉。

母を亡くした朝。

まだ何も咲いていなかった庭で、弟を抱きしめていた少女。


――大丈夫よ。


そのとき咲いた白い花。

あれが最初の嘘だと思っていました。


けれど、その前に母の寝台のそばで姉が、誰にも聞こえない声で言っていたのです。


「お母さん」


震えながら。


「私がイーヴェンを守るから」


花は咲きませんでした。


あれだけは最初から最後まで、本当だったのです。

イーヴェンは顔を覆いました。


「姉さん……」


墓の前で、初めて子供のように泣きました。

すると金色の花が、もう一輪咲きました。


そしてもう一輪。

嘘しか咲かなかったはずの庭を、淡い金色がゆっくりと満たしていきます。


娘が驚いて尋ねました。


「どうして?」


イーヴェンは涙を拭いました。

そして、ようやく分かりました。


この庭は、嘘しか咲かない庭ではなかったのです。


本当の言葉は花にならない。

誰かの胸に残るから。

けれど、その言葉を覚えている最後の人が涙を流したとき、行き場をなくした真実だけが、花になって帰ってくる。


だから庭には今も、春になると金色の花が咲きます。


それは世界でいちばん遅く咲く花。

ひとりの少女が、三十年間ずっと言えなかった言葉の色。


――寂しかった。

――怖かった。

――それでも、あなたがいてくれて幸せだった。


風が吹くたび、金色の花々は小さく揺れます。


まるで今になってようやく、少女が本当のことを話しているように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。