雪だるまは夏を知らない
雪だるまは、夏を知りません。
だから、夏の話をしてはいけません。
それが、北の町に昔から伝わる決まりでした。
*
十二月の朝。
窓を開けると、世界は夜のあいだに真っ白になっていました。
屋根も、道も、裸になった林檎の枝も、みんな柔らかな雪を被っています。
十一歳のセシェルは朝食もそこそこに庭へ飛び出しました。
雪を丸めます。
ひとつ。ふたつ。
頭を載せて、炭で目をつける。
鼻には人参。
首には、自分が去年まで使っていた赤いマフラーを巻きました。
「できた」
少し不格好でした。
右目が高く、左腕は短い。
けれどセシェルには、世界でいちばん立派な雪だるまに見えました。
「名前は……トト」
その瞬間。
雪だるまが瞬きをしました。
「寒い」
セシェルは尻餅をつきました。
「しゃべった!」
「寒いよ」
「雪だるまなのに?」
「雪だるまでも寒いものは寒い」
理不尽でした。
けれど、それからセシェルとトトは友達になりました。
*
トトは何も知りませんでした。
家。
学校。
誕生日。
パンの味。
鳥がどうして空を飛ぶのか。
セシェルは毎日、ひとつずつ教えました。
「春になるとね、花が咲くの」
「花?」
「地面から出てくる綺麗なもの」
「雪より?」
「色があるから、もっと綺麗」
トトは感心しました。
「見たいな」
「春になったら見られるよ」
その日、母はひどく怖い顔をしました。
「セシェル」
「なに?」
「雪だるまに春の先を教えてはいけません」
「どうして?」
「そういう決まりなの」
「変なの」
母は答えませんでした。
ただ庭のトトを見ていました。
まるで、何かを知っているような目でした。
*
冬が深くなるにつれ、トトは世界を知りました。
雪の朝。
星の名前。
焼きたてのパンの匂い。
セシェルが学校で嫌なことがあった日は、黙って話を聞いてくれました。
「人間って大変だね」
「そうよ」
「僕、雪だるまでよかった」
「ずるい」
二人で笑いました。
ある日、トトが尋ねました。
「春の次は?」
セシェルは答えかけて、母の言葉を思い出しました。
「……知らない」
「嘘」
「どうして?」
「セシェルは嘘をつくと、左の眉が上がる」
思わず眉を押さえると、トトは笑いました。
「教えて」
「駄目」
「お願い」
「……夏」
口にした瞬間。
庭の雪が、ほんの少し沈みました。
「夏?」
トトの炭の瞳が輝きました。
「どんな季節?」
セシェルは迷いました。
それでも、話してしまいました。
「空がすごく青くなるの」
青。
「蝉が鳴いて」
蝉。
「川で泳いで、冷たい果物を食べて、夜には蛍が光るの」
「蛍?」
「小さな星みたいな虫」
トトは長いあいだ黙っていました。
やがて「見たい」と言いました。
「夏を見たい」
*
翌朝、トトの右手がありませんでした。
地面に水溜まりができていました。
「トト!」
セシェルは泣きながら雪を足しました。
けれど新しい雪は、すぐに崩れました。
「夏のことを考えたからだ」
トトは言いました。
不思議なくらい穏やかな声でした。
「どういうこと?」
「昨日、夢を見たんだ」
青い空。
眩しい太陽。
蛍。
夢の中で夏へ近づくたび、身体が温かくなった。
母が庭へ出てきました。
そして、とうとう教えてくれました。
この町の雪だるまは、ときどき心を持つ。
けれど心を持った雪だるまには、ひとつだけ守らなければならないことがある。
夏を知らないこと。
知らなければ、春が来ても眠るだけ。
次の冬、同じ雪の中から目を覚ます。
何年でも、何十年でも。
「でも夏を知ったら?」
セシェルの声が震えました。
母は目を伏せました。
「夏を見たくなってしまう」
雪だるまは、自分を溶かす季節へ憧れてしまうのです。
*
春が近づきました。
トトは日に日に小さくなりました。
「忘れて」
セシェルは言いました。
「夏なんて忘れてよ」
「無理だよ」
「どうして!」
「君が、あんなに綺麗に話すから」
セシェルは泣きました。
「話さなきゃよかった」
「僕は聞けてよかった」
「消えちゃうんだよ!」
「うん」
トトは短くなった腕で、セシェルの頬へ触れようとしました。
届きませんでした。
「でもね、セシェル」
炭の瞳が笑いました。
「知らないものを永遠に待つより、一度だけでも知りたいって思えたほうが、僕は嬉しい」
*
三月。最後の雪の日。
トトはもう、セシェルの膝ほどしかありませんでした。
「夏まで持たないね」
「……うん」
「じゃあ」
トトは言いました。
「夏を見せて」
セシェルは泣きながら、自分の部屋から絵を持ってきました。
青い空。
向日葵。
川。
蛍。
幼いころ家族と行った海。
何枚も、何枚もトトの前へ並べました。
「これが夏」
「綺麗だね」
「これは海」
「空が落ちたみたい」
「これは花火」
「星が爆発してる」
セシェルは泣きながら笑いました。
「違うよ」
その日、二人は日が暮れるまで夏の話をしました。
夕焼け。
風鈴。
雨上がりの匂い。
裸足で歩く砂浜の熱さ。
冷たい西瓜。
夜の蛍。
トトは全部聞きました。
そして最後に言いました。
「僕、夏が好きだな」
*
翌朝、庭にトトはいませんでした。
赤いマフラーと、炭が二つ。
それから、小さな水溜まり。
セシェルはそこへ座りました。
「馬鹿」
返事はありません。
「夏なんて知らなければ、また会えたのに」
水面に春の空が映っていました。
*
その年の夏。
セシェルはひとりで川へ行きました。
夕暮れになり、草むらから蛍が飛び始めます。
ひとつ。ふたつ。
小さな光が、夜へ浮かんでいきます。
「トト」
呼んでから、泣きました。
見せたかった。
本物を。
そのとき一匹の蛍がセシェルの指先に止まりました。
冷たい。
夏の虫なのに、不思議なくらい。
雪のように冷たい光でした。
セシェルは息を呑みました。
「……見えた?」
蛍は答えません。
ただ一度、強く光りました。
そして夏の夜へ飛んでいきました。
*
それから毎年、夏になるとセシェルは川へ行きました。
けれど、あんなに冷たい蛍には二度と会えませんでした。
冬になれば雪だるまを作りました。
同じ場所。
同じ赤いマフラー。
炭の目。
人参の鼻。
けれど、どの雪だるまも喋りませんでした。
それでもセシェルは、作るたびに夏の話をしました。
母はもう止めませんでした。
「雪だるまは夏を知らない」
昔の人はそう言いました。
だから教えてはいけない、と。
けれどセシェルは思います。
たぶん、少し違う。
雪だるまは夏を知らない。
だからこそ誰よりも夏を夢見ることができるのです。
たとえその季節が、自分を消してしまうものだとしても。
ずっと生きることと、一度でも行きたい場所を見つけること。
どちらが幸福なのか、セシェルには最後まで分かりませんでした。
ただ、夏の夜に蛍を見るたび思い出します。
――僕、夏が好きだ。
一度も夏を生きられなかった。
世界でいちばん夏を好きだった、雪だるまのことを。




