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あなたの心臓を預かっています

わたしの仕事は、死ぬ人から心臓を預かることです。


※


町の西端。

夕暮れになると海のような霧に沈む坂道の途中に、《心臓預かり所》はありました。


店内には、硝子瓶が千本ほど並んでいます。


赤い心臓。 青白い心臓。 金色に瞬くもの。


それらは透明な液体の中で、眠るように浮かんでいました。


とくん。とくん。

夜になると千の鼓動が重なります。


ユノアは、その音を子守歌に育ちました。

ただ、不思議なことがひとつありました。


店の地下には、ひとつだけ鍵のかかった部屋があったのです。


扉には銀文字で《記憶返却室》と刻まれていました。


「ここでは何をするの?」


幼いころ尋ねると、祖母は決まって答えました。


「忘れたい人が来るところよ」


「何を忘れるの?」


「忘れたいくらい、大切だったものを」


その意味を、ユノアはずっと知りませんでした。


いいえ、知っていたような気もするのです。

けれど思い出そうとすると、胸の奥だけがひどく痛みました。


*


「心臓を預かってほしい」


ヴァレンが店へ来たのは、雪の降る夜でした。


二十四歳。

黒い外套の肩に、粉雪が積もっています。


ユノアは彼を見た瞬間、手にしていたペンを落としました。


「……どうしました?」


青年が尋ねます。


「いえ」


知らない人でした。

そのはずなのになぜか、彼が笑う直前に左の眉だけ少し上がることを、ユノアは知っていました。


「まだ生きている方の心臓は預かれません」


「三日後に死ぬとしても?」


ユノアは顔を上げました。


「魔女に予言されたんだ」


三日後の日没に自分は死ぬ。

彼はまるで、何度も説明したことのある話のように静かに言いました。


「だから、その前に預けたい」


「誰に渡すんです?」


その問いにヴァレンは一瞬だけ、ユノアを見ました。

とても長い時間を越えて、ようやく見つけたものを見るような目でした。


けれどすぐに笑います。


「分からない」


「分からない?」


「名前を忘れたんだ」


顔も、声も、いつ出会ったのかも。

ただ、誰かをひどく愛していたことだけ覚えている。


「変ですね」


ユノアは言いました。


「大切な人なのに」


「そうだね」


ヴァレンは微笑みました。


「人は、大切だからこそ忘れることもあるらしい」


その言葉を聞いた瞬間ユノアの指が震えました。

理由は分かりませんでした。


*


それから三日間、ヴァレンは毎日店へ来ました。

そして奇妙なことが増えていきました。


「珈琲、砂糖二つだよね」


「……どうして知ってるんです?」


「あてずっぽう」


翌日は、壊れていた裏口を迷わず使いました。


「こちらに来たことがあります?」


「ないよ」


「でも」


「こういう古い店って、裏口があるものだろ?」


三日目には、棚のいちばん上にある青いカップを勝手に取りました。

ユノアのお気に入りでした。


「それ」


「あ」


ヴァレンは手を止めました。

初めて見るはずのカップを、懐かしそうに見つめます。


「……ごめん」


その謝り方までユノアは知っている気がしました。


夢を見ました。


雨の中、誰かと手を繋いでいます。

顔は見えません。


――忘れたい。


自分の声がしました。


――この人が死ぬなら、最初から知らなかったことにして。


目を覚ますと、泣いていました。


*


二日目の夜。


「怖くないんですか」


ユノアは尋ねました。


「死ぬの」


ヴァレンは窓の外を見ました。


「怖いよ」


「なら、どうしてそんなに平気そうなの」


しばらく沈黙して。


「一度、もう死んだからかな」


「え?」


「誰かの中で」


ヴァレンは笑いました。


「忘れられるって、そういうことだろ」


ユノアの胸が痛みました。


またです。

彼と話していると、身体だけが何かを思い出そうとする。


頭より先に、心臓だけが。


*


三日目。


夕暮れ。

ヴァレンは来ませんでした。


代わりに店の扉の前へ、小さな硝子瓶が置かれていました。


中には赤い光。


とくん。とくん。


札には彼の筆跡。


《預けます》


そして裏側に、小さく。


《今度は、君が忘れても大丈夫なように》


ユノアは、その文字を長いあいだ見つめました。


今度?

けれどなぜか意味を尋ねる必要がないような気がしました。


瓶を胸へ抱きしめます。

涙が溢れました。


知り合って三日しか経っていない。


それなのに身体のどこかが、三日どころではない別れ方をしていました。


*


それから四十年、ユノアは心臓を守りました。


何百人もの人が訪れました。

けれどヴァレンの心臓は、誰にも反応しません。


ユノアはその瓶だけを、いつも自分の近くへ置きました。


理由を尋ねられると「古い客だから」と答えました。


けれど、ときどき妙なことがありました。


眠っていると、誰かが自分の名前を呼ぶ。


――ユノア。


雨の日には、知らない青年と歩いた記憶が一瞬だけ浮かぶ。

店の地下にある《記憶返却室》の前を通ると、無性に吐き気がしました。


そして扉の鍵穴にはなぜかユノア自身の名前が、小さく刻まれていました。


それでも扉を開けようとは思いませんでした。


思わなかったのではありません。

怖かったのです。

何を怖がっているのかさえ、分からないまま。


*


六十七歳の冬。

ユノアは店を閉じることにしました。


最後の夜に棚からヴァレンの瓶を抱き上げます。


「結局、来なかったね」


その瞬間。

とくん。

心臓が鳴りました。


「……え?」


とくん。

手を離す。

止まる。


触れる。

鳴る。


とくん。とくん。


四十年間。

待っていた人は、来なかったのではありません。


最初からここにいた。


*


ユノアは地下へ走りました。


《記憶返却室》。


震える手で鍵を差し込みます。

なぜ鍵を持っているのか。

それさえ今まで考えたことがありませんでした。


扉が開きました。

中には、無数の空の瓶。


その奥に、一冊の帳簿がありました。


四十四年前。


《ユノア・セルヴェ》

《記憶返却済》

《本人希望により、ヴァレン・アルディに関する記憶をすべて破棄》


呼吸が止まりました。

その下には、本人署名。


間違いなく自分の字でした。


*


思い出しました。


十八歳。

雨の日に出会った。


十九歳。

初めて手を繋いだ。


二十歳。

結婚しようと言われた。


そして二十三歳。

ヴァレンが、三年後に死ぬという予言を受けた。


ユノアは耐えられませんでした。

彼を見るたび、あと三年、あと二年、あと一年。

愛するほど、残り時間が減っていく。


だから逃げました。


「忘れたい」


あの日、この部屋で泣きながら言いました。


「死ぬ人を愛したことなんて、忘れたい」


ヴァレンは扉の向こうにいました。

最後まで何も責めませんでした。


「分かった」


ただ笑いました。


「じゃあ僕は、君が忘れたことを覚えておくよ」


*


六十七歳のユノアは床へ崩れました。


「馬鹿……」


四十四年前の自分に。

それを許した彼に。


そして三日間だけ、初対面のふりをしてくれたヴァレンに。

彼は忘れてなどいなかった。


《名前を忘れた》


あれは嘘だったのです。

心臓を渡したかった相手は、最初から。


「私だった」


瓶を抱きしめました。


「ごめんなさい」


とくん。


「ごめんなさい、ヴァレン」


とくん。


「思い出したよ」


硝子に亀裂が入りました。

赤い光が溢れます。

胸へ吸い込まれていきました。


その向こうに二十四歳のヴァレンが立っていました。


幻でした。


それでも今度は、顔を知っていました。


「遅かったね」


ユノアは泣きながら笑いました。


「四十年よ」


「うん」


「待たせすぎでしょう」


ヴァレンは首を振りました。


「君が持っていてくれた」


彼女の胸を指します。


「だから、なくならなかった」


とくん。

胸の奥で二つの鼓動が重なりました。


*


翌朝、心臓預かり所で、ひとりの老女が眠るように亡くなっていました。


胸には、空になった硝子瓶。


地下の《記憶返却室》は開け放たれていました。


それ以来、この町では、忘れたいほど誰かを愛した人へ、こう教えます。


記憶を捨ててもかまわない。

顔を忘れても。

声を忘れても。

名前さえ、知らないものになってしまっても。


ただ、心臓だけは、捨ててはいけません。


頭が忘れても。

世界が忘れても。

あなたの身体だけが、その人を見つけてしまう夜があるから。


――あなたの心臓を、預かっています。


あなたが忘れた人を、いつかもう一度、愛せる日まで。

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