鳥籠の中に朝がある
その国では、朝を鳥籠に入れて飼っていました。
王宮のいちばん高い塔。
七つの鍵を開け、百三十七段の螺旋階段を上った先に、それはあります。
金色の鳥籠。
中に鳥はいません。
ただ、小さな朝がありました。
淡い水色の空。 綿毛ほどの雲。 まだ眠たそうな太陽。
鳥籠の中だけで、世界は毎朝、夜明けを迎えるのです。
だから国には、朝がありませんでした。
*
ソフィアが《朝守》になったのは、十五歳の冬でした。
仕事は簡単です。
夜明けの時刻になったら塔へ上り、鳥籠を覆う黒布を外す。
すると籠の中で太陽が昇ります。
小鳥の声がします。 どこにもいない鳥の声です。
草露の匂いまでしました。
「綺麗……」
初めて見た日、ソフィアは思わず呟きました。
けれど老いた前任者は笑いませんでした。
「触れてはいけないよ」
「どうして?」
「朝は外へ出たがるからさ」
鳥籠には、王家の紋章が刻まれていました。
その下には、削り取られた古い文字。
ソフィアには最初の一節だけ読めました。
――愛するものを明日へ連れていけぬなら。
その先は、深い傷で消されていました。
*
国の空はいつも夜でした。
星があり、月があり、家々には一日じゅう灯りがともっています。
鐘が鳴れば起きる。 十二回鳴れば食事。 二十四回鳴れば眠る。
朝などなくても、人々は暮らしていました。
むしろこの国では、奇妙なほど長生きする者が多かったのです。
百歳を超えても若々しい老人。 何十年も同じ店に立つ主人。 十年前とほとんど背丈の変わらない子供。
誰もそれを不思議とは思いませんでした。
この国では昔からそうだったからです。
*
十七歳の春、塔の窓から少年が入ってきました。
「こんにちは」
あまりにも普通に言うので、ソフィアは悲鳴を上げるのを忘れました。
「誰!?」
「トーヴェ」
「どうやって入ったの?」
「登った」
「百三十七段あるのよ?」
「外なら段数は関係ない」
理解したくない回答でした。
「帰って」
「嫌だ」
少年は鳥籠を見ました。
「これが朝?」
ソフィアは慌てて前へ立ちます。
「近づかないで」
「綺麗だね」
トーヴェの瞳に、小さな夜明けが映っていました。
その顔を見てソフィアは、なぜか何も言えなくなりました。
*
それからトーヴェは毎日来ました。
二人で鳥籠の前に座りました。
桃色の朝。 雨上がりの朝。 雲ひとつない青い朝。
「外へ出したら、どうなるのかな」
トーヴェが尋ねました。
「駄目よ」
「どうして?」
「国が滅びるって教わったから」
「どうやって?」
ソフィアは口を開き、閉じました。
知らなかったのです。
「誰が決めたんだろうね」
トーヴェが呟きます。
「朝が危険だって」
*
十八歳の誕生日、トーヴェは来ませんでした。
翌日も。 その次の日も。
七日目にソフィアは初めて塔を離れ、彼を探しました。
町外れの小さな家でトーヴェは寝台にいました。
「……見つかった」
笑う顔は、ひどく白くなっていました。
「病気だったの?」
「生まれたときから」
彼の病は、身体が少しずつ眠る病でした。
医師には十八歳まで生きられないと言われていたそうです。
「でも僕、もう十八だ」
トーヴェは笑いました。
「この国は死神まで寝坊するらしい」
ソフィアは笑えませんでした。
「一度でいいから」
少年は永遠の夜が張りついた窓を見ました。
「本物の朝が見たかったな」
*
その夜、ソフィアは王宮の地下書庫へ入りました。
なぜ朝を閉じ込めたのか初めて知りたいと思いました。
最深部で、一冊の古い年代記を見つけました。
《最後の夜の記録》
三百年前、この国には普通に朝がありました。
当時の王には、ひとり娘がいました。
王女は十六歳の冬、治らない病に罹りました。
医師は告げました。
――次の朝日を見ることはないでしょう。
王は娘を愛していました。
妻を早くに亡くし、たったひとり残された家族でした。
だから王は、国中の魔術師を集めました。
娘を治せ。
できなければせめて朝を遅らせろ。
最後に、一人の魔術師が答えました。
《朝を鳥籠へ入れることはできます》
《朝が来なければ、今日も終わりません》
王は命じました。
――ならば閉じ込めよ。
たった一晩。
娘へ別れを告げるための、たった一晩のはずでした。
けれど王女は死にませんでした。
朝が来なければ「明日死ぬ」は訪れない。
病は進まず、花は枯れず、人々はほとんど老いなくなった。
王は鳥籠を開けられなくなりました。
娘を生かすために。
一日。
一年。
十年。
そして王女自身が父へ願いました。
《もう朝を返してください》
王は拒みました。
《おまえが死んでしまう》
《でも、お父さま》
年代記には、王女の最後の言葉が残されていました。
《終わらない今日を、生きているとは呼ばないわ》
それでも王は鳥籠を開けませんでした。
王女はやがて王宮を去り、記録から姿を消しました。
王もまた死ぬことなく、ある夜、忽然と消えました。
けれど鳥籠だけが残りました。
歴代の王たちは恐れました。
三百年分の時間が、一度に国へ戻ってくるのではないか。
朝を放せば、老人は灰になり、建物は崩れ、止めていた病がすべて動き始めるのではないか。
誰にも分からない。
だから王宮は真実を隠しました。
《朝には災いが宿る》
そう教えることにしたのです。
最後の頁には、初代の朝守が書いた一文がありました。
――王が鳥籠へ閉じ込めたものは、朝ではない。
――愛する者を失う、勇気である。
ソフィアは長いあいだ、その文字を見つめていました。
*
その夜、彼女は七つの鍵を開けました。
鳥籠を抱き、塔の屋上へ出ました。
怖かった。
朝を放せば、本当に国が滅びるかもしれない。
けれど閉じ込めたままなら、誰も明日へ行けない。
ソフィアは鳥籠の扉へ手をかけました。
「ごめんなさい」
そして開きました。
最初に出てきたのは、風でした。
春の匂いがしました。
次に、一羽の金色の鳥。
一羽。
十羽。
百羽。
そして最後に光が溢れました。
夜が割れました。
三百年ぶりに東の空が白みます。
屋根が赤く染まる。
星が消える。
人々が家から出てきます。
泣く者。 祈る者。 怯える者。
けれど国は滅びませんでした。
老人は灰にならなかった。
塔も崩れなかった。
ただ、時計が動き始めました。
ちく。たく。
三百年間、誰も聞いたことのないほど大きな音で。
ソフィアは走りました。
トーヴェのもとへ。
*
寝台の少年は目を開けていました。
窓から朝日が差しています。
「綺麗だ」
それが最初の言葉でした。
「トーヴェ」
ソフィアは手を握りました。
「ごめんなさい」
「なんで謝るの」
彼の手から、少しずつ温度が消えていきます。
止まっていた病が動き始めたのです。
「朝を戻してくる」
「駄目」
「でも!」
「ソフィア」
弱い手が、彼女の指を握りました。
「僕は十八年間生きたんじゃない」
少年は朝日を見ました。
「同じ一日を、十八年かけて歩いてただけだったのかもしれない」
鳥が飛んでいました。
初めて見る青空を。
「だから」
トーヴェは微笑みました。
「今日が僕の、初めての明日だ」
涙が止まりませんでした。
「死んじゃうのよ」
「うん」
「怖くないの?」
「怖いよ」
少し笑います。
「でも朝って」
少年は目を細めました。
「こんなに暖かいんだね」
それが最後でした。
*
それから国には、毎日朝が来ました。
人々は老いました。
病気になりました。
花は咲き、枯れました。
別れが生まれました。
けれど子供たちは育つようになりました。
昨日できなかったことが、今日できる。
蕾だった花が、翌朝には開く。
誰かを失った夜のあとにも、容赦なく朝は来る。
人々はようやく知りました。
時間とは、失うことでした。
そして同時に、出会うことでもありました。
*
八十六歳になったソフィアは、窓辺の寝台で最後の朝を迎えました。
傍らには、あの金色の鳥籠があります。
扉はずっと開けたままです。
鳥籠の底には、あの日まで読めなかった古い言葉がありました。
長い年月で傷が薄れ、今では最後まで読めます。
――愛するものを明日へ連れていけぬなら、
――それでも朝を迎えなさい。
ソフィアは皺だらけの指で、その文字を撫でました。
「難しいこと言うのね」
笑いました。
「そんなの、ずっと嫌だったわ」
トーヴェのいない朝を何回も、何十年も迎えました。
それでも、春を見ました。
雨上がりの虹を見ました。
誰かが生まれる朝を。
誰かを見送った翌朝を。
数え切れない明日を生きました。
窓から朝日が差します。
暖かい。
あの日と同じでした。
どこかで少年の声がします。
――朝って、暖かいんだね。
「そうね」
ソフィアは目を閉じました。
「でもあなた、ひとつ間違えていたわ」
微笑みます。
「今日を終わらせないと、明日には会えないのよ」
その朝、ひとりの老女が、朝日の中で静かに息を引き取りました。
開いた鳥籠から、金色の鳥が一羽飛び立ちました。
少し遅れて、どこからともなくもう一羽。
二羽は朝焼けの中で寄り添い、東の空へ消えていきました。
それからも朝は毎日やってきます。
愛する人を奪った翌日にも、昨日を忘れたくない人の窓辺にも、残酷なほど平等に。
それでも人々は、もう朝を鳥籠へ戻そうとはしません。
この国では、子供たちにこう教えるようになったからです。
――朝とは、夜を忘れるために来るものではありません。
――夜を抱いたまま、それでも次の日へ行くために来るものなのです。




