七日間だけ、人間でした
人間になった最初の日、わたしは血を流しました。
転んだのです。
たったそれだけのことで。
石畳に膝を擦りつけ、薄い皮膚が破れ、赤い雫が白い脚を伝いました。
「……痛い」
生まれて初めて口にしたその言葉が、あまりにも嬉しくて、わたしは泣きながら笑いました。
*
それまで、わたしは人形でした。
町の北にある古い玩具店。
硝子窓のいちばん奥で、百二十年間、赤い椅子に座っていました。
陶器の頬。
青い硝子の瞳。
金色の巻き髪。
季節がいくつ過ぎても、わたしは変わりません。
子供たちが生まれ、大人になり、やがて杖をついて店の前を通るようになっても、わたしだけはずっと同じ少女でした。
そんなわたしを毎日見に来る少年がいました。
名前はセイル。
十二歳。
病院から抜け出しては、窓硝子に額をつけて、わたしを眺めるのです。
「君、退屈じゃない?」
もちろん答えられません。
「僕なら無理だな」
セイルは笑いました。
「ずっと同じ場所なんて」
わたしは思いました。
――わたしもよ。
けれど唇は動きません。
春には野花を。
夏には綺麗な貝殻を。
秋には赤い木の実を。
冬には小さな雪兎を。
セイルは硝子窓の向こうへ置いてくれました。
だから百二十年のうち、最後の一年だけは、わたしは退屈ではありませんでした。
*
ある冬の夜、玩具店へ魔女がやってきました。
「人間になりたい?」
わたしの前で尋ねます。
心の中で叫びました。
――なりたい。
「七日間だけなら、してあげる」
七日。あまりに短い時間でした。
けれど人形にとって、その七日は永遠よりずっと魅力的でした。
――お願いします。
魔女は微笑みました。
「では、七日目の日没まで」
額へ指が触れました。
胸の奥で。
とくん。
初めて、何かが鳴りました。
*
一日目。
わたしは転びました。
痛くて、血が出て、それが嬉しくて泣きました。
二日目。
パンを食べました。
「熱い!」
焼きたてのパンで舌を火傷すると、向かいに座ったセイルが腹を抱えて笑いました。
「ゆっくり食べろよ」
「だって、おいしいの!」
味というものが、こんなにも賑やかだとは知りませんでした。
甘い。
苦い。
酸っぱい。
しょっぱい。
人間は毎日、世界を口の中へ入れているのです。
三日目。
雨に濡れました。
「傘!」
セイルが叫びました。
けれどわたしは雨の中で踊りました。
冷たい雫が頬を滑り、髪が重くなるのが楽しい。
「風邪引くぞ!」
「風邪って?」
「苦しいやつ」
「なってみたい!」
「馬鹿!」
セイルは笑いながら、自分も傘を捨てました。
四日目。
本当に風邪を引きました。
「最悪……」
「だから言っただろ」
「人間、もう嫌……」
「三日で飽きるなよ」
額に置かれた濡れ布巾が気持ちよくて。
眠るまで、セイルが手を握っていてくれました。
五日目。
恋をしました。
いつからだったのかは分かりません。
夕暮れの丘でセイルが笑ったとき、胸の奥が痛みました。
転んだときとは違う痛みでした。
「どうした?」
「分からない」
胸を押さえます。
「ここが痛い」
セイルは少し黙りました。
そして、困ったように笑いました。
「僕も」
その意味を尋ねる勇気はありませんでした。
六日目。
セイルと喧嘩をしました。
「人形に戻るな」
突然、彼が言ったからです。
「無理よ」
「逃げればいい」
「魔法からどうやって?」
「知らない!」
セイルは泣いていました。
「せっかく会えたのに」
わたしも泣きました。
「わたしだって戻りたくない!」
初めて怒鳴りました。
怒ると胸が熱くなることも、好きな人に傷つけられると、嫌いな人に傷つけられるよりずっと痛いことも、その日初めて知りました。
*
七日目。
セイルは来ませんでした。
朝。
昼。
夕方。
待っても来ません。
日没まで、あと一時間。
わたしは病院へ走りました。
初めて訪れた病室。
白い寝台。
そこにセイルはいました。
「……来ちゃったか」
顔は雪より白くなっていました。
「どうしたの?」
「ちょっと、疲れただけ」
嘘でした。
わたしは知っていました。
彼が病院から毎日抜け出していたことを。
けれど、なぜ病院にいたのかを考えたことがなかったのです。
「僕さ」
セイルは窓の外を見ました。
「今日で終わりなんだって」
夕日が沈み始めていました。
わたしも今日で終わる。
「同じだね」
わたしが言うと、セイルは笑いました。
「そうだな」
手を握りました。
温かい。
いいえ、少しずつ冷たくなっていました。
「怖い?」
「怖いよ」
初めて、セイルがそう言いました。
だからわたしは強く握りました。
「わたしも」
二人で泣きました。
七日間で、何度泣いたでしょう。
人間はずいぶん泣く生き物でした。
でもそれでいいと思いました。
悲しいから泣ける。
痛いから手を握れる。
失いたくないから、愛せる。
窓の外で、夕日が地平線へ触れました。
「ねえ」
セイルが囁きました。
「人間になれて、よかった?」
わたしは答えました。
「うん」
迷いませんでした。
「七日しかなかったけど?」
「七日もあったもの」
セイルは笑いました。
それが最後でした。
*
夕日が沈みました。
けれどわたしは人形に戻りませんでした。
「どうして?」
背後に魔女がいました。
「約束と違う」
魔女は首を振りました。
「違わないわ」
「七日間だけって」
「ええ」
魔女はセイルを見ました。
「この子があなたにくれたのは、七日間だけだから」
意味が分かりませんでした。
魔女は静かに教えてくれました。
人形を人間にするには、人間の命が必要なのだと。
セイルは知っていました。
自分に残された命が、あと七日しかないことを。
だから願ったのです。
――僕の残りを、この子にあげてください。
「あなたが人間だった七日間は」
魔女は言いました。
「この子の七日間だったの」
息ができませんでした。
胸が痛い。
五日目より、六日目より、ずっと。
「じゃあ……これからは?」
魔女は微笑みました。
「あなたの時間よ」
胸の奥で、とくん。
心臓が鳴りました。
もう借り物ではない。
わたし自身の、最初の一秒でした。
*
それから八十年。
わたしは人間として生きました。
働きました。
恋もしました。
結婚はしませんでした。
子供たちへ人形を作る仕事をしました。
雨の日には、ときどき傘を差さずに歩きました。
焼きたてのパンを見ると、今でも急いで食べて舌を火傷します。
そして九十二歳の冬。
わたしは寝台の上で、静かに最後の夕日を眺めていました。
枕元には、古い人形があります。
金色の巻き髪。
青い硝子の瞳。
昔のわたしに、よく似ています。
夕日が沈みます。
「長かったなあ」
誰かが言いました。
振り返りました。
十二歳の少年がいました。
あの日のまま。
「遅いよ」
セイルが笑っています。
わたしも笑いました。
皺だらけの手を伸ばします。
「七日しか待ってないくせに」
「僕には長かったよ」
指先が触れました。
今度は、ちゃんと温かい手でした。
「ねえ、セイル」
「なに?」
「人間ってね」
最後の息を吐きながら、わたしは笑いました。
「すごく痛かった」
「うん」
「すごく悲しかった」
「うん」
「でもね」
窓の外で、最後の光が消えていきます。
「とても、綺麗だったよ」
その夜。九十二歳の老女が、穏やかに息を引き取りました。
不思議なことに、その顔は笑っていました。
そして枕元に置かれていた古い人形は、翌朝には、どこにもありませんでした。
雪の上には小さな足跡が二人分、町の外へ向かって、並んで続いていました。
百二十年動けなかった少女と、七日間を彼女にあげた少年が。
今度こそ、時間を数えなくてもいい場所へ行くように。




