月葬屋
人がひとり死ぬたび、月もひとつ死ぬ。
だからこの町には、月を葬る仕事がありました。
月葬屋、と呼ばれています。
*
月葬屋がやってくるのは、誰かが亡くなった翌日の夜です。
黒い外套をまとい、銀色の棺を載せた小さな馬車を引いて、音もなく石畳を進みます。
棺は子供ひとり入らないほど小さく、けれど蓋の隙間からは、零れた月光のような淡い光が滲んでいました。
町の人々は、その馬車を見ても声をかけません。
窓を閉め、カーテンを引き、ただ静かに見送ります。
月葬屋に話しかけてはいけない。
ましてや、棺の中を見てはいけない。
十二歳の少女オルテンシアも、そう教えられて育ちました。
けれど弟が死んだ夜だけは、別でした。
*
弟のティルは九歳でした。
冬の終わりに肺を患い、それから一度も寝台を出られなくなりました。
「春になったら、丘へ行こう」
オルテンシアは毎日そう言いました。
町を見下ろす丘には、一本だけ大きな桜があります。
「去年みたいに、お弁当持って」
「卵焼き入れて」
「分かった」
「姉ちゃんの、しょっぱいけど」
「じゃあ自分で作りなさい」
ティルは笑いました。
痩せてしまった頬に、それでも昔と同じ笑窪が浮かびました。
オルテンシアは、その笑顔を見るたびに信じました。
春は来る。
春さえ来れば、この子はきっと元気になる。
けれど春が来る三日前にティルは死にました。
窓の外では、季節に取り残されたような雪が降っていました。
その晩、オルテンシアは弟の寝台に潜り込みました。
まだ微かに残っていた温もりを逃がさないよう、冷えていく毛布を胸へ抱き寄せます。
朝までそうしていました。
それでも最後には、何もかも冷たくなりました。
そして翌日の夜、銀色の鈴が鳴りました。
――月葬屋。
オルテンシアは家を飛び出しました。
*
「待って!」
馬車が止まりました。
月葬屋は若い男でした。
白に近い灰色の髪に、夜を縫い合わせたような黒い外套。
けれどその顔には、若者にも老人にも見える奇妙な静けさがありました。
「弟の月でしょう?」
男は答えません。
「その棺」
オルテンシアは銀色の棺を指差しました。
「ティルの月なんでしょう?」
長い沈黙のあと、月葬屋は頷きました。
「そうだよ」
「見せて」
「できない」
「どうして?」
「見れば、手放せなくなる」
「もう弟を手放した!」
叫んだ声が、眠った町へ響きました。
「身体も焼いた。服も片づけるってお母さんが言ってる。声だって、そのうち忘れちゃうかもしれない」
堪えていた涙が、頬を伝いました。
「だったらせめて、弟の月くらい見たっていいでしょう」
月葬屋は長いあいだ少女を見つめていました。
やがて、小さく息を吐きます。
「一度だけだよ」
棺の蓋が開きました。
中には小さな月がありました。
掌ほどの、真珠色の月。
表面には海のような青い影がゆらゆらと揺れています。
そして月の中に、景色が見えました。
丘。
満開の桜。
その下を駆けている少年。
「姉ちゃん!」
オルテンシアは息を止めました。
ティルでした。
そこには、来なかった春がありました。
十歳のティル。
十四歳。
十八歳。
二十五歳。
背が伸びて、知らない女性と恋をして、結婚して、赤ん坊を抱いて。
やがて髪に白いものが混じっていく。
「これは……?」
「彼が生きたかもしれない時間だ」
月葬屋は言いました。
「人が死ぬとね、その人が迎えるはずだった明日が、ひとつの月になる」
だから葬るのだという。
誰にも見つからない場所へ。
残された者が、その美しさに囚われて、今を生きられなくならないように。
*
「これ、ください」
オルテンシアは月を抱きしめました。
「駄目だ」
「お願い」
「これは君の弟じゃない」
「ティルよ!」
「違う」
月葬屋の声は、どこまでも静かでした。
「これは、君が会いたかったティルだ」
その言葉が、胸のいちばん痛い場所へ刺さりました。
それでも手放せませんでした。
月は温かかったのです。
弟の手と同じくらいに。
「返さない」
月葬屋は奪いませんでした。
ただ、悲しそうに言いました。
「なら、朝まで持っているといい」
*
オルテンシアは月を抱いて家へ帰りました。
一晩中、弟の人生を見ました。
学校を卒業するティル。
初めて恋をするティル。
父親になるティル。
母を看取って泣くティル。
そのどこにも、自分が知っている九歳の弟はいないのに、全部が愛しかった。
やがて年老いたティルが、ひとりで桜の下へ座りました。
「姉ちゃん」
オルテンシアは顔を上げました。
老人が、こちらを見ていました。
「……ティル?」
「卵焼き、やっぱりしょっぱかったな」
涙が溢れました。
「ティル!」
月へ手を伸ばします。
その瞬間、景色が変わりました。
桜の下に、小さな墓がありました。
墓石には《オルテンシア》と刻まれていました。
「……私?」
月葬屋の言葉が蘇ります。
――彼が生きたかもしれない時間。
ならばそこには。
自分が生きたかもしれない時間もある。
誰かを好きになる自分。
大人になる自分。
年老いる自分。
いつか死ぬ自分。
知りたい。
猛烈に、そう思いました。
自分は誰と出会うのか。
どんな人生を送るのか。
幸せなのか、何歳で死ぬのか。
月へ顔を近づけた、そのとき。
「見ないほうがいい」
背後から声がしました。
月葬屋でした。
「どうして?」
「知ってしまえば、その通りに生きようとする」
「幸せならいいじゃない」
「幸せじゃなかったら?」
オルテンシアは何も言えませんでした。
月葬屋は、小さな月を見つめました。
「未来は、知らないから未来でいられるんだよ」
*
東の空が白み始めました。
夜が薄くほどけていきます。
月の中では、年老いたティルが桜を見上げていました。
オルテンシアは月を胸へ抱きました。
「もう一回だけ」
目を閉じます。
「姉ちゃん」
聞こえたのは、九歳の声でした。
「春、行きたかったな」
「……うん」
「でも」
笑う気配。
「姉ちゃんは行って」
オルテンシアの顔が歪みました。
「ひとりで?」
「うん」
「寂しいよ」
返事はありませんでした。
恐る恐る目を開けると、月の中から景色は消えていました。
ただ、美しい光だけが残っています。
オルテンシアは泣きながら、それを月葬屋へ返しました。
「……ちゃんと葬って」
男は両手で受け取りました。
「分かった」
「寂しくないところに」
「うん」
「春が見えるところにして」
月葬屋は、ほんの少しだけ笑いました。
「そうするよ」
*
春、オルテンシアはひとりで丘へ行きました。
桜は満開でした。
空から落ちてくる花びらが、雪によく似ていました。
けれど雪とは違って、触れると温かい。
弁当箱には、卵焼きを二人分。
ひとつ口へ入れます。
「……しょっぱい」
オルテンシアは笑いました。
泣きながら。
空を見上げると、青空の中に白い月が浮かんでいました。
ほんの一瞬、その月の中で、九歳の弟が笑ったような気がしました。
「春、綺麗だよ」
風が吹きました。
返事の代わりに、桜の花びらが一枚、弁当箱の空いた場所へ落ちました。
*
それから長い年月が過ぎました。
町では今も、人が死ぬたび月葬屋がやってきます。
銀色の棺を載せた馬車を引いて。
誰にも訪れなかった明日を、ひとつずつ葬るために。
けれど町の人々は知りません。
月葬屋が、どこへ月を埋めているのか。
墓地にも、森にも、海にもありません。
月葬屋は毎夜、死者の月を抱いて、誰もいない丘へ登ります。
そして空へ放つのです。
ひとつ。
またひとつ。
だから夜空には月がひとつしか見えなくても、本当は数え切れないほどの月が重なっています。
生まれなかった子供。
交わされなかった約束。
届かなかった手。
迎えられなかった春。
言えなかった「ただいま」。
誰にも生きられなかった人生が、幾重にも、幾重にもあの丸い光の中で眠っています。
そして、月葬屋自身にも、ひとつだけ葬れない月がありました。
銀色の馬車のいちばん奥。
名前の書かれていない、小さな棺。
その中では今も、十二歳の少年が満開の桜の下から彼を呼んでいます。
けれど月葬屋は、決して蓋を開けません。
開ければきっと、自分もまた、来なかった明日を愛してしまうから。
だから今夜も誰かの未来を空へ還しながら、男は幾重もの月を見上げます。
「おやすみ」
返事はありません。
それでいいのです。
葬るということは、忘れることではありません。
もう二度と来ない明日を来てほしかったと泣きながら、それでも――美しかったと、空へ還すことなのです。




