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鏡の国にはあなたしかいない

鏡の向こうには、わたしより幸せなわたしが住んでいる。


そう気づいたのは、十三歳の冬でした。


古い屋敷の三階、誰も使わなくなった母の寝室には、天井まで届く大きな姿見があります。

銀の縁には蔦と鳥が彫られ、鏡面は冬の湖のように青白く曇っていました。


母が亡くなってから、父はその部屋へ入ることを禁じました。


けれどある夜、眠れなかったわたしは、裸足のまま階段を上りました。


扉を開けると、月明かりの中に鏡がありました。


鏡の中のわたしは、笑っていました。

わたしは笑っていないのに。


「……誰?」


尋ねると、鏡の少女は唇へ指を当てました。

その背後から、ひとりの少年が現れました。


黒い髪に、淡い金色の瞳。

知らない人でした。


少年は鏡越しに、わたしへ手を差し出しました。


『おいで』


声は聞こえません。

それなのに、不思議と意味だけが胸へ落ちてきました。


『ここなら、寂しくないよ』


*


それから毎晩、わたしは鏡の部屋へ通いました。

少年の名はアシェルといいました。

鏡越しでは声が届かないので、互いに指で文字を書きました。


《今日は何をしたの?》


「本を読んだわ」


《ひとりで?》


「……うん」


父は仕事でほとんど家にいません。


使用人たちは優しかったけれど、母を亡くしてからのわたしを、壊れやすい硝子細工のように扱いました。

けれどアシェルだけは違いました。


《髪、寝癖ついてる》


「嘘」


《右》


慌てて押さえると、彼は声もなく笑います。


腹が立って。でも、嬉しくて。

いつしか朝が来るのが嫌になりました。


鏡の中では、アシェルが待っているから。


*


ある晩、鏡へ触れると指先が沈みました。


水面へ触れたように、銀色の波紋が広がります。

驚いて手を引こうとすると、向こう側からアシェルが掴みました。


温かい手でした。

次の瞬間、身体ごと鏡へ引き込まれました。


目を開けると同じ寝室。

けれど、すべてが左右反対でした。


窓の位置も、扉も、時計の針さえ逆へ進んでいます。


「セシリア」


初めて聞くアシェルの声。

優しい声でした。


「やっと会えた」


抱きしめられました。

誰かにこんなふうに抱きしめられたのは、母が亡くなって以来でした。


だから帰りたくないと思ってしまいました。


*


鏡の国には、誰もいませんでした。


町はあります。

パン屋には焼きたてのパンが並び、噴水には水が流れ、劇場には灯りがともっている。

けれど、人だけがいない。


「どうして?」


「ずっとこうだった」


アシェルは答えました。


「寂しくなかった?」


そう尋ねると、彼は笑いました。


「君を見てたから」


胸が痛くなるほど嬉しい。

誰にも必要とされていないと思っていたわたしを、この人だけはずっと見ていてくれた。


だから毎晩、鏡を越えました。


二人で無人の町を歩きました。

菓子店のケーキを勝手に食べました。

誰もいない舞踏会場で踊りました。


「ずっとここにいたい」


ある夜、そう言うとアシェルは笑いませんでした。


「本当に?」


「あなたがいるもの」


彼の瞳が、悲しそうに揺れました。


「……そっか」


*


その日から、現実の世界がおかしくなりました。


使用人が、わたしを見ても名前を呼ばなくなりました。

父の机に置かれていた家族写真から、わたしの姿だけが薄くなりました。


「お父さま」


呼びかけても、父は振り返りません。

肩へ触れようとした指がすり抜けました。


怖くなって鏡へ走りました。


「アシェル!」


彼は待っていました。


「どういうこと?」


「鏡はね」


彼は静かに言いました。


「同じものを二つ、持てないんだ」


鏡の国へ来るたび、こちらのセシリアが少しずつ本物になる。


その代わり、向こうのセシリアが消える。


「じゃあ、戻れば――」


「もう遅い」


振り返りました。

鏡の向こうで父が寝室へ入ってきました。


そして鏡を見ました。

わたしは必死で叩きました。


「お父さま!」


父は何も聞こえない。

ただ鏡面を見つめ、ぽつりと呟きました。


「……どうして、この部屋に鏡なんてあったんだろう」


そして布を掛けました。

世界が暗くなりました。


*


「あなた、知ってたの?」


アシェルは答えませんでした。


「最初から?」


長い沈黙。やがて口を開きます。


「僕も昔、向こう側にいたんだ」


息が止まりました。


「百年以上前」


彼にも家族がいました。

鏡の中に、ひとりの少女がいました。


寂しかった彼は毎晩会いに来て、やがてこちらへ渡った。

そして世界から忘れられた。


「その女の子は?」


アシェルは目を伏せました。


「僕が完全にこちら側になった日に、消えた」


鏡の国には、本当は誰も住んでいない。

向こうから誰かが来たときだけ他者が存在する。

前にいた者は消える。

ようやく意味が分かりました。


「じゃあ、私が完全にこっちへ来たら」


声が震えます。


「あなたは?」


アシェルは笑いました。

出会った夜と同じ、優しい笑顔でした。


「やっと、いなくなれる」


*


その瞬間、鏡を覆っていた布が向こう側で落ちました。


朝日が差し込みます。

アシェルの指先が透け始めました。


「嫌」


手を掴みます。


「嫌よ」


「セシリア」


「ひとりにしないで!」


アシェルは困ったように笑いました。


「僕も、そう言ったよ」


身体が光へほどけていきます。


「待って!」


最後に彼は、わたしの頬へ触れました。


「だから次の人には、優しくしてあげて」


そして消えました。


*


鏡の国には、わたししかいません。

何年経ったのか分かりません。


誰もいない町を歩き。

誰もいない劇場へ行き。

誰もいない寝室へ戻ります。


鏡の向こうでは、知らない家族が暮らしています。


わたしの父も、もういません。

わたしの名前を覚えている人もいません。


それでも待ちます。


いつか鏡の向こうに、寂しい誰かが現れる日を。


※


そしてある冬の夜。

ひとりの少女が寝室へ入りました。


泣いていました。

昔のわたしと同じくらいの年齢。


少女が鏡を見ます。

目が合いました。

わたしは、笑ってしまいました。


嬉しかったのです。

百年ぶりに、誰かがわたしを見つけてくれたから。


少女の唇が動きました。


「……誰?」


わたしは鏡へ近づきました。

手を伸ばします。


その瞬間、アシェルが最後に見せた、悲しい笑顔を思い出しました。


――次の人には、優しくしてあげて。


だからわたしは鏡の向こうの少女へ、指でゆっくり文字を書きました。


《おいで》


少女が涙を拭いました。


《ここなら》


指が震えます。

それでも最後まで書きました。


《寂しくないよ》


その言葉が優しさなのか、それとも百年前から繰り返されてきた、鏡の国の呪いなのか。


もう、わたしには分かりません。

ただ鏡の中には、少女がひとり。

そしてこちら側にも、少女がひとり。


二人とも同じように泣きながら、自分を見つけてくれるたったひとりを待っていました。

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