冬眠する町
その町では、冬になると、ひとりだけ目を覚まさなくなる。
誰がそうなるのかは、誰にも分からない。
だから初雪の朝、大人たちは子供の寝室をひとつずつ覗いて回る。
白い息を吐いているか。
胸が上下しているか。
名前を呼べば、ちゃんと目を開けるか。
そして無事を確かめると、決まってこう言う。
「よかった。今年はまだ、あなたじゃない」
十二歳のイリスは、その言葉が嫌いだった。
まだ、というところが特に。
まるで、いつかは必ず自分の番が来るみたいだったから。
*
町は、雪に閉ざされた谷の底にあった。
冬になると山々は白く塞がれ、道も川も空との境目さえ曖昧になる。屋根には綿菓子のような雪が積もり、煙突から立つ煙だけが、町にまだ人が暮らしていることを教えていた。
町の中央には古い時計塔がある。
冬のあいだ、その時計は止まる。
そして春になると、また動き始める。
ただし毎年ひとりだけ、時計と一緒には目を覚まさない。
「冬眠しただけよ」
大人たちは言った。
死んだわけではない。
町外れの《眠りの館》へ運ばれ、春を待つのだという。
けれど、春になって帰ってきた人を、イリスは一度も見たことがなかった。
不思議なのは、誰もそれを不思議がらないことだった。
「去年、眠ったのって誰だっけ?」
学校でそう尋ねたことがある。
友人たちは顔を見合わせた。
「去年?」
「誰かいた?」
「……覚えてない」
先生だけが青ざめた。
「イリス。その話はおやめなさい」
それ以来、誰にも尋ねなかった。
けれどイリスは気づいていた。
町の人々は、眠った人間を忘れている。
少しずつ、まるで雪が足跡を消していくように。
*
その冬、イリスは夢を見るようになった。
誰もいない雪原。
遠くにひとりの少年が立っている。
顔は見えない。
けれど少年は毎晩、同じことを言った。
――次は、君だよ。
目覚めるたび、枕元には雪が一粒だけ落ちていた。
窓は閉まっているのに。
十二月の終わりには、もっと奇妙なことが起きた。
母が夕食の皿を二枚しか並べなかったのだ。
「お母さん」
「なあに?」
「私のぶんは?」
母は振り返り、一瞬だけイリスを見た。
その顔にはほんのわずかな戸惑いがあった。
「あら……ごめんなさい」
笑って皿を追加する。
けれどイリスは笑えなかった。
翌朝、玄関に自分の靴がなかった。
その次の日には、学校の机から名前が消えていた。
先生は慌てて書き直した。
「古くなって消えたのね」
けれど、木に彫った名前が自然に消えるはずがない。
イリスはようやく理解し始めた。
冬眠する人間は、眠ってから忘れられるのではない。
眠る前から、少しずつ世界から消えていくのだ。
*
その夜、イリスは《眠りの館》へ向かった。
雪を掻き分け、町外れの森を進む。
館の扉には鍵がかかっていなかった。
中には無数の寝台が並んでいた。
眠っている人々。
老人。
女。
子供。
みんな穏やかな顔をしている。
けれど、その数は町の人口より多いように思えた。
そして最奥の寝台に、ひとりの少年が座っていた。
十四歳くらい。
淡い銀灰色の髪。
雪明かりを映したような瞳。
イリスは息を呑んだ。
「あなた……」
夢の少年だった。
「やっと来た」
少年は笑った。
「僕はシオン」
「冬眠してるんじゃないの?」
「してるよ」
「でも起きてる」
「夢の中ではね」
イリスは周囲を見ました。
「この人たちは、いつ起きるの?」
シオンは答えなかった。
「春になったら?」
沈黙。
「ねえ」
「春なんて来ないよ」
イリスは少年を見た。
「来るよ。毎年来てる」
「町にはね」
シオンは寝台から降りた。
「でも僕たちには来ない」
壁際に、古い帳簿があった。
そこには名前が並んでいた。
《エミール 十一歳》
《クララ 十三歳》
《トーマ 十二歳》
《シオン 十四歳》
その下には長い空白。
そして最後に、薄い文字があった。
《イリス 十二歳》
心臓が止まりそうになった。
「どうして……」
「最初から決まってたから」
この町は、冬を越すために毎年ひとりを眠らせる。
ひとりぶんの春を奪い、その命が持つ時間を町へ与える。
だから雪は融ける。
麦は芽吹く。
子供たちは育つ。
町は、誰かの春を食べて生きている。
「嫌」
イリスは首を振った。
「私は眠らない」
「うん」
「逃げる」
「うん」
シオンは否定しなかった。
ただ、ひどく寂しそうに笑った。
「僕もそう言った」
*
夜明け前、イリスは町を逃げようとした。
けれど橋まで来たところで足を止めた。
雪の向こうに、母がいた。
裸足だった。
寝間着のまま。
「イリス」
名前を呼ばれた。
久しぶりに聞いた気がした。
「どこへ行くの?」
イリスは泣きました。
「お母さん、私のこと覚えてる?」
母は驚いた顔をした。
「何を言ってるの」
「私の好きなものは?」
「林檎のパイ」
「誕生日は?」
「四月十七日」
「私が小さいころ、怖がってたものは?」
母は笑いました。
「雷。鳴るたび私の寝台へ潜り込んできたでしょう」
イリスは母へ抱きつきました。
温かい。
忘れられてなんていない。
まだここにいる。
「帰ろう」
母が言いました。
イリスは頷きかけました。
母の肩越しに町が見えます。
時計塔。
止まった時計。
雪に埋もれた屋根。
そして、ひとつだけ気づきました。
母は今、一度もイリスの顔を見ていなかったと。
「お母さん」
母は微笑んでいる。
けれど視線は、ほんの少しずれていました。
「私、どんな顔してる?」
母の笑顔が止まった。
「……何を言ってるの?」
「目は何色?」
沈黙。
「髪は?」
母の唇が震えた。
「イリス」
「見えてないんだね」
母が泣きました。
その涙を見た瞬間、イリスは悟りました。
もう始まっている。
次は私だ。
世界はすでに、自分を忘れ始めている。
*
イリスは眠りの館へ戻りました。
シオンが待っていました。
「怖い?」
「怖い」
「僕も怖かった」
「眠ったら、もう会えない?」
「分からない」
イリスは隣の寝台へ横になりました。
瞼が重くなります。
「シオン」
「なに?」
「春って、綺麗?」
少年は少し考えました。
「僕は見たことない」
「私も」
二人で笑いました。
「じゃあ」
イリスは目を閉じました。
「いつか一緒に見よう」
シオンは答えませんでした。
けれど眠りへ落ちる直前、誰かが手を握ってくれた気がしました。
*
翌朝、町の時計塔が動き始めました。
雪が融けました。
屋根から雫が落ち、川がほどけ、土の中から小さな緑が顔を出します。
「春だ」
子供たちが笑いました。
ひとりの女が窓を開けました。
なぜか胸がひどく痛みました。
食卓には椅子が三脚あります。
けれど家族は二人だけ。
「……どうして三つあるのかしら」
女は首を傾げました。
それから、一脚を物置へ運びました。
町外れ誰も訪れない《眠りの館》。
そこには二つ並んだ寝台がありました。
少年と少女が眠っています。
少女の手は、少年の手に触れる寸前で止まっていました。
あと少し。ほんの少しだけ届かない。
窓の外では、春の最初の花が咲いていました。
そのとき少女の指が、ほんの少し動きました。
「……シオン」
呼びました。
返事はありません。
「春、綺麗だった?」
風が吹きました。
花びらが一枚、開いた窓から舞い込みます。
少女の頬へ触れました。
「うん」
背後から、声がしました。
イリスは目を開けませんでした。
ただ眠ったまま笑いました。
「そっか」
その年、町には春が来ませんでした。
時計塔の針は動いているのに。
花は咲いているのに。
人々は誰ひとり、それを春だと思い出せませんでした。
なぜなら町が奪っていたのは、眠る者の命ではなかったからです。
その人が迎えるはずだった、春そのものだったのです。
そして眠りの館では、世界から忘れられた少年と少女だけが、誰にも見えない春の中で手を繋いでいました。
今度は、ちゃんと届いていました。




