時計塔の十三時
この町では、時計に十三という数字を書いてはいけません。
一日は二十四時間あるのに、時計の文字盤は十二まで。
十三時など、どこにも存在しない。
それなのに町の古い時計塔は、年に一度だけ――冬至の夜に、十三時を告げます。
真夜中。
十二回の鐘が鳴り終わり、町じゅうの時計が止まったあと。
誰も鳴らしていない鐘が、もう一度だけ響くのです。
――十三。
その音を聞いても、窓を開けてはいけません。
扉を開けてもいけません。
たとえ外から、もう二度と会えないはずの人があなたの名前を呼んでも。
なぜなら十三時に帰ってくるのは、死んだ人ではないからです。
帰ってくるのは、あなたが生きられなかった時間です。
*
十五歳の少女セラは、時計屋の娘でした。
父の工房は時計塔のすぐそばにあり、壁という壁を時計で埋め尽くした、小さな店でした。
かち、こち。
かち、こち。
生まれたときから、セラは無数の秒針に囲まれて育ちました。
けれど父の作る時計は、ひとつだけ妙でした。
文字盤に数字が十三まであるのです。
「どうして十三があるの?」
幼いころ尋ねると、父は決まって笑いました。
「誰にだって、もう一時間あればと思う日があるからさ」
その意味を、セラは十歳で知りました。
母が死んだ日です。
高い熱でした。
医者が帰り、父が泣き、母の手が少しずつ冷たくなっていく傍らで、セラは壁の時計を見ていました。
午後十一時五十九分。
あと一分で今日が終わる。
今日が終わったら、母のいた日は二度と来ない。
だから願いました。
あと一時間だけお母さんといられる時間をください。
けれど時計は十二時を告げました。
母は、その鐘を十二まで聞くことなく亡くなりました。
*
五年後の冬至、父は時計塔の修理へ出かけました。
「今夜は窓を閉めておけ」
出かけ際、珍しく厳しい声で言いました。
「十三回目が鳴っても、絶対に外へ出るな」
セラは笑いました。
「子供じゃないんだから」
父は笑いませんでした。
その夜、雪が降りました。
町を音もなく覆う、羽毛のような雪でした。
やがて真夜中、時計塔が鳴ります。
一回。
二回。
三回。
セラは暖炉のそばで本を読んでいました。
十。
十一。
十二。
静寂。そして。
――十三。
本が、膝から落ちました。
窓の外を見ると雪が空中で止まっていました。
炎も揺れていません。
壁の時計も、すべて止まっています。
ただ一つ、十三まで数字のある時計だけが動いていました。
針は《13》を指していました。
そのとき店の扉が開きました。
「ただいま」
セラは息を止めました。
母が立っていました。
*
三十五歳のまま。
栗色の髪、青いワンピース。
死んだ日の、痩せた母ではありません。
まだ病気になる前、セラがいちばん好きだったころの母でした。
「……お母さん?」
「なあに?」
母は、まるで昨日も会ったように笑いました。
セラは駆け寄りました。
抱きしめます。
温かい。
懐かしい石鹸の匂い。
「お母さん……!」
五年間、泣かないようにしていた涙が一度に溢れました。
母は何も尋ねませんでした。
ただ、幼いころと同じように背中を撫でてくれました。
「大きくなったわね」
「五年も経ったんだよ」
「そう」
「会いたかった」
「私もよ」
二人で紅茶を淹れました。
母はセラの学校の話を聞きました。
好きな男の子ができたこと。
父が焦がしたシチューのこと。
母の薔薇を、今年初めて自分で咲かせたこと。
くだらない話ばかりでした。
それがどうしようもなく幸せでした。
やがて母が言いました。
「そろそろ帰らなくちゃ」
セラの笑顔が消えました。
「どこへ?」
母は時計を見ました。
針は十三時五十分。
「十四時はないの」
*
「嫌」
セラは母の手を握りました。
「あと少しだけ」
「セラ」
「五年待ったのよ!」
母は困ったように笑いました。
その顔まで懐かしくて、余計に苦しくなりました。
「じゃあ、一緒に来る?」
セラは顔を上げました。
母の向こう、開いた扉の外に見知らぬ町がありました。
春でした。
雪などありません。
花屋の前で母が笑っています。
隣には父。
そして、その間に十歳のセラがいました。
三人で手を繋いでいました。
「……なに、あれ」
「あなたが持てなかった時間」
母が答えました。
十三時。
それは死者の時間ではありません。
この世界で選ばれなかった時間。
母が病気にならなかった日。
父が別の道を選んだ日。
告白できなかった恋。
生まれなかった子供。
言えなかった「ごめんなさい」。
世界が選ばなかった無数の《もしも》が、ひっそり積もっている場所。
それが十三時でした。
「行けば」
セラは尋ねました。
「ずっと三人でいられる?」
「ええ」
母は微笑みました。
「でも、こちらのあなたはいなくなる」
父の顔が浮かびました。
明日の朝、娘のいない家。
一人分だけ余った朝食。
呼んでも返事のない二階。
そして壁には、十三まである時計だけが残る。
セラは母の手を握ったまま、泣きました。
行きたい。
五年間、何度夢見たでしょう。
十歳のあの日、あと一時間だけと願った。
その一時間が今目の前にある。
けれどセラは、ゆっくりと母の手を離しました。
「……行かない」
母は微笑みました。
悲しそうではありませんでした。
どこか、安心したような笑顔でした。
「そう言うと思った」
*
十三時五十九分。
母の身体が透け始めました。
「お母さん」
「なあに?」
「私、忘れないから」
「忘れていいのよ」
「嫌」
母は笑いました。
「じゃあ、ときどき忘れなさい」
「どういうこと?」
「忘れて笑える日があって、思い出して泣く日がある。それでいいの」
セラは泣きながら首を振りました。
母は、そんな娘の頬を撫でました。
「セラ」
「なに?」
「あなたには、十三時なんてなくても大丈夫」
その瞬間鐘が鳴りました。
一回。
午前一時の鐘。
世界が動き始めます。
止まっていた雪が、一斉に降り始めました。
炎が揺れました。
母の指が、セラの頬からほどけていきます。
「待って」
もう一度、手を伸ばしました。
届きませんでした。
最後に母は笑いました。
「今度は、あなたの明日を生きて」
そして消えました。
*
翌朝、父が帰ってきました。
セラを見るなりすべてを悟ったようでした。
「十三時を見たのか」
セラは頷きました。
父は黙って、十三まで数字のある時計を壁から外しました。
裏蓋を開きます。
そこには、小さな文字が刻まれていました。
《もう一時間だけ、三人で。》
母の字でした。
セラは息を呑みました。
「これ……」
父は目を伏せました。
「その時計を作ったのは、父さんじゃない」
母もまた、もう一時間を願った人だったのです。
*
それから長い年月が流れました。
セラは父と同じ時計職人になりました。
彼女の作る時計には、どれも十三の数字があります。
客は決まって不思議そうに尋ねました。
「どうして十三まであるんです?」
若いころのセラは答えました。
「誰にだって、もう一時間あればと思う日がありますから」
けれど歳を重ねるにつれ、その答えは少しずつ変わりました。
父を見送った年。
初恋の人と別れた年。
娘が遠い町へ嫁いだ年。
友人の葬儀から帰った夜。
人生には何度も、あと一時間あれば。あの日へ帰れたなら。
そう願う夜がありました。
それでもセラは十三時へ行きませんでした。
十二までの時間を、生き続けました。
そして八十七歳の冬至。
老いたセラは一人、時計店の窓辺に座っていました。
外では雪が降っています。
机には三人分の紅茶を並べました。
十二回の鐘。
静寂。やがて。
――十三。
世界から音が消えました。
雪が止まりました。
向かいの椅子に、母が座っていました。
その隣には若い父。
二人とも、セラの記憶よりずっと若い。
母が笑います。
「ずいぶん遅かったわね」
セラも笑いました。
「七十二年も待たせたものね」
「こちらへ来る?」
昔と同じ問いでした。
セラは窓の外を見ました。
そこには彼女が生きた、十二までしかない世界があります。
悲しいこともありました。
失ったものも数え切れません。
叶わなかった願いも。
言えなかった言葉も。
それでも。
あの夜、母の手を離したからこそ出会えた人たちがいました。
生きられた朝がありました。
愛せた人がいました。
セラは微笑みました。
「ううん」
そして、十三時の向こうにいる両親へ言いました。
「もう一時間はいらない」
母の瞳から涙が落ちました。
父は笑いました。
そのとき、十三まであった時計から《13》の数字が静かに消えました。
翌朝、時計店の椅子で、セラは眠るように亡くなっていました。
顔は微笑んでいました。
机には冷めた紅茶が三つ。
けれど不思議なことに、そのうち二つは半分まで減っていたといいます。
それ以来、町の時計塔が十三回鳴ることは、二度とありませんでした。
古い言い伝えだけが残りました。
――誰にだって、もう一時間あればと思う日がある。
けれど本当は、人が最後に欲しくなるのは、失った昨日をやり直す一時間ではないのかもしれません。
もう会えない人を愛したまま。
選ばなかった人生を胸に残したまま。
それでも次の鐘を待つための、一時間。
時計塔にはもう十三時はありません。
だから今日も、十二の次には一が来ます。
失った時間を取り戻すためではなく、残された時間を生きるために。




