↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/60

この子を人間にしてください

森の奥に、願いを叶える泉がありました。


金貨も宝石もいりません。

ただ、いちばん大切なものをひとつ差し出せば、どんな願いでも叶えてくれる。


そんな言い伝えでした。


十歳の少女エルナが泉を訪れたのは、春の終わりでした。


腕には、小さな狐を抱いていました。


雪のように白い毛。 右耳だけが薄い灰色。 青い硝子玉のような瞳。

名前は、ルゥ。


三年前、森で罠にかかっていたところをエルナが助けました。


それ以来、ずっと一緒でした。


眠るときも、木苺を摘みに行くときも、母に叱られて家を飛び出したときも。


「ルゥだけだね。ずっと私の味方なの」


そう言えば、ルゥは決まってエルナの頬を舐めました。


けれど、エルナにはひとつだけ寂しいことがありました。

ルゥと話ができないことです。


「今日ね、学校で嫌なことがあったの」


ルゥは耳を傾けます。


「どう思う?」


尻尾が揺れます。


「私のこと、好き?」


ルゥは頬を舐めます。

それでもエルナは、ときどき思いました。


この子が人間だったら。


一緒に学校へ行ける。

手を繋げる。

いつか大人になっても、ずっと隣にいられる。


だから泉の前で、エルナは願いました。


「この子を、人間にしてください」


水面が淡く光りました。


――代わりに、何をくださいますか。


泉の底から声がしました。


エルナは考えました。

金貨なんて持っていません。

宝石もありません。


「私のいちばん大切なものなら、なんでも」


水面が揺れました。


――いただきました。


「え?」


次の瞬間、眩しい光がルゥを包みました。


*


光が消えたあと、泉のほとりにひとりの少年が倒れていました。


白い髪。 右側だけ灰色の一房。

そして青い瞳。


「……ルゥ?」


少年が目を開きました。

エルナを見つめます。


やがて初めて使う唇を、不器用に動かしました。


「え……る、な」


少女の目から涙が溢れました。


「喋った!」


抱きつきました。


「ルゥ!」


少年は戸惑いながら、それでも昔と同じようにエルナの頬へ顔を寄せました。

そして笑いました。


「エルナ」


それからの日々は、夢のようでした。


ルゥは何でもすぐに覚えました。


スプーンの使い方。

文字の読み方。

靴紐の結び方。

笑うこと。

怒ること。

そして、手を繋ぐこと。


「人間って、不思議」


ある夏の夕暮れ、ルゥが言いました。

二人は丘の上に寝転び、茜色の空を見ていました。


「何が?」


「嬉しいと、胸が痛い」


エルナは笑いました。


「それ、変なの」


「エルナといると、よくなる」


「病気じゃない?」


「じゃあ、ずっと病気でいい」


エルナは笑いました。

その意味を知ったのは、ずっとあとでした。


*


十年が過ぎました。

二人は二十歳になりました。


ルゥは背が高くなり、エルナよりずっと大きな手をしていました。


それでも雪が降ると、無意識に森へ顔を向けます。

眠いときには身体を丸めます。

エルナが泣けば、昔と変わらず頬へ触れます。


「ねえ、ルゥ」


「なに?」


「人間になって、よかった?」


ルゥは少し考えました。


「うん」


「即答じゃないのね」


「人間は面倒だから」


「ひどい」


ルゥは笑って、それからエルナの手を取りました。


「でも、これができる」


指と指を絡めます。


「狐だったころは、できなかった」


エルナは、その手を強く握り返しました。


春になったら結婚しよう。

二人は約束しました。


けれど、その春は来ませんでした。


*


冬の終わりにルゥは倒れました。


医者にも原因が分かりませんでした。

身体は健康なのに、少しずつ薄くなっていくのです。


最初は指先。

次に髪。


やがて朝日の中では、向こう側が透けて見えるほどになりました。


エルナはルゥとともに、森を走りました。

あの泉へ。


「戻して!」


水面へ叫びました。


「ルゥを戻して!」


泉は静かでした。


「何でもやるから!」


そのとき。


――すでに、いただいています。


声がしました。

エルナは息を止めました。


「……何を?」


――あの日、少女が差し出したものを。


エルナは思い出しました。

十歳の自分。


《私のいちばん大切なものなら、なんでも》


「何を取ったの?」


泉は答えました。


――この子を。


エルナの呼吸が止まりました。

ルゥも動きません。


――あなたのいちばん大切なものは、最初からこの子でした。


だから泉は願いを叶えた。

狐を人間にしたその代価として、エルナから、ルゥを奪った。


「でも……」


エルナは震える声で言いました。


「ルゥは、ここにいる」


――いいえ。


泉が静かに波打ちました。


――借りていただけです。


十年間、人間として生きる時間を。

いつか彼を完全に失う、その日までを。


*


「嫌」


エルナはルゥの服を掴みました。


「返さない」


身体がさらに透けていきます。


「この子は私の……」


言葉が止まりました。

ルゥが泣いていたからです。

狐だったころには、できなかったこと。

人間になって覚えたこと。


涙。


「エルナ」


ルゥは笑いました。


「僕、人間になってよかったよ」


「やめて」


「君の名前を呼べた」


「やめてよ」


「手を繋げた」


「ルゥ」


「好きって言える」


エルナは泣きました。


「言わないで」


「好きだよ」


その瞬間、エルナの腕から青年の身体が消えました。

代わりに小さな白い狐が落ちました。


右耳だけが灰色。

青い瞳。


「……ルゥ?」


狐はエルナを見ました。

けれど尻尾は揺れませんでした。


知らない人を見る目でした。


泉は約束どおり、彼を返したのです。

人間だった十年間だけを、奪って。


*


それから長い年月が過ぎました。


森の近くには、一人の老婆が暮らしていました。

庭には、白い狐がよく遊びに来ました。


何代目なのかは分かりません。

老婆は狐を見るたび、パンを少し置きました。


「おいで」


狐は警戒しながら近づきます。


「大丈夫よ」


ときどき老婆は、狐の青い瞳を見て泣きました。

理由を尋ねる人は、もう誰もいません。


ある春の朝、老婆は庭の椅子で静かに息を引き取りました。

その足元には、白い狐がいました。


狐はしばらく老婆を見つめていました。

そして、そっとその頬を舐めました。


一度だけ。


まるで、遠い昔にそうしていたことを、身体だけが覚えていたように。


その日の夕暮れ、願いの泉のほとりに一匹の白い狐が座っていました。


水面を覗き込んでいます。


そこには狐ではなく、白い髪の青年が映っていました。

隣には少女がいます。

二人は手を繋いでいました。


狐には、それが誰なのか分かりません。

それでも、なぜか胸の奥が痛みました。


嬉しいときに痛くなる場所。

もう、名前さえ知らない感情でした。


狐は水面へ鼻先を寄せます。


そして誰に教えられたわけでもないのに、小さく鳴きました。


その声は一瞬だけ人間の言葉に聞こえました。


「エルナ」


水面の少女が、笑ったような気がしました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。