↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/60

死んだ蝶は、冬に飛ぶ

その村では、冬になると蝶が飛びます。

雪より白い翅を持つ、小さな蝶です。


春には一匹もいません。 夏にも。 秋にも。


木々が葉を落とし、湖が凍り、最初の雪が村を白く覆った朝にだけ、どこからともなく現れます。


不思議なのは、一匹として同じ模様の蝶がいないことでした。

翅に小さな赤い十字を持つもの。

麦の穂に似た金色の筋が走るもの。

指輪のような輪を持つもの。


小さな家の形に見える斑点を持つもの。

村の子供たちは、それを見つけては言いました。


「この蝶、お医者さまみたい」


「こっちは花嫁さん」


すると大人たちは、決まって怖い顔をしました。


「蝶の翅を読んではいけないよ」


そして、もうひとつ。

――死んだ蝶には、触れてはいけない。


*


「でも、飛んでるじゃない」


十二歳のエマは、祖母に尋ねたことがありました。

窓の向こうでは、白い蝶が雪の中を舞っています。


「死んでるのに、どうして飛べるの?」


祖母は編み物の手を止めませんでした。


「冬だからよ」


「答えになってない」


「冬はね」


祖母の指が、ほんの一瞬だけ止まりました。


「生きられなかったものが、いちばん綺麗に見える季節なの」


意味が分かりませんでした。


「死んだ人の魂?」


「いいえ」


祖母は窓の蝶を見ました。

ひどく懐かしいものを見る目でした。


「人は死んだら一人でしょう」


「うん」


「でも蝶は、一人から何匹も生まれるのよ」


エマが首を傾げると、祖母はそれ以上話しませんでした。


大人はいつもそうでした。

分からないことを尋ねると「いつか分かる」と言うのです。


エマはその言葉が嫌いでした。

とくに、その冬は。


弟のルイが病気だったからです。


*


ルイは八歳でした。


秋の終わりから高い熱を出し、冬になるころには寝台から起き上がれなくなりました。


医者は何も言いませんでした。


けれど、大人が子供の前で何も言わないときほど、悪いことが起きているのだと、エマは知っていました。


「春になったら湖へ行こう」


エマは毎晩、弟に言いました。


「ほんと?」


「ほんと」


「魚釣りも?」


「する」


「木苺も採る?」


「いっぱい採ろう」


「約束?」


細い小指が毛布から出てきます。

エマは自分の小指を絡めました。


「約束」


その日、窓の外を一匹の蝶が横切りました。

白い翅の端に、小さな魚のような銀色の模様がありました。


エマは笑いました。


「見て、ルイ。魚みたい」


けれど、たまたま薬を持って入ってきた祖母は、顔色を変えました。


「見てはいけない」


ぴしゃりとカーテンを閉めます。


「どうして?」


祖母は答えませんでした。

ただ、ルイの寝台を見つめていました。


*


その夜、窓を叩く音で、エマは目を覚ましました。


こつ。

こつ。


窓辺に、白い蝶がいました。

片方の翅が破れています。

それでも必死に硝子へ身体をぶつけていました。


翅には、小さな黒い文字のような模様。

本の頁にも見えました。


エマは窓を開けました。

蝶は部屋へ飛び込み、そのままルイの寝室へ向かいました。


眠る弟の胸へ降ります。


その瞬間、世界から音が消えました。


*


春でした。

湖のほとり。


「お姉ちゃん!」


ルイが走ってきます。


十二歳。


十六歳。


二十歳。


景色が瞬くたび、弟は歳を重ねました。

やがて本を抱え、遠い町の学校へ通い、医者になりました。


結婚しました。

子供を抱きました。

老人になりました。


そして皺だらけの顔で笑いました。


「お姉ちゃん」


八歳のころと同じ声。


「約束、守れたね」


景色が砕けました。

エマは寝室に戻っていました。

蝶は床に落ちていました。

翅の模様を見て、息を止めます。


本だと思っていたもの。

それは医者の鞄でした。


*


それから毎晩、蝶が来ました。


麦の模様を持つ蝶は、パン屋になったルイを見せました。

輪の模様を持つ蝶は、結婚するルイを。

三つの小さな点を持つ蝶は、三人の子供に囲まれたルイを。


そして未来を見せ終えた蝶は、必ず死にました。


朝になるころには、窓辺に白い翅だけが積もっていました。

その数が増えるほど、ルイは穏やかになりました。


熱が下がり、呼吸も静かになりました。

エマは喜びました。


「蝶が治してくれてるんだ」


けれど祖母は、白くなった窓辺を見て泣きました。


*


「どうして泣くの?」


祖母は一枚の翅を拾いました。


「私も昔、こうして蝶を見たの」


「誰の?」


「あなたのお母さん」


そして、ようやく教えてくれました。


「これは死者の魂じゃない」


祖母の指の上で、白い翅が震えます。


「死んだ未来なのよ」


人は生まれたとき、数え切れない明日を持っている。


誰を愛するか。

どこへ行くか。

何になるか。


けれど、生きられる人生はひとつだけ。


選ばれなかった未来は、そのたび静かに死んでいく。


そして冬になると、行き場を失った未来は蝶になって帰ってくる。


エマは窓辺を見ました。


医者。

パン屋。

結婚。

子供。

魚釣り。


全部。


ルイが生きるはずだった明日。


「じゃあ……蝶が増えてるのは」


祖母は答えませんでした。

答える必要はありませんでした。


*


その夜、窓の外は蝶で真っ白でした。


数え切れないほど。ルイが持っていた未来が、すべて冬空を舞っていました。


「お姉ちゃん」


寝台から声がしました。


「春、もうすぐ?」


エマは弟の手を握りました。


「うん」


涙を隠して笑いました。


「もうすぐ」


窓の外に、一匹だけ小さな蝶が残っていました。

翅には、木苺のような赤い点が二つ。


エマは息を止めました。

湖へ行く約束。


「駄目」


カーテンを閉めました。


「それだけは駄目」


最後の未来だけは死なせたくありませんでした。

蝶は一晩中、窓を叩き続けました。


こつ。

こつ。


やがて音は止みました。


*


朝、ルイは亡くなりました。


眠るような顔でした。

その手には、エマの小指が絡んだまま。


窓辺には、最後の蝶が落ちていました。

赤い点が二つ。


エマは泣きながら、その翅に触れました。


そして春を見ました。


湖のほとり。そこにいるのはルイではありません。


少し背の伸びたエマでした。

ひとりで木苺を二つ持っています。


ひとつを食べ、もうひとつを隣へ置く。

――約束、守れなくてごめんね。


そこでエマは気づきました。

最後の蝶だけは、ルイの未来ではなかった。


弟を失ったあとも生きていく自分の未来でした。


*


春。雪が融けました。


エマはひとりで湖へ行きました。


木苺を二つ持って。

ひとつを食べます。

もうひとつは、隣へ。


「おいしいよ、ルイ」


風が吹きました。

返事はありません。

それでもエマは笑いました。


蝶が見せた未来と同じでした。


でも、ひとつだけ違います。

あの未来の自分は、ここで泣いていました。


今のエマも泣いていました。

それでも「来年も来ようね」そう言えました。


その言葉は、蝶の翅のどこにも描かれていませんでした。

まだ死んでいない未来だからです。


遠い山には雪が残っていました。

その白の中を、一匹だけ蝶が飛んでいます。


エマは追いかけませんでした。

ただ、その姿が見えなくなるまで見送りました。

ようやく祖母の言葉が分かりました。


――冬は、生きられなかったものが、いちばん綺麗に見える季節。


死んだ蝶は、冬に飛びます。


医者になれなかった明日も。

誰かを愛せなかった明日も。

春の湖へ行けなかった明日も。


その小さな翅に、叶わなかった人生をひとつずつ描いて。


だから村の人々は、蝶の翅を読まないのです。


そこに描かれているのは運命ではありません。

もう二度と訪れない、誰かの明日なのです。


そして春になれば蝶は消えます。


残された人々が、自分の足で、まだ蝶になっていない明日へ歩き出すために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。