死んだ蝶は、冬に飛ぶ
その村では、冬になると蝶が飛びます。
雪より白い翅を持つ、小さな蝶です。
春には一匹もいません。 夏にも。 秋にも。
木々が葉を落とし、湖が凍り、最初の雪が村を白く覆った朝にだけ、どこからともなく現れます。
不思議なのは、一匹として同じ模様の蝶がいないことでした。
翅に小さな赤い十字を持つもの。
麦の穂に似た金色の筋が走るもの。
指輪のような輪を持つもの。
小さな家の形に見える斑点を持つもの。
村の子供たちは、それを見つけては言いました。
「この蝶、お医者さまみたい」
「こっちは花嫁さん」
すると大人たちは、決まって怖い顔をしました。
「蝶の翅を読んではいけないよ」
そして、もうひとつ。
――死んだ蝶には、触れてはいけない。
*
「でも、飛んでるじゃない」
十二歳のエマは、祖母に尋ねたことがありました。
窓の向こうでは、白い蝶が雪の中を舞っています。
「死んでるのに、どうして飛べるの?」
祖母は編み物の手を止めませんでした。
「冬だからよ」
「答えになってない」
「冬はね」
祖母の指が、ほんの一瞬だけ止まりました。
「生きられなかったものが、いちばん綺麗に見える季節なの」
意味が分かりませんでした。
「死んだ人の魂?」
「いいえ」
祖母は窓の蝶を見ました。
ひどく懐かしいものを見る目でした。
「人は死んだら一人でしょう」
「うん」
「でも蝶は、一人から何匹も生まれるのよ」
エマが首を傾げると、祖母はそれ以上話しませんでした。
大人はいつもそうでした。
分からないことを尋ねると「いつか分かる」と言うのです。
エマはその言葉が嫌いでした。
とくに、その冬は。
弟のルイが病気だったからです。
*
ルイは八歳でした。
秋の終わりから高い熱を出し、冬になるころには寝台から起き上がれなくなりました。
医者は何も言いませんでした。
けれど、大人が子供の前で何も言わないときほど、悪いことが起きているのだと、エマは知っていました。
「春になったら湖へ行こう」
エマは毎晩、弟に言いました。
「ほんと?」
「ほんと」
「魚釣りも?」
「する」
「木苺も採る?」
「いっぱい採ろう」
「約束?」
細い小指が毛布から出てきます。
エマは自分の小指を絡めました。
「約束」
その日、窓の外を一匹の蝶が横切りました。
白い翅の端に、小さな魚のような銀色の模様がありました。
エマは笑いました。
「見て、ルイ。魚みたい」
けれど、たまたま薬を持って入ってきた祖母は、顔色を変えました。
「見てはいけない」
ぴしゃりとカーテンを閉めます。
「どうして?」
祖母は答えませんでした。
ただ、ルイの寝台を見つめていました。
*
その夜、窓を叩く音で、エマは目を覚ましました。
こつ。
こつ。
窓辺に、白い蝶がいました。
片方の翅が破れています。
それでも必死に硝子へ身体をぶつけていました。
翅には、小さな黒い文字のような模様。
本の頁にも見えました。
エマは窓を開けました。
蝶は部屋へ飛び込み、そのままルイの寝室へ向かいました。
眠る弟の胸へ降ります。
その瞬間、世界から音が消えました。
*
春でした。
湖のほとり。
「お姉ちゃん!」
ルイが走ってきます。
十二歳。
十六歳。
二十歳。
景色が瞬くたび、弟は歳を重ねました。
やがて本を抱え、遠い町の学校へ通い、医者になりました。
結婚しました。
子供を抱きました。
老人になりました。
そして皺だらけの顔で笑いました。
「お姉ちゃん」
八歳のころと同じ声。
「約束、守れたね」
景色が砕けました。
エマは寝室に戻っていました。
蝶は床に落ちていました。
翅の模様を見て、息を止めます。
本だと思っていたもの。
それは医者の鞄でした。
*
それから毎晩、蝶が来ました。
麦の模様を持つ蝶は、パン屋になったルイを見せました。
輪の模様を持つ蝶は、結婚するルイを。
三つの小さな点を持つ蝶は、三人の子供に囲まれたルイを。
そして未来を見せ終えた蝶は、必ず死にました。
朝になるころには、窓辺に白い翅だけが積もっていました。
その数が増えるほど、ルイは穏やかになりました。
熱が下がり、呼吸も静かになりました。
エマは喜びました。
「蝶が治してくれてるんだ」
けれど祖母は、白くなった窓辺を見て泣きました。
*
「どうして泣くの?」
祖母は一枚の翅を拾いました。
「私も昔、こうして蝶を見たの」
「誰の?」
「あなたのお母さん」
そして、ようやく教えてくれました。
「これは死者の魂じゃない」
祖母の指の上で、白い翅が震えます。
「死んだ未来なのよ」
人は生まれたとき、数え切れない明日を持っている。
誰を愛するか。
どこへ行くか。
何になるか。
けれど、生きられる人生はひとつだけ。
選ばれなかった未来は、そのたび静かに死んでいく。
そして冬になると、行き場を失った未来は蝶になって帰ってくる。
エマは窓辺を見ました。
医者。
パン屋。
結婚。
子供。
魚釣り。
全部。
ルイが生きるはずだった明日。
「じゃあ……蝶が増えてるのは」
祖母は答えませんでした。
答える必要はありませんでした。
*
その夜、窓の外は蝶で真っ白でした。
数え切れないほど。ルイが持っていた未来が、すべて冬空を舞っていました。
「お姉ちゃん」
寝台から声がしました。
「春、もうすぐ?」
エマは弟の手を握りました。
「うん」
涙を隠して笑いました。
「もうすぐ」
窓の外に、一匹だけ小さな蝶が残っていました。
翅には、木苺のような赤い点が二つ。
エマは息を止めました。
湖へ行く約束。
「駄目」
カーテンを閉めました。
「それだけは駄目」
最後の未来だけは死なせたくありませんでした。
蝶は一晩中、窓を叩き続けました。
こつ。
こつ。
やがて音は止みました。
*
朝、ルイは亡くなりました。
眠るような顔でした。
その手には、エマの小指が絡んだまま。
窓辺には、最後の蝶が落ちていました。
赤い点が二つ。
エマは泣きながら、その翅に触れました。
そして春を見ました。
湖のほとり。そこにいるのはルイではありません。
少し背の伸びたエマでした。
ひとりで木苺を二つ持っています。
ひとつを食べ、もうひとつを隣へ置く。
――約束、守れなくてごめんね。
そこでエマは気づきました。
最後の蝶だけは、ルイの未来ではなかった。
弟を失ったあとも生きていく自分の未来でした。
*
春。雪が融けました。
エマはひとりで湖へ行きました。
木苺を二つ持って。
ひとつを食べます。
もうひとつは、隣へ。
「おいしいよ、ルイ」
風が吹きました。
返事はありません。
それでもエマは笑いました。
蝶が見せた未来と同じでした。
でも、ひとつだけ違います。
あの未来の自分は、ここで泣いていました。
今のエマも泣いていました。
それでも「来年も来ようね」そう言えました。
その言葉は、蝶の翅のどこにも描かれていませんでした。
まだ死んでいない未来だからです。
遠い山には雪が残っていました。
その白の中を、一匹だけ蝶が飛んでいます。
エマは追いかけませんでした。
ただ、その姿が見えなくなるまで見送りました。
ようやく祖母の言葉が分かりました。
――冬は、生きられなかったものが、いちばん綺麗に見える季節。
死んだ蝶は、冬に飛びます。
医者になれなかった明日も。
誰かを愛せなかった明日も。
春の湖へ行けなかった明日も。
その小さな翅に、叶わなかった人生をひとつずつ描いて。
だから村の人々は、蝶の翅を読まないのです。
そこに描かれているのは運命ではありません。
もう二度と訪れない、誰かの明日なのです。
そして春になれば蝶は消えます。
残された人々が、自分の足で、まだ蝶になっていない明日へ歩き出すために。




