人魚は海を見たことがない
人魚は海を見たことがありません。
少女の名は、ネリネ。
腰から下には、月光を溶かしたような銀青色の鱗がありました。
けれど彼女が生まれ育ったのは、海ではありません。
王宮の地下深く。
窓ひとつない、硝子の水槽でした。
*
水槽はとても大きく、ネリネが端から端まで泳ぐには百二十回、尾を振らなければなりません。
天井には青い硝子が嵌め込まれています。
その向こうから魔法の光が降り注ぎ、水の中へゆらゆらと模様を描きました。
「これが海よ」
幼いころ、世話係は言いました。
「海?」
「ええ。あなたたち人魚が暮らす場所」
「ここより大きい?」
世話係は笑いました。
「ずっと」
ネリネには想像できませんでした。
壁のない水。
端のない水。
百二十回どころか、何万回尾を振っても向こう側へ着かない場所。
そんなものが、この世にあるのでしょうか。
*
十六歳の誕生日、水槽の前に一人の少年がやってきました。
王子のアルトでした。
「本当に人魚だ」
硝子へ顔を寄せます。
ネリネも反対側から覗き込みました。
「本当に人間だ」
「人間は見たことあるだろ」
「白衣を着た人間しか知らないもの」
アルトは笑いました。
それから彼は、よく地下へ来るようになりました。
地上の話をしてくれました。
森、雪、星、雨。
そして海。
「海は青い?」
ネリネが尋ねました。
「青い日もある」
「青くない日も?」
「夕方は金色になるし、嵐の日は黒い」
「水なのに?」
「水だからだよ」
意味が分かりませんでした。
けれどアルトが海を話すとき、彼の瞳にはいつも遠い光が宿りました。
ネリネはその光が好きでした。
やがて、ひとつの願いを持つようになりました。
「海を見たい」
初めてそう言った日、アルトは笑いませんでした。
「……そうだね」
硝子越しに手を重ねます。
触れられません。
「いつか見せてあげる」
*
その約束が叶ったのは、三年後でした。
王が亡くなり、アルトが王位を継いだ春。
地下へ降りてきた彼は、衛兵を全員外へ出しました。
「迎えに来た」
水槽の扉が、初めて開きました。
ネリネは車輪のついた大きな水桶へ移され、夜の王宮を運ばれました。
初めて見る月。
初めて嗅ぐ草。
初めて頬に触れる風。
世界には、こんなにもたくさんのものがあったのです。
「綺麗」
何度言っても足りませんでした。
やがて潮の匂いがしました。
アルトが水桶の隣を歩きます。
「もうすぐだよ」
丘を越えました。
その向こう、世界がなくなっていました。
いいえ、そこから先すべてが、水でした。
月の光を抱き、水平線まで続いている。
波が白くほどけては、また闇へ溶けていく。
ネリネは声を失いました。
これが。
「海……?」
涙が頬を伝いました。
どうして泣いているのか、自分でも分かりません。
「帰ってきた」
そう呟いた瞬間、アルトが言いました。
「違うよ」
ネリネは振り返りました。
彼は泣いていました。
「君は、海から来たんじゃない」
*
アルトは古い王家の記録を持っていました。
《第七十四号水棲生物生成実験》
ネリネには、その文字の意味が分かりませんでした。
「百年前、この国は海を支配したかった」
アルトは静かに話しました。
深い海へ潜り、長く水中で活動し、敵国の船を沈める兵士。
そのために、人間を海で生きられる生物へ変える研究が始まった。
何十年もの失敗の末に一人だけ、生き残った。
「……私?」
アルトは首を振りました。
「君のお母さんだ」
ネリネは息を止めました。
母などいないと思っていました。
「じゃあ、お母さんは海に?」
「違う」
母もまた、海を見たことがなかった。
地下で生まれ、地下で育てられ、地下でネリネを産んだ。
そして娘を抱いたまま死んだ。
最後まで一度も本物の海を見ることなく。
「人魚なんて、本当はいないんだ」
アルトの声が震えました。
「僕たちが作った」
ネリネは海を見ました。
あれほど恋しかったもの。
帰りたいと、理由もなく焦がれていた場所。
けれどそこは故郷ではありませんでした。
一度も失っていないものをずっと懐かしがっていたのです。
*
アルトは彼女を海へ運びました。
波が尾鰭に触れました。
冷たい。
水槽の水とはまるで違います。
塩辛く、荒々しく。
生き物の匂いがしました。
「怖い?」
「うん」
ネリネは正直に答えました。
海は美しくて、あまりにも広くて、怖かった。
「戻る?」
背後には、水桶があります。
百二十回尾を振れば端へ着く世界。
そこなら安全です。
ネリネはしばらく迷いました。
それから、首を振りました。
「行く」
「どこへ?」
ネリネは笑いました。
「分からない」
生まれて初めて言える言葉でした。
分からない。
行き先も。
明日のことも。
自分が何者なのかも。
だから。
「自分で見つけてみる」
*
ネリネは海へ入りました。
最初の波に呑まれました。
咳き込み、慌てて水面へ顔を出します。
アルトが笑いました。
「人魚なのに溺れるの?」
「初めてなんだから仕方ないでしょう!」
ネリネも笑いました。
そして、もう一度潜りました。
暗い水の中、月光が遠くまで差し込みます。
魚の群れが身体の横を通り過ぎました。
知らない色。
知らない音。
知らない世界。
ネリネは泳ぎました。
百二十回。
いつもなら、そこで壁です。
百二十一回。
何もない。
百二十二回。
まだ進める。
百五十。
二百。
振り返ると、岸辺のアルトが小さくなっていました。
ネリネは泣きました。
けれど海の中では、涙はどこへ行ったのか分かりませんでした。
*
それから長い年月が過ぎました。
海辺の町には、ひとつの昔話が残っています。
月の明るい夜、沖合に銀色の尾を持つ女が現れる。
船乗りが尋ねます。
「あなたは人魚ですか?」
女は笑います。
「昔は、そう呼ばれていました」
「海のどこから来たのです?」
すると彼女は決まって、遠い陸地を指差すのだそうです。
「海のないところ」
誰も信じません。
だから女は、楽しそうに笑います。
そしてときどき、幼い子供を連れていることがあります。
銀色の鱗を持つ、小さな子供たち。
彼らは海で生まれます。
波の音を子守歌に、珊瑚の森を遊び場に。
生まれた日から、どこまでも泳いでいける水の中で。
ネリネは彼らに、地下の水槽の話をしません。
ただ一つだけ教えます。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「海って、どこまで続いてるの?」
子供が尋ねると、ネリネは水平線を見つめます。
かつて、自分が初めて海を見た夜と同じように。
そして微笑みます。
「知らないわ」
子供は驚きます。
「お母さん、人魚なのに?」
「ええ」
ネリネは小さな手を握ります。
「だから、一緒に見に行きましょう」
二つの銀色の尾が、水面の下へ消えていきます。
その先に壁はありません。
百二十回を越えても。
千回を越えても。
どこまでも。
どこまでも。
――人魚は海を見たことがありませんでした。
だから彼女は生まれて初めて見たその日から、一生をかけて、海を見ることにしたのです。




