雨を知らない傘屋
その町には、雨が降りません。
空はいつも淡い水色で、雲は羊のように遠くを流れていくだけ。
井戸は地下深くから水を汲み、畑には朝露が降りるので、人々は困りませんでした。
だから町の誰も、雨を知りません。
それなのに町外れには、一軒の傘屋がありました。
店主の名は、ルカ。
二十七歳の、静かな青年でした。
店には色とりどりの傘が並んでいました。
夜空のような紺。
林檎のような赤。
春の若葉を思わせる緑。
なかでもルカがいちばん大切にしていたのは、店の奥にある一本でした。
薄い空色の傘。
縁には銀糸で、小さな雫が刺繍されています。
「ねえ、ルカ」
近所の少女ソフィが尋ねました。
「雨って、どんなもの?」
ルカは手を止めました。
「空から水が落ちてくるんだ」
「滝みたいに?」
「もっと優しいよ」
「井戸をひっくり返したみたいに?」
「それだと町が沈むね」
ソフィは笑いました。
「見たことあるの?」
ルカは窓の外を見ました。
今日も空は晴れています。
「ないよ」
「じゃあ、どうして知ってるの?」
少し考えて、ルカは微笑みました。
「誰かに教えてもらった気がするんだ」
*
町の人々は、傘屋を変わり者だと言いました。
雨も降らないのに傘を作る。
誰も買わないものを、毎日毎日。
けれどルカはやめませんでした。
布を裁ち、骨を組み、糸を縫う。
雨粒が滑り落ちやすいよう丸みをつけ、持ち手は濡れた手でも滑らないよう丁寧に削りました。
なぜそんな工夫を知っているのか、自分でも分かりません。
ただ、手が覚えているのです。
そして毎晩、同じ夢を見ました。
雨の中に、少女が立っています。
顔は見えません。
空色の傘だけが見えます。
――ルカ。
少女が呼びます。
――雨が降ったら、迎えに来てね。
そこで目が覚めます。
頬が、なぜか濡れていました。
*
ある日、旅人の老婆が店へ入りました。
並んだ傘を見て、ひどく驚きました。
「これは誰に教わった?」
「誰にも」
「嘘をお言い」
老婆は店の奥へ進みました。
そして空色の傘を見た瞬間、顔色を変えました。
「これを、どこで?」
「僕が作りました」
「この刺繍も?」
銀色の雫。
ルカは頷きました。
老婆は長いこと黙っていました。
「この町では昔、本当に雨が降らなかったのかい?」
「昔?」
「そう」
ルカは笑いました。
「雨なんて、一度も――」
言いかけて胸が痛みました。
ぽつり。
どこかで、水の落ちる音がしました。
*
その夜、ルカは古い町史を調べました。
百年前。
二百年前。
どの記録にも同じ言葉があります。
《この町に雨は降らない》
けれど二十八年前の一冊だけ、頁が破られていました。
翌朝、ルカは町で最も年老いた老人を訪ねました。
「二十八年前、何があったんですか」
老人は黙りました。
「教えてください」
長い沈黙のあと老人は窓を閉めました。
「雨が降った」
ルカは息を止めました。
「三日三晩」
町は沈みかけた。
川は溢れ、家々が流された。
そして四日目、ひとりの少女が、町外れの丘へ登った。
名を、アリアといった。
「その子は、空へ願った」
――もう、この町に雨を降らせないで。
願いは叶いました。
雨は止みました。
それから一滴も降っていません。
「代わりに何を?」
ルカは尋ねました。
老人は目を伏せました。
「雨に関するものを、すべて」
町から雨の記憶が消えた。
雨音も、雨の匂いも、濡れた石畳の色も。
そして雨を愛していた少女のことも。
*
その夜、ルカは空色の傘を開きました。
銀の雫を指でなぞります。
ひとつ。
ふたつ。
最後の一粒へ触れた瞬間、記憶が戻りました。
雨の中。
十歳のルカ。
隣には十一歳の少女。
二人で一本の傘に入っています。
「もっとそっち行ってよ」
「アリアが真ん中すぎるんだ」
「傘は私のよ」
「じゃあ僕、濡れるじゃないか」
「半分貸してあげてるでしょう」
笑い声、雨の匂い、少女の手。
そしてあの日、丘へ向かうアリアを追いかけた。
「行かないで!」
少女は空色の傘をルカへ押しつけました。
「雨が止んだら返して」
「自分で取りに来いよ!」
アリアは泣きながら笑いました。
「じゃあ」
最後に言いました。
「また雨が降ったら、迎えに来てね」
雨が止みました。
少女は消えました。
そしてルカは彼女を忘れました。
*
翌朝、空を雲が覆っていました。
町中の人が不安そうに見上げています。
ルカだけが笑いました。
空色の傘を持って、丘へ向かいます。
ぽつり。
頬に何かが触れました。
温かい。
もう一粒。
そして雨が降りました。
二十八年ぶりの雨でした。
町の人々が悲鳴を上げます。
けれどルカは傘を差しませんでした。
濡れながら、丘を登りました。
雨の向こうにひとりの少女が立っています。
十一歳のまま。
「遅いよ」
ルカは泣きました。
「ごめん」
「十八年も待った」
「ごめん」
空色の傘を差し出します。
「返しに来た」
アリアは受け取りませんでした。
代わりに、ルカの頬へ触れました。
その指は雨粒のように冷たく、そして透き通っていました。
「思い出してくれたから、もういいよ」
「待って」
少女の輪郭が雨へ溶けていきます。
「迎えに来たんだ」
「うん」
アリアは笑いました。
「だから、帰れるの」
風が吹きました。
少女は無数の雨粒になって、町へ降りました。
ルカは空色の傘を抱いたまま、いつまでも丘に立っていました。
*
それから、その町には雨が降るようになりました。
人々は傘屋を笑わなくなりました。
雨の日には、店いっぱいの傘が町へ出ていきます。
赤。
緑。
紺。
黄色。
色とりどりの花のように。
店の奥には、今も一本だけ売られていない傘があります。
薄い空色。
縁には銀色の雫。
雨の日になると、ルカはその傘を店先に広げます。
すると雨粒が布を叩きます。
ぱらぱら。
さらさら。
まるで、少女が笑っているような音で。
ルカはもう、雨を知らない傘屋ではありません。
それでも、ときどき子供たちに尋ねられます。
「雨って、どんなもの?」
そんなとき、ルカは少しだけ空を見上げます。
そして笑います。
「忘れていた人が、帰ってくる音だよ」
店先で、空色の傘だけが、誰も持っていないのにほんの少し嬉しそうに揺れていました。




