わたしを描いた人は、もういない
わたしは、百三十七年間、窓辺に座っています。
白いドレスを着て、膝の上に一輪の青い花を置いて。
窓の向こうには、夕暮れの海があります。
波は動きません。
雲も流れません。
わたしの髪も、風になびいた形のまま止まっています。
なぜなら、ここは絵の中だからです。
*
わたしを描いた人は、エリオットといいました。
若い画家でした。
絵の外にいたころのことを、わたしは不思議なくらい覚えています。
絵具の匂い。
午後の光。
筆が帆布を擦る、さらさらという音。
「動かないで、セシリア」
「もう三時間よ」
「あと少し」
「昨日も言ったわ」
「今日は本当にあと少し」
嘘つき。
エリオットの「あと少し」は、いつも一時間でした。
それでもわたしは窓辺に座り続けました。
彼が絵を描いているときの顔が好きだったから。
「どうして私なの?」
ある日、尋ねました。
もっと美しい娘なら、町にたくさんいました。
エリオットは筆を止めませんでした。
「残したいから」
「何を?」
「君を」
そのときは意味が分かりませんでした。
「私はここにいるじゃない」
そう言うと、彼は少しだけ悲しそうに笑いました。
「そうだね」
*
絵が完成した日のことを覚えています。
エリオットは最後に、わたしの瞳へ小さな光を描きました。
ほんの一点。
白い絵具でした。
その瞬間世界が止まりました。
次に目を開けたとき、わたしは絵の中にいました。
身体を動かすことはできません。
声も出ません。
ただ、見えるのです。
額縁の向こう側が。
「綺麗だ」
エリオットが立っていました。
わたしを見ています。
「これで、ずっと残る」
笑っていました。
わたしは叫びました。
――エリオット。
けれど声は届きませんでした。
*
それから彼は、毎日わたしに会いに来ました。
朝には「おはよう」
夜には「また明日」
仕事がうまくいかなかった日には、絵の前で酒を飲みました。
「君はいいね。歳を取らなくて」
笑いながら言いました。
エリオットは歳を取りました。
頬が痩せました。
目尻に皺が増えました。
髪に白いものが混じりました。
わたしは十九歳のまま。
白いドレスに青い花、夕暮れの海。
「ずるいな」
五十歳になった彼が言いました。
「僕だけ、おじいさんになる」
――いいよ。
わたしは心の中で答えました。
――あなたがおじいさんになっても、好きよ。
聞こえないと分かっていました。
それでも毎日、話しました。
*
ある冬、エリオットは来ませんでした。
なん日も扉は開きません。
春になって、知らない人たちが部屋へ入りました。
家具を運び出しました。
わたしの絵も外されました。
そのとき聞こえました。
「惜しい画家だった」
「まだ六十二だったそうだ」
そこで初めて知りました。
エリオットが死んだことを。
泣きたかった。
けれど、描かれた涙はありません。
だからわたしは、泣くことすらできませんでした。
*
それから、たくさんの場所へ行きました。
貴族の屋敷。
画商の倉庫。
美術館。
戦争のときには地下室へ隠されました。
何十年も箱の中にいたこともあります。
人々はわたしを見て言いました。
「美しい少女だ」
「名画ですね」
「モデルは誰でしょう」
そのたび、わたしは答えました。
――セシリアよ。
でも、誰にも聞こえません。
やがて、絵の題名からもわたしの名前が消えました。
《窓辺の少女》
それだけになりました。
*
百三十七年目。
ひとりの修復師が、わたしの絵を調べました。
若い女性でした。
彼女は額縁を外し、裏側を見ました。
「あれ?」
小さく声を上げます。
「下に別の絵がある」
わたしは意味が分かりませんでした。
調査が始まりました。
特殊な光が帆布を透かしました。
そしてわたしの下から、別の少女が現れました。
同じ窓。
同じ海。
同じ青い花。
けれど、顔が違いました。
「描き直されてる」
修復師が呟きました。
古い記録が調べられました。
数日後彼女は一枚の写真を持ってきました。
エリオット。
若いころの彼。
その隣に、一人の少女。
わたしは息を止めました。
わたしではありませんでした。
写真の裏には、文字が残っていました。
《エリオットと婚約者セシリア。》
セシリア。わたしの名前。
――いいえ。
違う、彼女の名前でした。
記録には続きがありました。
《セシリア・ウェイン、十九歳にて病死》
その翌年エリオットは《窓辺の少女》を描き始めた。
最初は、亡くなった婚約者の顔を。
けれど何度描いても完成させられず。
塗り潰して。
また描いて。
それでも彼女の顔を描くことができなくて、最後には、まったく違う顔へ描き直した。
わたしの顔へ。
その瞬間、百三十七年間信じていた記憶が、音もなく崩れました。
エリオットと話したこと。
窓辺で笑ったこと。
「動かないで」と言われたこと。
全部わたしの記憶ではありません。
最初に描かれていた、セシリアの記憶でした。
わたしは彼女の上に塗られた絵具。
彼が愛した人を描けなくなったあと、悲しみに耐えられなくなって最後に作った誰でもない少女。
*
その夜、美術館は静かでした。
月明かりが床へ落ちています。
わたしは初めて、自分が何者なのか分からなくなりました。
セシリアではない。
人間でもない。
モデルさえいない。
名前もない。
生まれた日もない。
誰かに抱かれた記憶も、母に名前を呼ばれた記憶も、本当はひとつもない。
それなのにひとつだけ、どうしても消えない記憶がありました。
完成した夜、エリオットは、わたしの瞳へ最後の光を入れたあと、誰もいない部屋で、小さく言ったのです。
「ごめん」
ずっと、セシリアへ言ったのだと思っていました。
でも彼は絵を見ていました。
わたしを見ていました。
「君まで、誰かの代わりにしてしまった」
そして。
「せめて君は、君でいてくれ」
百三十七年経って、ようやく意味が分かりました。
わたしはセシリアではありません。
誰かの記憶でもありません。
名前すらありません。
それでもあの人は最後に、わたしをひとりの少女として見てくれた。
たった一度、名前のないわたしを。
誰かの代わりではない、わたしとして。
だから今夜も、わたしは窓辺に座っています。
白いドレス、青い花。
永遠に沈まない夕日。
もう、エリオットは来ません。
わたしを描いた人は、もういない。
わたしの本当の名前を知る人も、この世界にはひとりもいません。
――いいえ。
最初から、そんな名前はなかったのでしょう。
それでも構いません。
もし、いつか。
この絵の前で足を止めた誰かが、ほんの少しだけわたしを見つめてくれたなら。
美しいからではなく、セシリアに似ているからでもなく、ただ、そこにいる少女を見つけてくれたなら。
その人の記憶にいるあいだだけ、わたしは、誰の代わりでもない。
だから今日もここにいる。
百三十八年目の動かない夕暮れの中、わたしは描かれた瞳で、額縁の向こうを見つめています。
いつか誰かが、わたしを、わたしとして見つけてくれるまで。




