第二章 最弱職
最初に感じたのは、風だった。
頬を撫でる程度の弱い風。
次に匂い。
土と草、それから何かを焼いた煙の匂い。
レオンは目を開けた。
青空があった。
「……マジか」
思わず声が出た。
視界の端にディスプレイはない。
解像度という言葉も意味を失っている。
空は空だった。
雲が流れている。
少し眩しい。
目を細めると、太陽の光まで自然に感じられた。
身体を起こす。
草原。
少し離れたところに石造りの城壁が見える。
その向こうには赤茶色の屋根が並び、さらに奥には巨大な白い塔。
王都グランベル。
何千時間も見た街だった。
けれど、知っている景色とはまるで違った。
ゲームでは城壁の外は、初心者向けのフィールドだった。
街道を少し歩けばスライム。
さらに行けばホーンラビット。
北へ向かえばゴブリン。
そんな場所だ。
だが今、街道を荷馬車が走っている。
農夫らしい男が畑を耕している。
遠くから犬の鳴き声まで聞こえる。
レオンは自分の手を見る。
若い男の手だった。
手のひらには薄く剣だこがある。
指を曲げる。
動く。
草を掴む。
湿っている。
「すげえな……」
VRという言葉で片づけていいのか分からなかった。
レオンは立ち上がった。
身体が軽い。
現実の自分より明らかに筋肉がある。
服装は簡素だった。
麻のシャツ。
革のズボン。
腰には短剣。
背中には小さな袋。
そして視界の端に意識を向けると、半透明の表示が現れた。
---
**名前:レオン**
**職業:剣士**
**レベル:1**
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数秒、黙った。
それから笑った。
「本当に剣士かよ」
悪くない。
むしろ最高だった。
剣士。
ゲーム初期には散々な扱いを受けた職業。
サービス開始から一年ほどは、公式掲示板でも攻略サイトでも「趣味職」と呼ばれていた。
魔術師なら敵が近づく前に倒せる。
弓使いなら距離を取れる。
剣士は敵まで走っていって殴る。
しかも大して強くない。
当時の開発者は何を考えていたんだ、と何度書かれたか分からない。
しかし後年、その評価は完全に逆転した。
レベルが上がる。
装備が揃う。
攻撃速度とクリティカル率が一定値を超える。
そこへバフを重ねる。
剣士は化ける。
最終環境では、通常攻撃だけで魔術師の詠唱魔法に匹敵するダメージを叩き出した。
しかもMP消費なし。
レオン自身、最後に使っていたキャラクターは剣士だった。
「当たりだな」
呟いて、王都へ向かった。
城門に近づくにつれ、人が増えていく。
そこで最初の違和感があった。
門の前に二つの列ができている。
一方は短い。
もう一方は長い。
短い方には、ローブを着た人間が多かった。
杖。
魔導書。
聖印。
魔法職だ。
長い列には、剣や槍を持った人間。
物理職。
レオンは長い方へ並んだ。
前にいた男が振り返る。
「剣士か」
四十代くらいだろうか。
肩に大きな斧を背負っている。
「そうです」
「若いのに災難だったな」
「災難?」
男は苦笑した。
「まあ、腐らず生きろ。身体が丈夫なら仕事はいくらでもある」
それだけ言って前を向いた。
意味が分からない。
列はほとんど進まなかった。
隣の魔法職用の列では、衛兵が簡単に身分証を確認して通している。
こちらでは荷物まで調べられていた。
十分ほど待って、ようやく順番が来た。
衛兵がレオンを見る。
「職は」
「剣士」
「目的」
「冒険者登録」
「保証人は」
「いません」
衛兵が露骨に面倒そうな顔をした。
「新規か」
「はい」
「登録所は南区だ。中央区には入るなよ」
「なんで?」
衛兵がレオンを見る。
「なんでって?」
「あ、いや。分かりました」
よく分からないまま門を通る。
王都グランベル。
ゲームでは初心者から最高レベルのプレイヤーまで集まる巨大都市だった。
中央広場にはプレイヤーの露店が並び、ギルド募集のチャットが流れ続けていた。
今は違う。
当然だ。
プレイヤーはいない。
代わりに生活がある。
パンを売る女。
荷物を運ぶ男。
走り回る子供。
路地で喧嘩する酔っ払い。
窓から誰かを怒鳴る老婆。
レオンはしばらく歩いた。
面白かった。
何を見ても知っているのに、何を見ても知らない。
地図は同じ。
建物も同じ。
だが、ゲームでは背景だった場所に人間がいる。
中央広場へ向かおうとして、衛兵の言葉を思い出した。
中央区には入るな。
理由を確かめたくなった。
ゲーム時代の記憶を頼りに大通りを進む。
しばらくすると、石畳が変わった。
建物も豪華になる。
道を歩く人間の服装も違う。
そして、道の脇に衛兵が立っていた。
「止まれ」
レオンを見る。
「職は?」
「剣士」
「南区へ戻れ」
「通るだけなんだけど」
「許可証は?」
「ない」
「なら戻れ」
その横を若い女が通り過ぎる。
白いローブ。
杖。
魔術師。
衛兵は止めもしなかった。
レオンは女の背中を見る。
ようやく理解した。
「そういう感じか」
ゲームの職業格差が、そのまま社会になっている。
少し面白くなってきた。
不謹慎なのは分かっている。
だが、これはゲームだ。
少なくともレオンにとっては。
南区へ戻る。
冒険者ギルドは、記憶通りの場所にあった。
ただし建物はゲームで見たものよりずっと汚かった。
中へ入る。
酒と汗の匂い。
受付が四つ。
上には札がある。
**魔法職**
**魔法職**
**神官・補助職**
**その他**
「その他って」
思わず呟いた。
もちろん自分は最後だ。
列に並ぶ。
前には剣士、槍士、斧使い。
受付の女は疲れた顔で処理している。
ようやく順番になる。
「新規登録?」
「はい」
「職業」
「剣士」
女は紙を一枚出した。
「名前」
「レオン」
「年齢」
答えようとして止まる。
知らない。
自分の身体の年齢。
視界にステータスを呼び出す。
二十一。
「二十一」
「出身」
また知らない。
「……北の方」
受付嬢が顔を上げた。
「北のどこ」
「かなり北」
怪しまれた。
当然だ。
「身分証は?」
「ない」
受付嬢がため息をついた。
「じゃあ仮登録。三か月以内に正式な身元保証を取って」
「はい」
「受けられる依頼は第五等級まで。危険指定区域への立ち入り禁止。魔術師同行指定の依頼も受注不可」
紙を渡される。
「仕事は?」
「掲示板。剣士なら右側」
見る。
掲示板まで分かれていた。
右側へ行く。
依頼を見る。
荷物運び。
下水清掃。
街道整備。
薬草採取。
害獣駆除。
ゲームで見覚えのある討伐依頼はほとんどない。
「これ冒険者か?」
思わず言った。
隣にいた男が笑った。
大柄な男だった。
古びた鎧。
背中には巨大な盾。
「魔法が使えないなら、そんなもんだ」
「モンスター討伐は?」
「あるぞ」
男が掲示板の一番下を指差す。
紙が一枚貼られている。
**北部街道周辺・グレイウルフ討伐**
推奨人数四名以上。
報酬は安い。
レオンは首を傾げた。
グレイウルフ。
知っている。
レベル六。
初心者向けモンスター。
「これ、四人必要なの?」
男の顔から笑いが消えた。
「お前、死にたいのか?」
「いや」
「剣士一人でグレイウルフに近づいたら、喉を食い破られて終わりだ」
レオンは依頼書を見る。
ゲームと同じなら。
レベル六。
攻撃パターンは三種類。
噛みつき。
飛びかかり。
低確率で仲間を呼ぶ。
飛びかかりの直前には必ず一歩だけ後ろへ下がる。
横へ避ければ隙ができる。
そこへ通常攻撃を三発。
初心者でも倒せる。
いや。
初心者だった頃の自分でも倒していた。
「そうなんだ」
レオンは依頼書を剥がした。
男が目を丸くする。
「おい」
「受けてくる」
「話聞いてたか?」
「聞いてた」
「仲間は?」
「いない」
「だったら――」
レオンは受付へ向かった。
少しだけ、気分が軽かった。
久しぶりだった。
何かをやる前から失敗することばかり考えないのは。
現実では、何を始めても先のことを考えた。
失敗したら。
続かなかったら。
迷惑をかけたら。
ここでは違う。
グレイウルフの倒し方を知っている。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
受付嬢が依頼書を見て眉をひそめる。
「一人?」
「はい」
「剣士ですよね?」
「そうです」
「推奨四人です」
「推奨ですよね」
受付嬢はしばらくレオンを見た。
「死んでも知りませんよ」
「俺も知りません」
依頼が受理される。
ギルドを出る。
北門へ向かう。
ゲームなら、ここから五分。
グレイウルフの生息地。
レオンは歩きながら笑った。
治療。
社会復帰。
精神状態。
そんなことは、今はどうでもよかった。
まず一匹。
昔と同じなら。
倒せる。
もし違ったら。
そのとき考えればいい。
その発想ができたこと自体に、レオンはまだ気づいていなかった。




