第一章 もう一度、あの世界へ
「治す、という言い方は正確ではありません」
白衣の女は、そう言ってタブレットを机に置いた。
「今回の治験で期待しているのは、症状の軽減と社会適応能力の回復です」
風間悠斗は返事をしなかった。
目の前の女――アンナ・ヴァイスは、気にした様子もなく説明を続けた。
診察室というより、小さな会議室だった。
白い壁。白い机。窓のない部屋。
正面の壁には大型ディスプレイがあるが、今は消えている。
病院という場所は、どうしてこうも白いのだろう。
清潔感を出すためだろうか。
少なくとも悠斗には、落ち着く色には思えなかった。
「従来のVRを使った治療とは、かなり違います」
アンナが言った。
「患者には仮想環境の中で、一定期間生活してもらいます。数時間体験して終了、というものではありません」
「どのくらいですか」
今日初めて悠斗が口を開いた。
「個人差があります。現実時間で数週間から数か月。ただし体感時間はそれより長くなる可能性があります」
「仕事してないんで、別にいいです」
アンナが一瞬黙った。
余計なことを言ったな、と悠斗は思った。
別に自虐したかったわけではない。
事実を言っただけだ。
二十四歳。
無職。
大学を卒業して就職した会社は、一年も続かなかった。
最初は朝起きるのがつらくなった。
次に電車に乗るのがつらくなった。
会社の最寄り駅に着くと、吐き気がするようになった。
それでもしばらくは出勤した。
休めば迷惑がかかる。
自分の仕事を誰かがやらなければならなくなる。
そう考えると、休む方が怖かった。
ある朝、本当に動けなくなった。
玄関で靴を履いたところまでは覚えている。
気がつくと床に座っていた。
それから会社へ行っていない。
休職。
退職。
通院。
薬。
カウンセリング。
多少は良くなった。
少なくとも、玄関で座り込むことはなくなった。
だからといって、何かを始めようという気にもならなかった。
求人サイトを開く。
募集要項を読む。
閉じる。
ゲームを起動する。
タイトル画面を見る。
閉じる。
友人からメッセージが届く。
あとで返そうと思う。
三日経つ。
返信しづらくなる。
一週間経つ。
もう返せない。
そういう生活だった。
「風間さん」
呼ばれて、悠斗は顔を上げた。
「何か不安がありますか?」
「特には」
「遠慮する必要はありません」
「してないです」
アンナは悠斗を数秒見て、それ以上は追及しなかった。
こういうところは嫌いではない。
励ましてくる人間が、悠斗は苦手だった。
焦らなくていい。
あなたのペースでいい。
休むことも必要だ。
何度も聞いた。
間違ってはいない。
間違ってはいないからこそ、返事に困る。
それで一年休んで、何が変わった?
そんなことを言えば、相手を困らせるだけだ。
だから言わない。
そして、また何も話さなくなる。
「仮想環境では、現実世界に近い社会生活を経験してもらいます」
アンナが説明を再開した。
「他者とのコミュニケーション、共同作業、問題解決。必要に応じて成功だけでなく、失敗や葛藤も経験します」
「要するに、ゲームですよね」
「技術的には近いものです」
「NPCと話して、クエストやって、成功体験を積んで元気になりましょう、と」
少し意地の悪い言い方になった。
しかしアンナは表情を変えなかった。
「それだけなら、あなたを治験対象には選びません」
悠斗は彼女を見る。
アンナがタブレットを操作した。
正面のディスプレイが点灯する。
黒い画面。
中央に銀色の紋章が現れた。
巨大な樹木。
その根元に剣と杖。
周囲を一匹の竜が取り囲んでいる。
悠斗はしばらく動かなかった。
その紋章を知っていた。
知っているどころではない。
何千回見たか分からない。
「……エルディア?」
口から勝手に名前が出た。
《ELDIA ONLINE》
十年以上前にサービスを開始したMMORPG。
悠斗が高校生の頃から遊んでいたゲームだった。
「ご存じですよね」
「そりゃ……」
悠斗は画面を見たまま答えた。
「やってましたから」
「総プレイ時間、四千八百二十一時間」
「そこまで調べるんですか」
「治験ですから」
「プライバシーとかないんですか」
「同意書の三十二ページに書いてあります」
「読んでないです」
「存じています」
初めてアンナが少し笑った。
悠斗は画面へ視線を戻した。
懐かしい。
そう思ったことに、自分自身が少し驚いた。
サービス終了したわけではない。
今でも運営されている。
ただ、もう何年もログインしていなかった。
最後にログインしたのはいつだっただろう。
大学三年?
四年?
少なくとも就職してからは、ほとんど触っていない。
「なんでエルディアなんです?」
「治療用仮想環境をゼロから構築するより、既存の大規模仮想世界を基盤にした方が効率的だからです」
「著作権とか大丈夫なんですか」
「そこを心配する患者さんは初めてです」
「いや、普通に気になるでしょ」
「正式にライセンスを受けています」
それならいい。
何がいいのか自分でも分からなかった。
「ただし、ゲームそのものではありません」
アンナが画面を切り替えた。
見覚えのある街が映った。
王都グランベル。
中央広場。
噴水。
冒険者ギルド。
武器屋。
大聖堂へ続く長い階段。
配置まで覚えている。
ゲームよりも遥かに精細だった。
石畳には細かな傷があり、建物の壁には雨染みがある。
洗濯物が窓から吊るされ、人々が道を歩いている。
ゲーム画面というより、本物の街を撮影した映像に見えた。
「治療用に再構築されています。住民はすべて自律型AIです」
「プレイヤーは?」
「いません」
「俺だけ?」
「あなたが接続する環境では、そうです」
妙な感じだった。
誰もいないMMORPG。
いや。
人はいる。
画面の中には何百人もの人間が歩いている。
だが全員NPCだ。
「クエストとかは?」
「あります。ただしゲーム運営者が用意したイベントではありません。住民が必要とすれば依頼が発生します」
「モンスターは?」
「存在します」
「レベルは?」
「存在します」
「スキルツリー?」
「基本システムは原作に準拠しています」
悠斗は少し身体を起こしていた。
自分でも気づいた。
さっきまで椅子の背にもたれ、早く説明が終わらないかと思っていた。
今は違う。
「装備強化も?」
「あります」
「限界突破は?」
「あります」
「レベルキャップは?」
「開始時点では公開されません」
「じゃあ百二十か」
アンナが答えなかった。
悠斗は画面を見る。
王都グランベル。
ゲームを始めた人間なら、誰でも一度は訪れる街だ。
ここから北へ行けば初心者向けの草原。
東には鉱山。
西の森にはレベル十二から十五程度の魔物。
森を抜ければ湖。
湖底には隠し洞窟。
正式名称は忘れた。
プレイヤーは「水没」と呼んでいた。
低レベル帯では大してうまくない。
ただし、奥にいるレアモンスターが落とす指輪は、物理職ならレベル四十くらいまで使える。
まだ覚えている。
そんなことを覚えていた自分がおかしくて、悠斗は少し笑った。
「楽しそうですね」
アンナが言った。
悠斗の表情が消えた。
「別に」
「そうですか」
「昔やってただけです」
アンナは何も言わなかった。
それが助かった。
「一つ、普通のエルディアと大きく違うところがあります」
画面が切り替わる。
六つの紋章が表示された。
剣。
槍。
弓。
杖。
聖印。
魔導書。
職業選択画面だ。
悠斗には見覚えがあった。
「職業か」
「治療環境では、自由選択できません」
悠斗は眉を寄せる。
「じゃあどうやって決めるんです?」
「環境内での出生時に決定されています」
「出生?」
「あなたには、すでに世界内での身体が生成されています」
「ガチャ?」
「違います」
「いや、それガチャでしょ」
アンナは無視した。
「職業も、その身体に設定された適性によって決まります。途中変更は原則できません」
悠斗は少し考えた。
ゲームとして考えれば、とんでもない仕様だった。
エルディアは職業による性能差が大きい。
特に初期環境では。
「外れ引いたらどうするんです?」
「生活していただきます」
「クソゲーじゃん」
「ゲームではありません」
「ゲームですよ」
「治療です」
悠斗はもう一度、六つの紋章を見る。
まあいい。
どの職業になっても、ある程度は分かる。
四千八百時間は伊達ではない。
魔術師なら序盤は楽だ。
火力が高く、レベル上げも速い。
神官ならソロは面倒だが、死ににくい。
弓も悪くない。
剣士なら――。
悠斗はそこで少し考えた。
剣士。
サービス開始当初、最弱職の一つと言われた職業。
火力がない。
射程がない。
敵に接近しなければならない。
魔術師が範囲魔法で敵を焼き払っている横で、一匹ずつ剣で殴る。
掲示板では散々馬鹿にされていた。
運営は何度か調整を入れた。
それでも人気は戻らなかった。
ところがレベルキャップが上がり、装備研究が進み、ダメージ計算式が解析された。
評価が変わった。
攻撃速度。
クリティカル。
装備補正。
バフ倍率。
そして何より、MPを消費しない通常攻撃。
全部を積み上げると、魔法を撃つより殴り続けた方が強かった。
最終的に高難度レイドでは、
**物理で殴れ。**
それが最適解になった。
昔のプレイヤーなら笑う話だ。
「風間さん」
アンナの声で現実に戻る。
「最後に確認します」
ディスプレイが消えた。
白い部屋に戻る。
「治験への参加意思に変更はありませんか?」
悠斗は黙った。
昨日までなら、断っていたかもしれない。
治るかもしれない。
社会復帰できるかもしれない。
そう説明されても、それだけでは動かなかった。
治ったところで何をする。
また働くのか。
また人間関係を作るのか。
また失敗するのか。
考えるだけで面倒だった。
だが。
王都グランベル。
北の草原。
西の森。
湖底の洞窟。
あの世界をもう一度歩ける。
少しだけ。
本当に少しだけ。
やってみたいと思った。
「やります」
アンナは頷いた。
「では、明日から開始します」
悠斗は立ち上がった。
扉へ向かう。
「風間さん」
振り返る。
「仮想世界で使用する名前を、今決めていただけますか」
「名前?」
「現実世界との心理的な区別を作るためです。以前使用していたキャラクター名でも構いません」
昔のキャラクター名。
思い出そうとした。
高校生の自分がつけた、無駄に長くて格好つけた名前。
思い出した瞬間、使う気が失せた。
「レオンで」
適当に答えた。
「レオン」
アンナが入力する。
「分かりました」
翌日。
悠斗は治療用ベッドに横たわっていた。
頭部を覆う接続装置。
身体中につけられたセンサー。
医療スタッフが何人か動いている。
隣にはアンナがいた。
「緊張していますか?」
「少し」
嘘だった。
かなり緊張していた。
「途中で危険がある場合、システム側から強制切断します」
「死んだら?」
「仮想世界での死亡ですね?」
「現実で死んだら困ります」
「困る程度では済みません」
「ゲームの方です」
「原則として治療継続可能な形で処理されます。ただし詳細はお伝えしません」
「なんで?」
「死んでも問題ないと知っている人間と、知らない人間では行動が変わるからです」
「それ、結構怖いこと言ってません?」
アンナは答えなかった。
視界の端に文字が表示される。
《接続準備完了》
悠斗は天井を見る。
白い天井。
一年以上、何も始められなかった。
何かを始めても、どうせ続かないと思っていた。
だから始めなかった。
今回は違うのだろうか。
分からない。
ただのゲームかもしれない。
治療なのかもしれない。
何も変わらないかもしれない。
《接続を開始します》
視界が暗くなる。
最後にアンナの声が聞こえた。
「いってらっしゃい、レオン」
意識が落ちる。
そして。
何年も前に置いてきた世界へ、
悠斗はもう一度ログインした。




