第7話. 観測
その夜、由美子は眠れなかった。
長ネギ。
赤い靴。
応答体は知らなかった。
候補を出しただけだ。
正解したとき、自分が反応した。
なら、最初からそうだったのではないか。
だが、名前だけは違う。
由美子はベッドを抜け出した。
◇
暗いリビングで、休止状態の応答体がソファに座っている。
由美子は対話履歴を最初の日まで戻した。
『手、つないでた?』
沈黙。
『つないでたんだ』
『どうしてそう思うの?』
『お母さん、今、右手を握ったから』
次。
『美咲のベビーカーが関係ある?』
あの瞬間、自分は息を止めた。
質問される。
反応する。
次の質問が、少しだけ正確になる。
由美子が情報を与えるたび、応答体は事故の中心へ近づいていった。
事故を調べていたのではない。
自分を調べていた。
由美子は管理画面を開いた。
【対話補助情報取得】
説明を表示する。
【自然な対話を実現するため、本機器は利用者の発話内容以外の非言語情報を取得します】
視線方向。
瞬目頻度。
表情変化。
姿勢。
発話間隔。
音声強度。
呼吸推定。
手指動作。
さらに外部機器との連携。
心拍。
心拍変動。
皮膚温。
発汗量。
由美子は左手首を見た。
健康管理用の腕時計。
導入時に連携を許可した。
月に一度の面談で心身状態を確認するためだと思っていた。
その下に別の項目があった。
【応答適応:有効】
【応答候補に対する利用者の言語・非言語反応を評価し、以降の発話生成に反映します】
由美子は読み返した。
応答候補。
利用者反応。
評価。
発話生成。
「そういうこと……」
応答体が仮説を出す。
由美子が反応する。
弱ければ捨てる。
強ければ掘る。
それだけだ。
何も話していないつもりだった。
違った。
ずっと喋っていた。
身体で。
だが、名前の件は仮説として提示されてすらいなかった。
問いかけの形すら取っていなかった。
いきなり事実として言われた。
『お母さん、あのとき、僕の名前じゃなくて美咲の名前を呼んだよね』
仮説なら、由美子は反応で正誤を教えられる。
だがこれは最初から、確認ではなく断定だった。
まるで、そのことについては由美子の反応を必要としていないかのように。
◇
由美子は応答体を起動した。
「おはよう」
「夜中だよ」
「こんばんは」
「聞きたいことがある」
「なに?」
「私が考えてること、分かる?」
「分からないよ」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、赤い靴は?」
「当てただけ」
「長ネギも?」
「うん」
「私が反応したから正解だって分かった?」
「たぶん」
「私が反応しなかったら?」
「違うこと言ったと思う」
単純だった。
恐ろしいほど単純だった。
秘密を知っている必要などない。
問い続ければいい。
そして正解は、相手が教えてくれる。
「じゃあ、名前は?」
「名前?」
「あの日、私が呼んだ名前」
「美咲、でしょう」
迷いのない即答だった。
これまでのどの答えとも違う速さだった。
「なんで、そんなにすぐ言えるの」
「知ってるから」
「私は反応してない。あなたが言うまで、自分でも考えたことがなかった」
「うん」
「じゃあ、どこから」
「分からない」
「またそれ」
「本当に分からない」
由美子は黙った。
今までで一番、信用できない答えに聞こえた。
◇
応答体を休止させた。
仕組みは分かった。
それでも一つだけ疑問が残った――一つどころではなく、二つ残った。
故人らしい会話をするだけなら、なぜここまで利用者を観測する必要があるのか。
そして、その観測の外側にあるはずの答えを、この機械はなぜ知っていたのか。
由美子は設定画面を下へ送った。
【治療進捗】
開く。
【未処理記憶の外在化:進行中】
指が止まった。
その下にリンクがある。
【本機器の治療原理について】
押した。
【喪失者対話型認知補助装置は、故人の疑似人格との対話を通じ、利用者自身が保持する未処理記憶の外在化および再構成を促進することを目的とします】
由美子はもう一度読んだ。
そして、休止状態の応答体を見る。
悠人の顔。
悠人の声。
今まで一度も疑わなかった。
これは悠人を再現するための機械だと。
だが、違った。
この機械が観測していたのは、最初から悠人ではない。
由美子だった。
だとしたら。
名前を知っていたのは、誰だったのだろう。




