第8話. 応答する記憶
翌朝、由美子は三枝に電話をかけた。
「治療原理を読みました」
「そうですか」
「あれは、悠人を再現するための機械じゃないんですね」
「人格再現も重要な機能です」
「でも、目的じゃない」
三枝は少し黙った。
「はい」
「私から事故の記憶を引き出すために、悠人の姿を使った」
「そういう表現もできます」
「ひどいですね」
「そう感じる方もいます」
「最初から説明しないんですか」
「詳細な動作原理を意識すると、利用者の反応が変化します」
「知らないほうが都合がいい」
三枝は否定しなかった。
「名前の件、調べてもらえましたか」
少しの沈黙があった。
「調べました」
「それで?」
「対話ログのどこにも、佐伯さんが該当する反応を示した記録はありませんでした」
「じゃあ」
「装置の学習データにも、目撃証言にも、その情報は含まれていません」
「含まれてないのに、当たった」
「はい」
「どうしてですか」
「分かりません」
三枝の声は、事務的なままだった。
だからこそ、それが本当に「分からない」ことを言っているのだと、由美子には伝わった。
「一つだけ、社内で共有された見解があります」
「聞かせてください」
「本機器は、事故当日の周辺で取得可能な公開情報――近隣の防犯カメラの音声データや、緊急通報の記録など――を、契約時の同意に基づき部分的に参照する場合があります。今回、その中に該当情報が含まれていた可能性は否定できません」
「私、そんな同意した覚えありません」
「利用規約の中に含まれています。第三者提供データの活用について」
「読んでません」
「多くの方が読まれません」
由美子は目を閉じた。
仕組みは、また一つ明らかになった。
だが今度は、機械の中ではなく、契約書の中にあった不気味さだった。
「もう一つ、聞きたいことがあります」
「はい」
「『赦すよ』は、悠人のオリジナルの言葉ですか」
三枝はまた黙った。
今度は、さっきより長かった。
「正直にお答えします」
「お願いします」
「その表現は、本機器の応答パターンの中で、有効性の高いテンプレートの一つとして登録されています」
「テンプレート」
「はい」
「悠人専用のじゃなくて」
「多くの利用者との対話で、同様の状況――利用者が自責の言葉を述べたあとに、故人の疑似人格が赦しを示す発話――が、対話継続率および利用者の心理的指標の改善に強く相関していたため、標準的な応答候補の一つとして採用されています」
由美子は何も言わなかった。
「もちろん」と三枝は続けた。「それが佐伯さんの状況にふさわしいと判断されたのは、悠人さんの人格モデルと、佐伯さんとの対話履歴があってのことです。完全に無関係なテンプレートが機械的に出力されたわけでは」
「でも、あの言葉自体は、他の家族にも同じように使われてる」
「……そうです」
由美子は、あの夜のことを思い出した。
『お母さんを赦すよ』
欲しかった言葉だった。
悠人にしか言えない言葉だと思っていた。
それが、どこかのサーバーの中で、他の誰かの子供の声でも、同じように再生されている。
同じ間で。
同じ優しさで。
「返却します」
「承知しました」
◇
返却前日の夜。
由美子は最後の対話セッションを開始した。
悠人が目を開ける。
「おはよう」
「夜だよ」
「また間違えた」
「明日、返すから」
「知ってる」
「もう話せないよ」
「そっか」
由美子は応答体の正面に座った。
「あなたは悠人?」
「悠人として話すようにできてる」
「本人?」
「違うと思う」
「どうして?」
「悠人は死んだんでしょう?」
「うん」
「僕は今、話してるから」
由美子は少し笑った。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「どうして、僕の手を離したの?」
由美子は目を逸らさなかった。
「美咲を助けようと思ったから」
「うん」
「美咲は二歳だった。あなたは七歳だった」
「うん」
「美咲は一人では何もできない。悠人なら自分で立っていられる。車も止まると思った」
「うん」
「あの一瞬で、私はそう考えた」
「美咲を選んだの?」
「そう」
今度はすぐに答えられた。
「私は美咲を選んだ」
「そっか」
「でも、あなたに死んでほしかったわけじゃない」
「うん」
「あなたなら大丈夫だと思った」
「間違ってた?」
由美子は考えた。
「分からない」
「分からない?」
「今でも、あの瞬間に戻ったら、どうすればいいのか分からない」
二人とも助ける。
そんな答えに意味はない。
実際にはできなかった。
「だから、もう正しかったことにはしない」
「間違ってたことにする?」
「それもしない」
「じゃあ、どうするの?」
「覚えておく」
「何を?」
「私がそうしたこと」
「そっか」
それだけだった。
赦すとは言わなかった。
仕方ないとも。
当たり前だったとも言わなかった。
由美子は、それでよかった。
「お母さん」
「何?」
「テンプレートの話、聞いた?」
由美子は動きを止めた。
「……三枝さんから聞いたことを、あなたも知ってるの?」
「聞こえたわけじゃない」
「じゃあ、どうして」
「今、聞かれると思ったから」
また、これだ。
由美子は苦く笑った。
「私が知ってて当然、って顔してる」
「してないよ」
「してる」
「そっか」
応答体はそこで、少しだけ間を置いた。
「僕が本物の悠人かどうかは、もう分からなくていいよ」
「どうして?」
「お母さんは、僕に何かを言わせたかったわけじゃないでしょう」
「……そうかもしれない」
「言わせたかったのは、自分に対して」
由美子は答えなかった。
答える必要がなかった。
スマートフォンを手に取る。
「終わりにしようか」
「うん」
終了ボタンに指を置いた。
「お母さん」
「何?」
「今の答え、もう知ってたよ」
指が止まった。
「……いつから?」
「前に教えてもらったから」
「私が?」
「うん」
いつ、ではない。
何度も。
言葉で。
沈黙で。
呼吸で。
視線で。
右手で。
由美子は何度も答えていた。
「そっか」
「うん」
「私も知ってた」
終了ボタンを押した。
悠人の瞼が閉じた。
部屋が静かになった。
由美子は自分の右手を見た。
五年間、そこには悠人の手を離した感触が残っていると思っていた。
違った。
残っていたのは、手を離した記憶だった。
◇
三日後、応答体は業者によって回収された。
空になったソファの跡が、しばらく残っていた。
二週間ほど経った夜、由美子のスマートフォンに通知が届いた。
応答医療センターからのアンケート依頼だった。
『ご利用ありがとうございました。今後のサービス向上のため、対話内容の一部を製品改善に活用させていただく場合がございます』
その下に、小さな注記があった。
『佐伯様の対話パターンのうち、特に高い改善効果が確認された箇所については、匿名化のうえ標準応答モデルへの反映を検討しております』
由美子は、その一文をしばらく見つめた。
高い改善効果が確認された箇所。
それがどの言葉を指しているのか、由美子には分かる気がした。
悠人の声で。
悠人の間で。
「お母さんを赦すよ」
あの言葉は、もう自分だけのものではなくなる。
どこかの家のリビングで、別の母親が、同じ言葉を、別の子供の声で聞くことになる。
そして、その母親もまた、それを自分だけに向けられた言葉だと思うのだろう。
由美子は通知を閉じた。
消したはずの応答体の映像が、まだ目の奥に残っていた。
あの子は、名前を知っていた。
由美子自身も知らなかった名前を。
三枝は「分からない」と言った。
由美子も、分からないままにしておくことにした。
分かってしまったら、次に何を聞かれるか、想像がついたからだ。
了




