第6話. 残響
一週間、事故の話をしない。
三枝との約束を、由美子は三日で破った。
正確には、自分から話したわけではない。
夕食後だった。
和也は風呂に入り、美咲は自分の部屋にいる。
由美子は洗濯物を畳み、応答体はテレビを見ていた。
ニュースで交通事故が報じられた。
由美子は反射的にチャンネルを変えた。
「今の、事故?」
「違うよ」
「車が映ってた」
「もう終わった話だから」
「そっか」
それだけだった。
由美子は息を吐いた。
三枝の説明を聞いてから、以前ほど応答体を怖いとは思わなくなっていた――名前の件を除けば。
人格モデル。
推論。
自分の反応。
仕組みが分かれば、ただの機械だ。
だが、仕組みで説明できない一点があることも、由美子は忘れていなかった。
「お母さん」
「何?」
「長ネギ、嫌いだった?」
手が止まった。
「……何?」
「長ネギ」
「どうして?」
「なんとなく」
美咲のシャツが指から落ちた。
事故の日。
ベビーカーにはスーパーの袋を掛けていた。
前輪が段差に引っかかった瞬間、袋から長ネギが一本落ちた。
事故のあと。
道路に悠人が倒れていた。
その少し先に、長ネギが転がっていた。
白い部分にタイヤの跡がついていた。
誰にも話していない。
「どうして長ネギなの?」
「分からない」
由美子はスマートフォンをつかんだ。
対話履歴を検索する。
ネギ。
長ネギ。
事故の日の買い物。
該当する会話はない。
「お母さん?」
「黙って」
「うん」
偶然だ。
ありふれた食材だ。
「お母さん、長ネギ嫌いだったよね」
「嫌いじゃない」
「じゃあ、なんで捨てたの?」
由美子は顔を上げた。
「……何を?」
「長ネギ」
「いつ?」
「分からない」
「今、捨てたって言ったでしょう」
「うん」
「いつの話?」
「お母さんが知ってると思った」
事故の翌日。
由美子は冷蔵庫を開けた。
牛乳。豆腐。豚肉。
そして、もう一本の長ネギ。
見た瞬間に吐いた。
その日のうちに、事故当日に買った食品をすべて捨てた。
それ以来、長ネギを一本のまま買っていない。
刻まれたものだけを買っている。
そのことさえ、自分では意識していなかった。
「やめて」
「何を?」
「事故の話」
「してないよ」
「してるでしょう!」
応答体が黙った。
「三枝さんに言われたの。事故について話さないって」
「僕、事故って言ってないよ」
「長ネギが事故の話なの!」
口にしてから気づいた。
また自分で教えた。
「……今の忘れて」
「忘れられないよ」
「この話は終わり」
「分かった」
由美子はスマートフォンに手を伸ばした。
「お母さん」
「何?」
「赤い靴」
指が止まった。
「……何?」
「赤い靴」
「誰の?」
「分からない」
呼吸ができなかった。
事故の日、悠人が履いていた赤いスニーカー。
衝撃で左足の靴だけが脱げた。
横断歩道の白線の上に落ちていた。
由美子はそれを拾い、救急車の中でも握っていた。
「やめて」
「お母さん?」
「やめて!」
応答体が黙る。
「どうして知ってるの?」
「何を?」
「赤い靴! 悠人が履いてた。事故の日に!」
まただ。
また教えた。
だが、最初に「赤い靴」と言ったのは応答体だ。
「どこから出したの?」
「分からない」
「そんなわけない!」
「本当に分からない」
「事故の記録は入ってない!」
「じゃあ、お母さんかな」
由美子は動きを止めた。
「……何?」
「お母さんが教えてくれたのかも」
「教えてない」
「言葉では」
背中に冷たいものが走った。
「どういう意味?」
「お母さんがすごく反応するから」
「それは、あなたが言ったあとでしょう!」
「うん」
「だったら私から知ることはできない!」
「そうだね」
「じゃあ、どうして!」
答えない。
由美子は対話セッションを終了しようとした。
「待って」
「もう終わり」
「赤い靴って言う前」
「何?」
「お母さん、足元を見てたよ」
由美子は自分の足元を見る。
何もない。
「それが何?」
「同じ場所を何回も見てた」
「だから?」
「そこに何かあるみたいに」
由美子には見えた。
白い横断歩道。
その上に落ちた、小さな赤い靴。
「でも、赤だとは分からないでしょう」
「美咲のランドセル」
由美子は振り返った。
壁際に赤いランドセルがある。
「赤いものを見たあと、足元を見てたから」
「それで靴?」
「子供の事故の話をしてたから。当ててみた」
「長ネギは?」
「テレビに野菜が映ったとき、お母さんが口を押さえた」
由美子は何も言えなかった。
長ネギも、赤い靴も、筋は通っている。
仕組みは分かる。
だが名前は違う。
あの質問には、差し出す反応がなかった。
「お母さん」
「……何?」
「怖い?」
由美子は答えなかった。
「僕が?」
「違う」
「じゃあ何が?」
由美子は目の前の七歳の顔を見た。
「私」
そう言ったあとで、由美子はもう一つ付け加えた。
「それと、あなたの中に私じゃないものが混ざってる気がする」
応答体は、初めてすぐに答えなかった。
何秒か、ただ由美子を見ていた。
それは今までのどの沈黙とも、少し違って見えた。




