第5話. 再構成
翌朝、由美子は定期面談の予定を変更した。
本来なら三週間後だった。
その日の午後、由美子は駅前のビルに入っている明邦メディカルシステムの応答医療センターを訪れた。
白い壁に灰色のソファ。観葉植物。病院というより、企業の相談窓口に近い。
担当者は三枝と名乗った。臨床支援部に所属しているという。
四十代くらいの痩せた男で、白衣ではなく紺色のシャツを着ていた。
「応答体が、知らないはずのことを知っています」
「具体的には?」
「息子の事故です」
由美子はこれまでの経緯を説明した。
事故関連情報は学習対象から除外している。それなのに応答体は、悠人と手をつないでいたこと、車が接近していたこと、美咲のベビーカーが傾いたことを推測した。
そして最後には、自分が二人を比較したことまで言い当てた。
三枝は途中で口を挟まなかった。
「一つ訂正します」
説明を聞き終えると、三枝は言った。
「応答体は事故について『知っていた』わけではありません」
「でも、当てました」
「推論です」
「サポートセンターでもそう言われました」
「もう少し詳しく説明しましょう」
三枝はタブレットを由美子へ向けた。
人間のシルエットの周囲に、音声、映像、文章、行動履歴という文字が並んでいる。
「応答体に故人の記憶そのものが保存されているわけではありません。残された記録から、その人ならどう考え、どう話す可能性が高いかをモデル化しています」
「人格モデル?」
「そうです」
「だから、記録にないことにも答えられる?」
「ある程度は」
由美子は河原の写真を思い出した。
自分は相模川だと思っていた。
応答体は多摩川だと言った。
正しかったのは応答体だった。
「事故も同じですか」
「基本的には」
「事故の記録はないのに?」
「事故以外の情報はあります。七歳の悠人さん。二歳の妹さん。ベビーカー。母親と手をつなぐ習慣。そして交通事故で死亡したという事実」
「それだけで?」
「それだけではありません」
三枝は由美子を見た。
「佐伯さん自身も情報を与えています」
「私?」
「応答体が質問する。佐伯さんが答える。その内容は次の応答に利用されます」
「言葉にしてないこともあります」
「表情や視線、発話間隔などの非言語情報も、自然な対話のために参照されます」
由美子は思い出した。
『美咲のベビーカーが関係ある?』
身体が強張った。
『お母さん、今、息止めたから』
「じゃあ、私が教えた?」
「一部はそうでしょう」
「『僕なら一人でも大丈夫だと思った?』も?」
「そこには人格モデルも関係します」
三枝は続けた。
「悠人さんは、生前どんなお兄さんでしたか」
「美咲の世話を焼いてました。自分がお兄ちゃんだからって」
「その傾向もモデル化されています。二歳の妹は自分では危険を避けられない。七歳の自分ならある程度できる。そう考える人格なら、事故の状況からその可能性を推論しても不思議ではありません」
筋が通っていた。
由美子はほとんど納得しかけた。
「じゃあ、一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あの子は、私が呼んだ名前まで知ってました」
三枝の指がタブレットの上で止まった。
「なんと?」
「事故の瞬間、私が誰の名前を呼んだか」
由美子は続けた。
昨夜、休止直前の応答体が言ったことだった。
『お母さん、あのとき、僕の名前じゃなくて美咲の名前を呼んだよね』
由美子はそれを、ずっと自分の記憶の中で悠人の名前だったことにしていた。
五年間、一度も疑ったことがなかった。
だから反応のしようがなかった。
握る手も、止める息も、逸らす視線も――何も差し出していないはずだった。
「その質問の前、由美子さんは何か反応を?」
「してません。したくてもできません。私は自分が美咲の名前を呼んだ可能性なんて、一度も考えたことがなかったから」
三枝はしばらく黙った。
タブレットの画面をスクロールする指が、わずかに速くなった。
「……対話ログを確認させてください」
「確認して、それで?」
「反応適応の記録に該当するパターンがなければ、通常の推論の範囲を超えます」
「超えたら?」
「原因を調べます」
答えになっていなかった。
由美子はそのことに気づいたが、指摘しなかった。
「一つ確認なんですが」
三枝が言った。
「事故当時の目撃者供述に、名前についての記述はありましたか」
「知りません。警察の記録は読んでいません。読めなかったので」
「では、この装置がその情報に事後的にアクセスした可能性は、原則としてありません」
三枝は静かにそう言った。
肯定でも否定でもない、事実確認だけの声だった。
「じゃあ、どこから」
「分かりません」
初めて、三枝は「分かりません」と即答した。
由美子は息を吐いた。
心を読まれたわけではない、と思っていた。
悠人という人間を精密に再現した結果、同じ答えにたどり着いただけだと。
だが今の質問は、その説明の外側にあった。
「じゃあ、赦すって言ったのも?」
三枝の表情がわずかに変わった。
「何と言ったんですか」
「『僕でも美咲を選んだと思う』『お母さんを赦す』って」
「その発言を悠人さん本人の意思だとは考えないでください」
「でも、人格モデルが言ったんでしょう?」
「人格モデルだけで発話しているわけではありません。対話履歴や佐伯さんの反応も影響します」
和也の言葉を思い出した。
『由美子が、言ってほしかった言葉なんじゃないのか』
「私が赦してほしかったから?」
「その可能性もあります」
「じゃあ、どっちなんですか」
「区別できません」
「悠人が言いそうだから言ったのか、私が言ってほしかったから言ったのか」
「その二つを完全に分離することはできません」
「だったら」
由美子はタブレットの人型を見た。
「私は誰と話してるんですか」
三枝は少し間を置いた。
「少なくとも、悠人さん本人ではありません」
分かっていたはずの言葉だった。
それでも胸が痛んだ。
「名前の件は、こちらでも預からせてください」
「調べるってことですか」
「はい」
「結果は教えてもらえますか」
「分かり次第」
その言い方に、由美子は初めて三枝への信頼が少し揺らぐのを感じた。
「しばらく事故についての対話は避けてください」
「どうして?」
「応答体が生成した推論と、佐伯さん自身の記憶が混ざる可能性があります」
「私は区別できます」
「本当に?」
由美子は答えなかった。
◇
帰宅すると、応答体は休止状態でソファに座っていた。
七歳の悠人。
昨日、自分を赦した息子。
違う。
自分を赦す言葉を生成した機械。
『お母さんを赦すよ』
あれは悠人から出てきたのか。
それとも、自分から出てきたのか。
由美子は目を閉じた応答体を見た。
その顔は鏡には似ていない。
けれど、そこに映っているものが悠人だけではないことを、由美子はもう知っていた。
そして、鏡でも説明できないものが、少なくとも一つだけ残っていることも。




