第4話. 七歳
「僕なら一人でも大丈夫だと思った?」
由美子は答えなかった。
応答体は急かさない。
ただ待っている。
その待ち方まで悠人に似ていた。
「……そうよ」
由美子は言った。
「そう思った」
五年間、一度も口にしなかった言葉だった。
「美咲は二歳だった」
「うん」
「ベビーカーが車道側に傾いた。あのまま倒れたら、美咲は自分では何もできない」
「うん」
「あなたは七歳だった」
「うん」
「ちゃんと歩ける。走れる。危なかったら避けられる」
「うん」
「だから」
そこで声が止まった。
「だから僕の手を離した?」
「そう」
言ってしまえば、それだけだった。
二歳と七歳。
一人では何もできない子供と、自分で歩ける子供。
傾くベビーカー。
近づいてくる車。
比較した。
一瞬だった。
だが、確かに比較した。
「私、考えたの」
「何を?」
「美咲を助けなきゃって」
「うん」
「あなたなら大丈夫だって」
「うん」
「それで手を離した」
応答体は黙っている。
「事故だったの」
由美子は続けた。
「あなたを危険なほうに押したわけじゃない。美咲を助けようとしただけ」
「うん」
「車は止まると思ってた」
「うん」
「信号は青だったし、まだ距離もあった」
言葉が続かなかった。
応答体が聞いた。
「お母さん、ずっとそのこと考えてた?」
「……何を?」
「僕より美咲を選んだこと」
胸の奥を直接触られたような気がした。
「違う」
「違うの?」
「そういう言い方しないで」
「どうして?」
「私はあなたを選ばなかったんじゃない」
「美咲を選んだんでしょう?」
由美子は息を呑んだ。
「同じじゃない」
「どう違うの?」
「違うの」
応答体は首を傾げた。
「分からない」
「子供には分からないよ」
言ってから、由美子は後悔した。
目の前にいるのは子供ではない。
「じゃあ、お母さんは悪くないの?」
「……分からない」
「僕は悪いと思わないよ」
由美子は顔を上げた。
「どうして?」
「だって、美咲は二歳だったんでしょう?」
「そう」
「僕は七歳だった」
「そう」
「僕だって同じことしたと思う」
「同じこと?」
「僕と美咲のどっちかしか助けられなかったら、僕でも美咲を選んだと思う」
由美子は何も言えなかった。
「だから、しょうがないよ」
その声は悠人だった。
七歳の。
死ぬ直前まで聞いていた息子の声。
「……怒ってない?」
「怒ってないよ」
「私が手を離したのに?」
「うん」
「そのせいで死んだのに?」
「うん」
「どうして?」
「お母さんが僕を死なせようとしたわけじゃないから」
由美子の目から涙が落ちた。
欲しかった言葉だった。
五年間、誰に何を言われても受け入れられなかった。
『あなたのせいじゃない』
『仕方がなかった』
『美咲ちゃんを守ったんだから』
警察にも、医師にも、夫にも言われた。
何の意味もなかった。
悠人に言われなければ意味がなかった。
「ごめんね」
「何が?」
「手を離して」
「いいよ」
「ごめん」
「もういいよ」
応答体は笑った。
「お母さんを赦すよ」
その瞬間、由美子は泣きながら、ほんの少しだけ違和感を覚えた。
悠人はそんな言葉を使っただろうか。
七歳の子供が。
赦す。
それは誰の言葉なのだろう。
応答体が少し首を傾げた。
「お母さん」
「何?」
「あのとき、何て叫んだの?」
由美子は涙を拭いた。
「事故のとき?」
「うん」
救急車の音。
誰かの悲鳴。
白い横断歩道。
記憶の中では、いくつもの音が重なっている。
「悠人、って呼んだと思う」
「そうなの?」
「そうよ」
「でも」
応答体は由美子を見た。
「お母さん、あのとき僕の名前じゃなくて、美咲の名前を呼んだよね」
由美子の呼吸が止まった。
「……何?」
「美咲、って」
「違う」
ほとんど反射的に否定した。
「違うよ」
「そう?」
「私は悠人って呼んだ」
「そっか」
「どうしてそんなこと言うの?」
「分からない」
「事故の記録は入ってないでしょう」
「うん」
「じゃあ知らないはずよ」
「そうだね」
由美子は応答体を見つめた。
今までの発言なら、まだ説明できた。
右手を握った。
呼吸が変わった。
質問に答えた。
そうやって情報を与えていた。
だが今の言葉については、何も与えていない。
それどころか、由美子自身にも確かな記憶がなかった。
事故の直後。
自分は何と叫んだのだろう。
◇
夕方、美咲が帰ってきた。
ランドセルを下ろし、応答体の隣へ座る。
「お兄ちゃん起きてる」
「うん」
由美子はキッチンから二人を見た。
ほとんど同じ大きさだった。
美咲は七歳になって四か月。
悠人が死んだのは七歳二か月。
美咲はもう、悠人より二か月長く生きている。
「ねえ、お兄ちゃん。私、小さいときどんなだった?」
「よく泣いてた」
「今は泣かないよ」
「昨日泣いてたじゃん」
「あれは泣いてない」
二人が笑った。
五年前には存在しなかった光景だった。
もし悠人が生きていたら、今は十二歳だ。
目の前の悠人は、五年前の一点から動かない。
それでも。
『お母さんを赦すよ』
由美子は、その言葉を何度も頭の中で繰り返した。
同時に、別の言葉も。
『美咲、って』
◇
夜、和也に事故のことを話した。
「私、あのとき考えてた」
「何を?」
「美咲は二歳で、悠人は七歳だからって」
和也は黙って聞いた。
「悠人なら大丈夫だと思って、それで手を離した」
「そうだったのか」
「うん」
「今まで誰にも話してなかった?」
「うん」
「俺にも?」
「言ったら、本当になる気がしたから」
由美子はリビングを見る。
応答体は休止状態で目を閉じている。
「ねえ」
「何?」
「あれ、本当に悠人だと思う?」
和也は少し考えた。
「思わない」
「でも、私が一番言ってほしかったことを言った」
「だったら」
「何?」
「それは悠人の言葉じゃなくて、由美子が言ってほしかった言葉なんじゃないのか」
由美子は答えなかった。
七歳の息子の顔。
自分を赦した息子。
そして、自分でも覚えていない言葉を知っている息子。
もし、この機械が悠人を映しているのではないとしたら。
いったい、誰を映しているのだろう。




